2010年の5月頃、私は体外離脱をして、
「北極でマイ・ミュート・アーテに遭遇した」
ということを度々書いてきたが、正確に言うと、
真っ白な不思議な世界で巨大な女神と遭遇したのである。
その姿は地球人と変わらなかったが、
身長が3〜4メートル程もあり、
ピンクと紫のオーラを放ち、
炎のように揺らめいているような感じだった。
そのオーラの為に、人種はよく分からなかったが、
現代日本人のような顔立ちで、かなり美形だった。
それが地平線の遥か彼方から、
超スピードで一瞬にして私の横まで飛んできたのである。
天も地も真っ白な世界なので、地平線も認識できなかったが、
地平線の彼方から飛んできたことは間違いないと思われる。
では、「マイ・ミュート・アーテ」とは何か……。
アリオンのメッセージに登場する名前だが、
以下のサイトに解説されているので転載しておく↓
『炎で書いた物語』
http://fumio.music.coocan.jp/honoo0015.htm汝等に伝える 我らが母 マイ・ミュート・アーテは
既に北極磁気圏内に在る 心して 生きよ 星降る夜は近い
前回の「光の黙示録」の抜粋に続く
「汝等に伝える」以下の部分をご覧いただこう。
「我らが母マイ・ミュート・アーテ」とここにもまた知らない名前がある。
この方の正体本質に迫ってみる。
例によって「マイ・ミュート・アーテ」の音素をみるためにローマ字にする。
MAI MUTO ARTE
または MI MUUTO AATE
天の目で逆にしてみると、
えたら おつみあむ、あるいは えた あおつ 海 む、
となってもどかしいが答えに届きそうで届かない。
逆さ言葉ではないようだ。いつもうまくいくとはかぎらない。
英語ならmy mute arte
となるが残念ながら意味がありそうで、どこか少し外れている。
「我らが母」で思い浮かぶのは
天空神Uranosの妻、地母神、Gaiaガイア、
エジプトの豊穣の女神Isisイシス、
それはキリスト教では聖母マリアに変化した。
マリアの線で考えると使用される音素が似ている。
ややこしいが英語の授業でよくやるアナグラムという
単語のアルファベットの入れ替えゲームをする。
時間のある方はご自分で試していただきたい。
MARIAのアルファベットを入れ替えてアナグラムしても
MAI MUTO ARTEとはならない。
フランス語ならノートルダム、NOTRE DAMEで聖母だが
これをアナグラムしてもやはり合わない。
どこか違う。
これでは煮詰まるので日本の女神を呼ぼう。
なんといっても代表は天照大神様。
AMATERASUならどうか。
AMATERASUとMAI MUT ARTEは
IとS以外の音素が同じだ。
AMATERASUのSだけ抜いてアナグラムすれば
マ ミュート アーテ が浮かぶ。
母は英語でMOTHER、偉大な母、グレイトマザー、
GREAT MOTHER。
そしてその語源を遡るとMATTER(物質)
母とは物の元だから。
この単語はほとんどス抜きのアマテラスそのもの。
AMATERA→MATTER(物質)
どうやらス抜きのアマテラスさんが物を作る神様で、
「我らが母」だったようだ
そして、このキィワードを十文字に並べる。
A
M
A
T
E
R
A
AMATERA ARETAMA
A
R
E
T
A
M
A
この中心の口にSが入ればこの図は完成する。
Sとはス、すなわち、主
なぜか、、、、。
アマテラスはおひとりではない。
この世には天照日大神、アマテラスヒオオカミ。
横棒の日の大神。これがス抜きのアマテラスさん。
縦棒がないから。十(ス)が抜けている。
そして、天には天照皇大神アマテラススメラオオカミ。
こちらが正神。ちゃんと主が入っている。
皇はスメとも読む。
その意味は十の目、あるいは主(ス)の米(メ)。
上図の十字のヘソ。そこに在す大神様。
天にマシマスというときの天とは点のことで十の中心点を指している。
以前、スメラ=カイと説明(なく書いたが)
ここまでお読みいただいた方にはもうわかるだろう。
最終章までの時間的余裕がなくなってきたのこの機会に解説しておこう。
カイとは気のこと。
KIと書いて、音霊はカイとキである。
氣は前に説明したように、米に示される宇宙エネルギーの本体。
そして、スメラは十を重ねた米の中心。
どちらも同じものを違う呼び方で呼んでいるだけであった。
汝等に伝える 我らが母 マイ・ミュート・アーテは
既に 北極磁気圏内に在る 心して 生きよ 星降る夜は近い
「我らが母 マイ・ミュート・アーテ」すなわち
アマテラスさんは北極磁気圏内にあって待っていらっしゃるらしい。
われわれも 星降る夜のために準備をしなければ…。転載終了
真っ白な世界で女神と遭遇し、即座に
「マイ・ミュート・アーテだ」と思ったわけではない。
その後の、啓示や様々な外応やシンクロによって、
私が行った世界は「北極」で、
女神は「マイ・ミュート・アーテだったのではないか!」
と、確信に近いものを持ったのであった。
さきたま古墳公園と炎の祭典
