2013年04月15日

キリスト教で救われた僧侶

4月7日は教会で聖餐会があり、
ついでに『週報』を貰いに行く予定だったが行けなかった。
それで、『週報』を郵送してもらうべく、教会に手紙を出した。
すると、わざわざ家まで持って来てくれた。

もともとZEROハウスのポストに「復活祭」のチラシを入れたのは、
近所のオバチャン(信者)だったらしい。
で、教会から連絡を受けて『週報』を持って来てくれたのである。
すぐ近所の人なのだが、今まで私のことを見たことがないらしい。

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向かって右端が、近所のおばちゃん
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復活祭に参加した時、違う人に「若いお母さんですね」と言われた。
61歳なので決して若くはないが、見た目は10歳くらい若く見えるので、
そう言ったのだと思うが、よく考えると私の年齢を知らないのに、
何故そのようなことを言ったのか……。

その後、視線を感じたのでチラッと見ると、
別の人が私を見ていて
「あ〜!あの人知ってる」という感じてうなづいていた。
恐らく、私のブログを見たことがあるのだろう。

また、他のオバチャンが私のことを10代だと思っていたらしい^^;
確かに、自称「永遠の17歳」だが……。

生写真も貰った
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近所のオバチャンが復活祭のチラシを何百枚撒いたかは知らないが、
その担当地区でチラシを見て教会に来たのが我々だけだったらしく、
涙が出るほど嬉しかったという。

聖母は俳句を作る為に見学に行きたかっただけらしく、
私は誘われて仕方なくついて行っただけなのだが、
またイベントがあれば行ってあげたいと思う。

小冊子も3冊くれた
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『週報』には信者たちの書記が載っていて、
最近の出来事や想ったことなど、
良いことも悪いこともありのままに書かれている。

日曜日にその『週報』が配布されて、
書いた人たちが全員の前で読み上げるそうだが、
これは一種の懺悔で、それによって罪が許されるという。

かつての私の自叙伝『我が闘争』と同じようなものだが、
あれほど自分のことを赤裸々に暴露できる人は少ないだろう。

聖書には「原罪思想」というものがあるが、
小冊子に次のように書かれている。



聖書の神は、完全無欠な人格神、聖なるお方であられます。
このお方の光に照らし出されるとき、ただの1人も
「私は正しく、罪がない」と言うことができません。
ここで「罪」とは、神道で言うような「けがれ」、
仏教で言う「無明」といったものではなく、
聖なる神に対する「反逆」を意味します。
それは「天の父に対する親不孝」です。
親不孝の原点は、「自分を育ててくれた親を
親として認めないこと」を言うのです。
そこから様々な親不孝の行為が生まれるのです。
天の父を父として認めない罪の心が、
個人的にも、社会的にも多くの不幸を生み出しているのです。


言いたいことは分かるが、その「罪」の概念は、
神道の「けがれ」や仏教の「無明」と無関係ではない。
天の父とは、直接的には魂の親である5次元のトータルセルフだが、
自我ではそれを認識することができない。

これすなわち「無明」であり、無明は「闇」ゆえに、
聖書には「闇は光を理解しなかった」と記されている。
無明とは、真理を知らない迷いのことで、
それが為に「けがれ」を積み(罪)重ね、
個人的にも社会的にも多くの不幸を映し出すのである。

「聖書の神は完全無欠な人格神」とのことだが、
究極的には「天地の創造主」ということになる。
その説明を見てみよう。

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天地の創造主

初代教会の使徒パウロはアテネの人たちへの説教の中で、
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、
天地の主であるから、手で造った宮などにはお住みにならない」
と言っています(使徒17・24)。
この世の万物を作られた神は、
最後に御自身の傑作中の傑作として私たち人間を造られたのです。
私たちが誠の神を心に留める時、自らの人生の生き方が変わるのです。


これには私も異論はなく、キリスト教とは思えない正論を説いているが、
これは本質論であって一面的な真実である。
外側の世界に遍在でもあり、
その中心点である人体そのものが外側の世界でもあるのだ。

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次に、神についての説明を見てみよう。

一般に、日本人が信仰の対象としてきた神には三種類あります。
第一に、日、月、山、川をはじめ、
種々の自然現象を神として崇めたものです。
多くの迷信が、これらの偶然と関わっています。
第二に、人を神として崇めたもの。
先祖や、英雄や、人のために働いた偉人などを神として拝むもの。
第三は、古事記や日本書紀に出てくる神話上の神々です。
それらは、この地球やそれ以外の一切のものを
無から創造された聖書の神とは根本的に違います。


とのことだが、その解釈は根本的に間違っている。

第一については、聖書の神は基本的には
日(太陽)の神であり、イエスも太陽神の顕現である。
また、アブラハムはシュメールの月神を信仰する部族だった。
更に、本来の「主」であるバアルは太陽神から嵐の神となり、
火山に降臨する神でもある。
また、聖書の神が様々な自然現象を起こすことは、
聖書を読めば分かることである。

第二は、イエスも人を神として崇めたものであり、
磔にされたイエスや聖母マリアも偶像となっている。
また、聖母マリアは大地母神の象徴でもある。

第三は、古事記や日本書紀に出てくる神話上は、
神界の出来事と人間界の出来事を重ねて描かれているが、
神界の出来事は、この地球やそれ以外の一切のものを
無から創造した聖書の“神々”の物語であり、当然共通点が多い。