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/148786061.htmlピラミッドと変換人型ゲシュタルト思考
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/149617160.html32歳の獣G
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/150496263.html■経緯の説明(続き)
テン氏に「私はあなたの投影です」と何度も言ってきました私自身が、テン氏が自分の投影だと認めて受け入れることができなかったのです。
黄金太陽の中心点(天)が5次元の入口
私は5次元に通じているけど、テン氏を自分の投影だと認められない時点で、5次元の意識レベルとは言えないことになります。
テン氏を自分の投影であることを完全に受け入れた時、黄金太陽の中心点(テン)から5次元に移行できるのだと思いました。
今までとどう変化するかは未知との遭遇ですが。
昨日、テン氏はその為に送り込まれた使者だという閃光のような直感が走りました。
織音氏の再臨の少し前に、テン氏に以下のコメントをしようとしました↓
「以前、あなたと同じように私のことを嘘つきとか騙されたという人がいましたが、それも私からすると全くの見当違いでした」
これを書き込もうとしていた矢先に織音氏が再臨し、そのタイミングに驚きました。
そのコメントも私からすると殆どが思い違いでしたが、2人とも同じ霊界の影響下にあり、タイプ的にも共通する特徴を持ち、似たような状況を私が作り出したということも一致します。
そして今日、テン氏が5次元の入口である黄金太陽の中心点(天)であるなら、織音氏は5次元(オリオン領域)を暗示しているという閃光が走りました。
まず、テン氏が私の投影であることを昨日から受け入れる努力を始めたので、今現れているテン氏は昨日までとは少し違うバージョンなのです。
私は1年以上前から織音氏の再臨を待っていました。
今日まで織音氏が私にとっての救世主だったとは気づきませんでしたが、救世主には色々な形があるものだと感心しました。
今の私にとって、テン氏は織音氏の窓口のようなものですが、やはり私の投影であるテン氏も様々な気づきを与えてくれた救世主です。
窓口と言っても、私の世界ではテン氏とのハルマゲドン(投影として受け入れる葛藤=内観)は始まったばかりですが。
織音氏は今のところコメント介入に深入りする意志はないようですが、織音氏とテン氏の霊界が2人を動かして戦いを挑んで来るでしょう。
私の最後の魔界戦争(我が闘争)だと思いますが、何という手の混んだ進化プログラムだろうか!
二度の閃光のような直感により、これもハイヤーセルフに仕組まれていたことを感じます。
もちろん、読者の意志レベルもUPするはずです。
2014-04-11 23:19:02
神との対話
http://ameblo.jp/hooooponopono-amanasu/theme-10032686234.html111.86.147.**
111.86.147.
111.86.147.80
111.86.147.77
111.86.147.79
111.86.1**.*
111.86.1**.**
111.86.1**.***
111.86.147.7
111.86.147.75
111.86.143.197
2014年の黙示録【後編】
潜在意識の浄化の重要性を述べたが、
その為にはまず「意識改革」が必要である。
それを神道的な表現で「副守護神の改神」というが、
その為に最も有効な手段が「食事改革」である。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉がある通り、
食事の内容や量で精神状態が変わることは紛れもない事実である。
また、古語で「霊」を「チ」と読み、
「血」との関連性を示唆しているが、
王仁三郎も「赤血球は霊界との交通機関」だと述べている。
人間が死ぬと赤血球が一気に減少するそうだが、
それも血液と霊の関係性を物語っている。
故に、清浄な血液を造る為の食事が重要なのだ。
また、内臓が人間の心を生み出しているというが、
胃は「意」に通じ、腸は「第2の脳」と呼ばれている。
従って、半日断食(朝食抜き)だけでもいいが、
定期的に胃腸を休めて、腸内を浄化することも忘れてはならない。
スウェデンボルグ
食べ過ぎ
『日月神示』には次のように示されている↓
共食い
副守護神を改神させずにワクワクを追求すれば、本能や欲望に走って堕落することは明白である。
本能や欲望は必要だから備わっているものであり、それを否定するのは本末転倒だが、本能や欲望に支配されてはいけないということである。
その本能や欲望をコントロールする為に最も効果的な手段が断食だが、長期間の断食は一般の人々には厳しいものがある。
そこでお勧めするのが「7合食」である。
半田広宣氏は仏教理論に基づいて、進化する人間は2/3、淘汰される人間は1/3だと述べている。
淘汰されるとい言い方は語弊があるが、人類の1/3が潜在的に自滅を望んでいるということである。
だが、『聖書』や『日月神示』によると、1/3が次元上昇して、2/3が滅亡するという。
どちらが正しいかは私には分からないが、1/3がアセンション組、1/3がディセンション組、1/3が中間層だと思われる。
中間層というのは、文字通り、アセンションとディセンションの狭間を揺れ動いている人たちだが、現時点ではアセンション組だが、堕天使ルシファーの寓話の如く、慢心や嫉妬によって転落する可能性もあり、ディセンション組でも反転してアセンション組に入る可能性もある。
いずれにしても、日々の内観が大切なのだが、釈迦やイエスやヒマラヤ聖者、道教や禅や、日本で確立された内観療法も、断食と内観瞑想はワンセットになっている。
断食ではなくても、簡素な菜食や7合食が基本になっているので、巷の内観セミナーのように、万人受けを狙って食事を無視したメソッドでは効果は半減する。
結論として、「食事改革」と「内観」が最重要ということで、私も長年それを徹底して行い、文字通り「魔界戦争」という地獄の思いをして真我覚醒に至った。
その真我覚醒を加速させる効果的な方法が、再三再四書いている通り、覚醒者の世界観を前提にして生活することである。
即ち、「人生は夢であり、この世は自分の内側である」と思うこと。
「自分の世界に存在する他者は自分の投影(自分自身)であり、自分の世界には他者の実体は存在しない」と思うこと。
例えば、AがBに怒って「馬鹿者」と罵って、BがAに対して怒ったとする。
このようなことは人間界でよくある喧嘩だが、私からすれば「お笑い」と同じレベルの滑稽である。
両者ともに「相手が自分の投影」だということに気づかず、鏡で自分の顔を見て怒っているのに等しいからだ。
その意味では、漫才よりもナンセンスで呆れる他ないが、その光景を見ればそれも自分の投影なので、誠に自分ほど厄介な存在はなく、唖然としてしまう。
よく理解できないという人の為に改めて解説するが、「人類はそれぞれ独自の宇宙に存在し、自分がいる宇宙に他者の実体は存在しない」ということを、まず徹底的に頭に焼き付けてもらいたい。
AがBに怒って「馬鹿者」と罵ったとすると、Aは自分のことを「馬鹿者」だと思ったに過ぎないのである。
また、Aは「Bという他者が存在している」という錯覚をしている為に、「Bという奴に馬鹿にされた」と思って怒るのだが、実際にはAにとってBの言葉はA自身の言葉なのだ。
愛する人が通り魔に殺害されたとする。
愛する人も通り魔も実体ではなく自分の投影であり、愛する人が通り魔に殺されたのも自分が設定したストーリーであり、実際には自作自演の夢に過ぎないのに、愛する人を失って悲しんだり、通り魔を憎んだりするのだが、そのような人を見ると、私からすれば漫才にもならない笑えない笑い話である。
だが、それも私の投影ということになる
肉食の弊害
http://kemono666.seesaa.net/article/270876124.html恐怖の動物性食品
http://kemono666.seesaa.net/article/270950032.html動物性タンパク質の有害性
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http://kemono666.seesaa.net/article/271202832.html汝、グリーンライスの7号食で食い改めよ!
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http://kemono666.seesaa.net/article/300517062.htmlテオドールと『日月神示』が説く食と意識とカルマの関係
http://kemono666.seesaa.net/article/301000292.html宇宙を創造する食生活
http://kemono666.seesaa.net/article/301098655.html人類の不老不死を説く法華経の謎
http://kemono666.seesaa.net/article/301517934.html今日から始めるアセンション・プログラム
http://kemono666.seesaa.net/article/270763863.html愛と慈悲の実践
「ポジティプな世界」に行くか「ネガティブな世界」に行くかは、 『食』が大きく関係している。 ポジティブな世界とは次元上昇する「ミロクの世」であり、 ネガティブな世界とは滅亡に向かう3次元の地球である。 要は、次元上昇するか滅亡するか…人類は二極化するということだ。 「臣民の食べ物は定まっているのだぞ。 いよいよとなりて何でも食べるようになりたら、虎は虎となるぞ。 獣と神が分かれると申してあろがな。縁ある臣民に知らせておけよ。 日本中に知らせておけよ。世界の..
ブロック解除
http://blockrelease.net/lp_free/?gclid=CMnM3MKvrrwCFYUhpQodSQMAewその他の注意を要する保存料
http://www.coara.or.jp/~wadasho/tenkasonota.htm間違いだらけの健康常識
http://melma.com/backnumber_31352_525484/健康情報
http://www.coara.or.jp/~wadasho/main.html健康促進データベース
http://emerald-company.com/database_dangerfoods.htm#米・野菜・その他全般
ぷらセンタ
http://www.r-and-y.co.jp/eastec/front/contents/017a/?track_cd=2791&utm_source=yah&utm_medium=banner&utm_campaign=pcadyah004z000c063p124&dmai=2791ガン
http://www.funaiyukio.com/konohito/index_0612.asp三倍偉大なヘルメス
トーラスさんの研究発表を聞いて、そろそろヌーソロジーも
太陽系に潜むヌース(創造的知性)の運動秩序について
ツッコミを入れて行く時期が来たのなぁ、と思っている。
現代科学が説くような時空に浮かぶ
単なる土塊やガス球としての天体ではなく、
持続構造体=霊的構造体としての太陽系。
その探索のためのカギがトーラスさんの研究には網羅されている。
というかまさに宝の山だ。
僕らの次元観は1次元=線、2次元=面、3次元=立体といったように、
直線をベースに組み立てられている。時間を入れたところで事情は同じ。
それは3次元に直交する「線」のイメージにすぎない。
これはドゥルーズがいうところの
空虚な時間の形式をベースにした空虚な空間の形式でもある。
つまり、こうした概念の中にはほんとうの意味での差異=次元はない。
ドゥルーズも直観していたが、
こうした物理学が持った「空虚な空間と時間の形式」とは、
本当の次元認識を人類に用意するための
前準備のようなものとして出現してきている。
カタチで言えば、それは正八面体とそれに外接する正六面体の関係だ。
この二つのカタチには
僕らが3次元と4次元と呼ぶもののイデアがセットされている。
このカタチは下図に示したように
無限に内接・外接関係をくり返して行くが、
ここに外接球や内接球を入れ込んで「層=sphere」として
出現してくるものがOCOT情報が伝えてきた真の意味での次元である。
素粒子も、原子も、そして太陽系も、
この「層=sphere」の形成と深く関係している。
この「層=sphere」の認識を浮上させるために
絶対不可欠なものが「反転」である。
反転はユークリッド的には4次元時空(非ユークリッド空間)と
4次元空間(ユークリッド空間)の差異を作り出し、
さらに、それらを双対化させる視点を与えてくる。
この双対化が数学的には複素空間と深く関係している。
そして、そこに登場してくるカタチがメルカバー、
双対の正四面体である(数学的には四元数空間との関係が臭う)。
この4次元方向の外接・内接への発展構造は
1 :√3 : 3 : 3√3 : 9といったように
√3をイデア比として持っているのだが、これはSFチックに言えば、
例の「2001:宇宙の旅」に登場するモノリスに秘められた聖比率であり、
オカルト的に言えば「ヘルメストリスメギストス
(三重に偉大なヘルメス)」の世界の開示でもある。
月に隠されていた無意識のハルモニアは
木星によって一つの交響楽として奏でられてくるだろう。
そのとき僕たち一人一人の内在の中に新しい太陽が出現してくる。「イデア」というと、
たまにコメントを入れてくれる人を思い出すが、
あまり聞きなれない言葉で意味が分からないので、
Wikipediaで調べてみた↓
まず、ギリシャ語の語彙体系について若干説明しておくと、
ギリシャ語では、見るideo系統の用語としては、
ideinとeidoがあった。
「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞
「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、
つまりものの「姿」や「形」を意味している。
eido の過去形 eidon に由来する「eidos エイドス」という言葉の方は
「形」とか「図形」という意味でごく普通に用いられる言葉であった。
プラトンにおいては、エイドスとイデアは使い分けられており、
イデアに特殊な意味が与えられた。
プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、
言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、
つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。
プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。
「徳とは何か?」という問いがある。
これについて「不知なる対象の探求は不可能だ」
と説く立場(探求のパラドックス説)もあるが、
これに対してプラトンは「学習は想起(アナムネーシス)である」
との想起説によって、このパラドックス説を斥ける。
想起説は、魂は不死だとする説と、輪廻転生の説と連関がある。
プラトンは次のように説明する。
「我々の魂は、かつて天上の世界にいて
イデアだけを見て暮らしていたのだが、
その汚れのために地上の世界に追放され、
肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。
そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、
以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。
だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、
その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。
このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、
かつて見ていたイデアを想起するとき、
我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる」
つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、
と言うのである。
想起説が導入されることでプラトンの哲学は、
劇的な展開をとげ、強固な二元論の立場となった。
そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、
真の philosopher(愛知者)は、
できるかぎりその魂を身体から分離開放し、
魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。
この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、
「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。転載終了。
無学な私には半田氏の話が全く理解できない。
「イデア」という単語を1つ取り上げただけでも、
Wikipediaの説明を読んでもよく分からないが、
以下の部分に関しては興味深い。
philosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、
真の philosopher(愛知者)は、
できるかぎりその魂を身体から分離開放し、
魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。
この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
愛知に住んで「死の練習」を繰り返し、
愛を知った私のエピソードとシンクロする(笑)
以前、億人28号から次のようなメールが届いた↓
「誰も死を理解していない。
誰も愛を理解していないように。
愛を理解せずして 死の意味を理解する事はない…
それほど 私は単独で無防備でした。
傷を低俗な世間にさらしたくないから 強気で駆け抜けて生きてきた。
私の愛を解る人間は私の周りにはいない。
解っている人間は それ故に沈黙して また自分なりの愛を守っている。
だから 閣下の愛の深さが解るのです」逆に言うと、死を理解せずして愛を理解することはない、
ということが言えるだろう。
「イデア」とは一言でいえば「見られるもの」らしいが、
半田氏はこのように言っている。
「見ている者と見られる者の区別のない世界に入っていく。
世界は一気に霊的宇宙に進化していく。
魂は一気に次元上昇を開始する」人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへ
オコツトは、本当のカタチとは<見つめられているもの>
ではなく、<見つめられているもの>と<見つめているもの>
の関係性の中に存在していると伝えてきた。
これは言い換えれば、物質の中ではなく、
空間の中にカタチを見ることと同義である。
このように主体V.S.客体の関係にカタチを見い出す認知様式を
変換人型ゲシュタルトという。
人間型ゲシュタルト
(客観的な世界認識)
変換人型ゲシュタルト
(主客一体観的な世界認識)球精神への反転
「観察主体の質点側を中心点とするような反転した空間が見えてくると、
全く別々の位置に存在しているように見えていた自己と他者の位置が、
実は同一の一点に重なって存在しているということが分かってくる。
この感覚によって、自己や他者という概念が希薄なものとなっていく」この「球精神への反転」について以前から気になっていて、
私が言う「内外反転」及び「内外一致」に通底するものがあり、
その延長線上にあるような気がする……
ということを書いたことがあるが、
最近、この図を見ていてふと気付いたことがある。
かつて自叙伝にも書いたことがあるが、
私が5次元の入口を発見して魂の意識に目覚め、
「内外反転」の世界認識が起こり始める少し前、
「左右反転」の世界認識が起こり始めたことがあった。
そのことは、一部封印解除した自叙伝「32歳の獣G」
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/150496263.htmlの中で次のように書いている↓
『「226事件以降、特に変化はなく、心身共に健康」だと書いたが、
実際には大きな変化の兆候が現れ始めている。
それは、「左右反転」という奇妙な夢から始まった。
しばらくして、それが「変換人型ゲシュタルト思考」だと気が付いた。
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/148239057.html
その後、さきたま古墳の帰りに写真を撮ってもらう時、
左右反転を3次元世界での感覚として体験し、
電車の中で難しい説明をされている夢を見た。
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/148786061.html』それ以外の具体的な一例で印象に残っているのは、
散歩をしている時に前からトラックが来て、
「右に曲がります」と言った。
トラックが右に曲がるということは、
私の視点から見るとトラックは左に曲がるので、
私は私から見た右側によけなければならない。
ところが、私の視覚はあくまでも私の視点による視界なのだが、
なぜか私は左側によけようとしてしまった。
つまり、トラックが曲がる方向に私も移動してしまったのだ。
恐らく、トラックの運転手の視点を、
私が感覚的に持ってしまったのだろう。
自分の視点と相手の視点を同時に持ってしまった感じある。
もちろん、視界は自分の視点によるもので、
相手の視点は感覚的なものだが……。
その後も日常的に似たような現象が多発し、
生活に支障を来すほどになって、
私は頭がどうかしてしまったのかと思ったほどである。
だが、その時に1つ気づいたことは、
カバラの奥義である「生命の樹」で、
その真実の姿を見る為には、
鏡像反転(左右反転)させる必要がある。
「生命の樹」は絶対三神の象徴だが、
人間はそれと向き合っている状態にある。
故に、神の視点に立つ為には左右を反転させる必要があるのだが、
その視点を感覚的に獲得しつつあるような感じだった。
そのことは「ナイトルシファー創設の経緯」に書いている。
http://jew-beast.seesaa.net/article/153517544.htmlその後、奇妙な夢に現れる図形や数式を、
与えられたヒントに従って考察する日々が続き、
ピラミッドの謎を解明するに至った。
知花敏彦氏によると、ピラミッドは地下にも同じ構造があり、
「正八面体」の形をしているという。
アリオンは正八面体を「黄金太陽」と呼んでいるが、
啓示に従ってその解明を進めていくうちに、
その中心点が「5次元の入口」だという結論に到達した。
これは明晰夢の中での思考なので、
左脳と右脳が統合したシータ波状態での思考である。
そして、人体を十字架に見立てると、
黄金太陽の中心は人体の胸の位置に対応し、
ハートチャクラが5次元の入口であることを再認識した。
再認識とはどういうことかというと、
胸が大宇宙の入口であることは「体術」によって
知識的にも体験的にも知っていたからである。
と同時に、それを人類に示したのが、
死後復活して昇天(アセンション)した
イエス・キリストの磔形だったことを直感したのだった。
その5次元の入口を図形的・数学的に理解したことにより、
私の魂(真我)の意識が眠りから覚めて覚醒したようで、
「左右反転」の認識から「内外反転」の認識に変化した。
だが、左右反転が終わって内外反転に変化したというより、
「内外反転」の前兆が「左右反転」だったのだと思われる。
今でも「左右反転」の認識は失われていないからで、
内外が反転しているなら左右も反転していて当然だが、
「内外反転」の認識を持つようになってからは、
「左右反転」の認識だけの時のような支障はなくなった。
尚、人間として生きながら真我が半覚醒すると、
「自我」と「真我」の2つの意識を持つようになるが、
これは決して精神分裂症などではない(笑)
精神分裂というのは自我が分裂することだが、
私が言っているのは自我とは別の意識の獲得で、
その意識が本当の自分(真我=魂)だと自覚できる。
古今東西の悟りを開いた聖者たちは、
「人間界は幻影である」と言っているが、
真我に目覚めるとそのことが認識できるのだ。
夢から覚め始めて「なんだ夢だったのか」と分かり、
夢であることを自覚しながら夢を見ている状態と同じである。
それで私は「内外反転の認識の獲得」を以て
「真我覚醒」と定義しているのだが、完全に覚醒すると
アセンションして3次元から消滅してしまうので、
厳密に言えば「半覚醒」という状態である。
その真我(魂)の視点が人間とは正反対で、
肉体の内外が反転している為に、
魂が肉体に宿っていないと感じるのである。
その時点で普通の人間の感覚ではないが、
半田氏も次のように述べている。
「変換人になると、今の人間とは全く逆になる」先ほど、「内外反転」の認識を持つようになってからは、
「左右反転」の認識だけの時のような支障はなくなった、
と書いたが、他者との会話では決してそうとは言えない。
それは当然のことで仕方ないことではあるが、
人の話を聞いて「それは根本的に間違っている」
と言いたくなることは日々常々あることである。
だが、それは決して傲慢でも他者否定でもなく、
そういう次元を超えたレベルの話なのである。
真我の覚醒度は常に変動して一定ではないと思うが、
「自我50%:真我50%」だと仮定しよう。
「人間型ゲシュタルト50%:変換人型ゲシュタルト50%」
という言葉に言い換えても良いと思う。
故に、真我が半覚醒すると自我は希薄になるが、
人間と同じ世界認識(自我)も持っている。
人間界は投影の世界であり、人間も実在ではないが、
この世に生きている限りは「この世は現実」でもあり、
自我と真我の世界認識で「内外一致」を説いているのだ。
半田氏は次のように述べている。
「水の中でも水の外でも呼吸できる両生類のように、
『人間』としても『変換人』としても生きれるようにした方がいい」私は全くその通りの生き方をしている。
変換人の意識を持つと世界観が反転するので、
人々とは根本的に話が合わなくなる。
つまり、今の人間界で普通に生きていくことは不可能となるのだが、
私は人々に合わせて交流し、社会に順応して俗世間で生活している。
変換人は本質的に社会不適合者だが、
私は「人間」として社会に適合する柔軟性もあるということである。
もちろんそのことは、記事を書く上でも重要な要素で、
対人関係に於いても同じことが言えるのだ。
「正八面体とそれに外接する正六面体のカタチには
3次元と4次元と呼ぶもののイデアがセットされている」この意味するところはよく分からないが、
半田氏によると「魂は立方体と八面体、マカバ」だという。
立方体は「正六面体」で、八面体は「正八面体」のことだが、
その幾何学図形の中心点から5次元の世界に入るそうである。
それはまさに、黄金太陽(正八面体)の謎を解き、
5次元の入口を発見して突入した私の話と一致する。
また、半田氏は、
「円十字の秘密を解くとシリウスに移行する」と言っていたが、円十字を立体化して観ると、
黄金太陽(正八面体)の秘密と一致していることが分かる。
「シリウス革命」と七夕の御用
http://new-mu.seesaa.net/article/368729319.html七夕の宴と5次元アイテム
http://new-mu.seesaa.net/article/368766784.html高次元世界とは空間の深みのことである
幼少期にはまだ生き生きとしていた奥行き。
この生ける奥行きはいつ忘却されたのだろう−−
それは内在的な視線の遷移という側面から言えば、
視線が前方から左右方向へと
90度回転してしまったことがその契機となっている。
事実、左右からの視線の介入は奥行きを幅へと偽装させ、
奥行きの中に生きる主体の本来を無意識の中に沈めてしまった。
無意識の流れからインストールされてくる
この左右からの視線とはもちろん経験的他者のそれとは違うものだ。
誰とも特定することのできない抽象的他者、
いわゆる大文字の他者の視線である。
日常生活の中でわたしとあなたが向かい合っているとしよう。
その様子をわたしたちはすぐにイメージすることができる。
このイメージを持つこと自体が、すでにわたしの中に
大文字の他者の視線が宿っているということを意味する。
わたしの中に侵入した何者かが、
向かい合うわたしとあなたを横から見ているのだ。
この視線は向かい合うあなたとわたしの前を
真っすぐに横切っているのが分かる。
それはわたしにも、あなたにも、単なる一本の直線にしか見えない。
しかし、こうした線にも神霊が宿っていることを
わたしたちは直観しないといけない。
目の前の水平線とは大文字の他者にとっての奥行きに相当する線であり、
奥行きの本来をi(虚軸)とすれば、
この線は自他の奥行きを併せ持ったi×i=−1であり、
時間の起源となっている線だと思われる。
奥行きの本来においては、わたしは世界と一体である。
しかし、こうした左右からの視線は「わたし」を世界とを引き離し、
「わたし」を世界の部分へと切り離す。そこでは多の中の一としてのわたしが誕生させられるのだ。
主体は自分の存在の中心にこうした大文字の他者を迎え入れることによって初めて自分を自分として見ることができるようになる。自分が自身の他者となって、全体の一から個としての一を眺めるシステムが整うことによって自我の基盤が作られるのだ。
その意味でも左右からの視線の介入は自我意識の成り立ちに欠くことのできない条件となっている。真横に走る水平線。。。ラカンのいうところの「一の線(トレ・ユネール)」。OCOT情報はこの線のことを「位置の等換」と呼ぶ。ドゥルーズ=ガタリ的に言えばヌーメン(神霊)の働きである。
この「位置の等換」の線が常に目の前を水平に横切るものだと固定的に考えてはいけない。それがわたしたちの本来の奥行きに重なって機能することもある。単純な話、わたしが第三者的に立ち振る舞うとき、その視線は常にこの「位置の等換」の線上をなぞっている。
あなたが二人の仲を取り持ったり、仲裁に入ったりするときはもちろんのこと、奥行き方向に経過する時間を見ているのであれば、そのときあなたは常にこの「位置の等換」の線上の視線で世界と接しているということになる。
このように考えただけでも、奥行きと幅の関係は僕らが普通に想像するよりもずっとずっと深い。。単なる時空という枠組みでモノを見るのではなく、空間のこの深みの中に僕らは深く深く潜行していかなくてはならない。高次元世界とはこの深みのことを指すのである。
即自的時間と奥行き
存在の本質は空間(3次元)でなく時間だと考えなくてはいけません。
存在とは「あること」をいいますが、
「あること」とはあり続けて初めて「あること」になるのであり、
この「あり続けること」は単なる3次元の空間では
描写することができません。空間は瞬間でしかないのです。
しかし、僕らが普段、意識化している時間は
あまりにも手荒く扱われています。というのも、
過去はすでに消え去った古い現在として
今はもう存在していないものと考えられているからです。
つまり、僕らの普段の意識は
「存在すること」を現在中心に見ているのです。
「現在」とは瞬間の異名でもありますから、
これは「存在すること」の感覚が
空間側へと偏っていることの証でもあります。
ですから、僕らが存在の本質に触れるためには、
時間に向き合うときの感覚をその根底から変える必要があります。
つまり、「かつて過去があった」と考えるのではなく、
「今、過去がある」「今、過去があり続けている」
と感じ取らなくてはならないのです。
要は、存在とは過去だということです。
この過去の深みに向かって自分の根を下ろすこと。
それが生命として生きる自分を感じ取るための絶対条件です。
さて、この「あり続けている」自分の中の過去ですが、
これは物理学が時間と呼んでいるものの中には
存在していないと言っていいと思います。
なぜなら、物理的時間は直線的なものであり、
その瞬間、瞬間に穿たれる現在としての点時刻は
すべて一様に均質的で、どこを切っても金太郎飴状態だからです。
わたしたちの「今=現在」は全く違ったものです。
「今=現在」はあり続けている過去をつねに包括しており、
そのつど変化、変容していきます。
このように時間をイメージしていくと生きているのは現在ではなく、
過去だという感覚がわき起こってきます。
こうした過去のことを哲学は即自的過去と呼びますが、
わたしたちは過去が存在として生きている
こうした即自的過去の場所をありありと
描像できるようにならなくてはなりません。
わたしたちにおなじみの4次元時空というのは、
この即自的過去の上を覆っている薄い皮膜にすぎないのです。
この即自的過去が息づく場所が実は「奥行き」なのです。
「奥行き」はわたしたちの即自的過去の現れです。
日頃慣れ親しんでいる時空という場所に対して、
この即自的過去としての「奥行き」を
そのまま幅の無限収縮と見なしましょう。
そこに天使として生きる素粒子たちの世界が展開しています。位置の交換に潜む真意
わたしたちは空間に潜むあるねじれとひきかえに
世界から主体へと静かに遷移している。
この「あるねじれ」は反転認識のことでもあるのだが、
このねじれを同一性から差異への移行として見ても問題はない。
このねじれは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、
唯物論的に制度化された思考の中では
なかなかそれを見出すことは困難だったが、
それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
この捻れは外部を内部へと巻き込んでいる。
見えない渦が猛烈な勢いでミクロへと流れ込み、
われわれに認識の反転を促しているのだ。
その渦が感覚化されてくると、
主体が創造の原初へと方向づけられていることが分かってくる。
この役割を担っているのが物理学が光子と呼んでいるものである。
物理学において内部空間が複素空間として表現されるのは、
そこでは同一性と差異の関係がそれこそ存在論的差異として
明確化されているからだろうと思う。
シンプル言えば、幅と奥行きだ。
そこは時空と真反対の性格を持っていて、同一性(幅)が
差異(奥行き=純粋持続)に従属していく空間になっている。
この空間での統合(回転)は新たなる差異の発生の意味を持ち、
いかなる同一性に回収されていくこともない。
複素空間で記述される量子力学の形式的な展開を見ていると、
複素空間自体が精神が持った力能の
数学的表現と言っていいもののように思えてくる。
その力能とは、有限性の中に無限を内包させていく柔軟性だ。
そこにおいて回転が作る円や球はベクトル(線分)へと収束させられ、
それがまた回転によって次元を拡張し云々〜、
といった形で空間を次々に巻き取り、襞の多重性を表現していくのだ。
その意味で単位円とは真の無限性であり、あらゆる生成を
飲み込んでいく無始無終の精神の形象化のようにも見える。
さて、人間が居住する時空はといえば、
複素空間が作り出すこうした空間の無限の多重なる襞は物質として現れ、
空間自体は単なる容器として
いかなる多重性も持たない弛緩の極限物として表象されている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、
ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。
それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは
無意識の心的メカニズムである−−と。
このメカニズムは量子力学(非相対論的)が
場の量子論(相対論的)へと発展するときの構造変動の中にある。
時空は量子から生まれる産物なのである。
マクロな知覚は3次元知覚に倣いそれは局所的な
「いま、ここ=瞬間、局在」の上に生じている。
一方、ミクロな知覚は内部空間知覚に倣い、
非局所的な「いま、ここ=永遠、遍在」の上に生じている。
前者は同一性の海。後者は差異の渦である。
わたしたちは幅と奥行きの間に絶対的差異を見出し、
この差異の渦の中に侵入していかなくてはならない。
新たな創造の扉はすでに開いているのだ。シュタイナーの身体空間論を見て思ったこと
最近は、持続の在りどころを奥行きとして、
ずっとその構造を追いかけているのだけど、
シュタイナーの奥行き論と完全に一致を見るようになってきた。
興味のある方は『人智学・心智学・霊智学』(ちくま学芸文庫)
P.235〜250当たりをご覧になられると面白いかも。
この部分でシュタイナーは
時間の流れには過去から未来へ流れていく方向と、
未来から過去へと流れて行く方向の二つがあると言い、
それぞれを空間の左から右、右から左という方向で示しています。
シュタイナーによれば、
前者の流れがエーテル体で後者の流れがアストラル体です。
以前、左から右への方向は「身着(みぎ)る」ものの方向、
右から左への方向は「霊足る(ひたる)」ものの方向としてある、
という話を言霊の研究者の方から聞いたことがありますが、
エーテル体の流れを悟性的時間、アストラル体の流れを
感性的時間だとすると話はうまく噛み合ってきます。
エーテル体は変質して悟性を作り物質体を
概念として表現する働きを持っており、
反対にアストラル体は感性としてエーテル体としての感覚を
対象化する働きを持っていると考えられるからです。
通常、僕らは時間を過去から未来へと
流れて行っているものとしてしか考えていません。
こうした時間感覚はエーテル体の流れ、
つまり悟性的な時間意識と言えそうです。
悟性的な時間意識にとっては未来はいまだ訪れぬものとして
常に予期の状態で存在させられているわけですが、
そこで予期されている時間は、
今が5時ならば一時間後は6時だろうといったような
一般化した外在的な時間概念です。
一方、アストラル体の流れは右(身着るもの)から左(霊足るもの)、
つまり、外在的な時間から霊的なもの、
内在的な時間へと向かおうとする流れです。
左方向には時間的には過去が存在するわけですから、
シュタイナーが指し示す構造から言えば、
霊的なものは過去に充満しているということになります。
実際、わたしにとって過去とはわたしによって経験されたものであり、
それはわたしの記憶に回収されて、
まさにわたしとしてあるものと共に生きているという意味で、
一般的ではなく特異的なものになっていることがわかります。
時間はなぜか過去は経験できるが
未来は経験できないという形で存在させられていますが、
このことは、過去と未来が、あたかも自己と他者のような関係として
配置からかもしれません。
ただし、シュタイナーが指し示している左右方向の時間の流れは、
魂の発達段階としては第二段階として考えなくてはならないと思います。
知覚心理の発達と照らし合わせるためには、まずは前-後があって、
次に左-右へと身体の空間軸は開いていくのです。
前-後軸の場合は、「前」が特異性で、「後ろ」が一般性でしたから、
魂の発達の第二段階の左右軸においては、前後軸がそのまま
左右軸へと左方向に90度回転したものだと予想できます。
この前-後(見ること-見られること)から始まる身体の空間軸の内実を、
左右、上下、さらにはそれらの統合としての方向というように、
複素空間での次元概念を用いて追いかけているのが
ヌーソロジーの次元観察子という概念なのですが、
それらが描き出すイマージュは
素粒子システムにおける内部対称性の拡張と驚くほど似ています。
シュタイナーの霊学は必ずやOCOT情報と結合し、
壮大な精神科学がまもなく登場してくるという確信が、
現在、一段と深まっているところです。--------------------------------------------------
マクロな知覚は3次元知覚に倣いそれは局所的な
「いま、ここ=瞬間、局在」の上に生じている。
一方、ミクロな知覚は内部空間知覚に倣い、
非局所的な「いま、ここ=永遠、遍在」の上に生じている。
前者は同一性の海。後者は差異の渦である。
わたしたちは幅と奥行きの間に絶対的差異を見出し、
この差異の渦の中に侵入していかなくてはならない。
新たな創造の扉はすでに開いているのだ
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僕らは理性に世界を略奪されてしまっている。
理性はインプットがあって初めて働くものであって、
あくまでも受動的な力にすぎない。
この受動性を能動性と勘違いしているから、
人間は理性の力で世界がいつまでも進歩・発展する
というふうに今でも思い込んでいる。
しかし、理性は限界にきていることを
誰もが薄々感じ始めているのではないか。
ここは一発、理性が偽りの能動性であるということを示すためにも、
時間という観念をその根底から解体しなくてはならないと思ってる。
なぜなら、おそらく時間こそが理性の本質であるように思えるからだ
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5次元突破と時間次元の謎
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