結論として、第一と第二を合わせたのが第三であり、
それは聖書の神と矛盾なく一致するのである。

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あるクリスチャンの家庭で、父親の病気が悪化して昏睡状態が続いたが、
奇跡的に回復して次のように語ったという。

「私は見た目には昏睡状態だったが、
実際には意識があり、家族の会話を全部聞いていたんだよ」


昏睡状態の時の意識は「肉体意識」が消滅し、
深い瞑想状態の時と同じ「幽体意識」である。
ある牧師がこの話を聞いてから、
昏睡状態でもう望みがないと思われる人の所に駆けつけて、
次の話をすると、昏睡状態にある人の多くがうなづいて
手を握って反応するという。

「イエス・キリストを信じたら、
罪の許しを受け、天国に行くことができます。
イエス様を信じるだけで救われます。
信じるのでしたら、私の手を握るか、うなづいてください」


だが、イエス・キリストを信じるだけで罪の許しを受け、
救われて天国に行くことができるというのは、
文字通りの一般解釈では正しくない。

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もう1つの小冊子には次のように書かれている。

「ヨハネ3章16節の聖句の後半には、
『それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠の命を持つためである』とあります」


御子とは、御父(父なる神)の子である「イエス・キリスト」だが、
イエスが言う「わたし」というのは
真我(5次元意識に目覚めた魂の意識)のことである。
つまり、御父というのは魂の親(深奥の真我)である
「トータル・セルフ」のことなのだ。

「信じる」というのは真の信仰でなければならず、
「ESP宇宙真理のエッセンス」で書いた次のような生き方である。

・目標を持たない
・計画を立てない
・頭で考えない
・発想即行動
・神に全託して流れに任せ、結果を求めない
(成るように成る)


この5箇条は、キリスト(真我)に対する
絶対的な信頼感(真の信仰)によるものである。

そうして真我に目覚めていくと、
5次元の光で罪穢れが浄化され、
救われて天国に行くことができるのだ。

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また、イエスは次のように述べている。

「子どものようにならなければ天国には入れない」

従って、イエスを信じるだけで救われるということはないのだ。
そもそも、イエスという人間を信じるという意味ではない。

確かに、イエスは昇天して神となって
人類の救済活動を行っていると思うので、
子供のような純粋な気持ちでイエスに祈れば、
救いの手を差し伸べてくれることはあるだろう。
だが、その本質は内在神であるということを忘れてはならない。

また、イエスが太陽神の神話と重ねられている通り、
イエスを信じるということは「太陽礼拝」でもあるが、
私から言わせると太陽は自分の真我の投影である。
つまり、御子が「太陽」であれば御父は「シリウス」であり、
それはトータルセルフの投影ということになる。

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前述の五箇条の話に戻るが、
目標や計画は信念体系領域(フォーカス24〜26)の特徴で、
それを手放した時に天国(フォーカス27)に入るのだ。
胎児や幼児が死ぬと、無条件に天国に連れて来られるそうだが、
この事もイエスの話と符合する。

また、信念体系領域という言葉から分かる通り、
自我の「信念」を手放すことが真の信仰であり、天国への道なのだ。
だが、天国は六道の「天道」で、
まだ輪廻を解脱していないので真に救われているとは言えない。

「滅びることなく永遠の命を持つ」というのは、
真の信仰の完成において輪廻を解脱するという意味である。

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もう1つの小冊子に面白い話が乗っていたので要約して紹介しよう。

私は以前僧侶でした。
高校生の頃から、「なぜ私は生まれてきたのか。
なぜ生きていかなければならないのか」といった疑問が、
絶えず私の心を支配するようになりました。
周りの人たちを見ていると、夢の実現に向けて、
あるいはお金を得るために、わき目も振らず一生懸命になっています。
しかし、生きている目的がわからないまま、なぜ自分の夢やお金や名誉、
社会的地位のために力の限り努力することができるのか、
私には不思議でなりませんでした。
生きる目的とは何かを見いだそうと、
私は自ら望んで僧侶の道に入ったのです。

そのような私が人生の問題の解決を得たのは、
仏教ではなく聖書によってでした。
人はみな罪を持っており、その罪のために身代わりとなって
イエス・キリストは十字架にかかった、
という教えは大変興味深いものでした。
しかし本当の意味を理解することはできませんでした。
そしてある日、ひとつ試してみようという気持ちで、
「私は罪人です。どうぞお許し下さい」と、神に向かって祈りました。

すると突然、涙が溢れてきました。
これには自分でも驚きました。
私は泣きながら続いて、
「神さま、許して下さい。私の罪を許して下さい」と祈りました。
その時、驚くべき変化が私に訪れました。
それまで心を支配していた「生きるのは空しい、意味がない」
という暗い思いが全く消えてしまい、
今までに経験したことのない大きな喜びに包まれたのです。
「神さまはいらっしゃる」という力強い確信が心に刻まれました。
それまで学び、求め続けていた仏教からは多くの知識を得ました。
しかしそれらは頭だけのもので、私の生きる力とはなっていませんでした。
仏を礼拝しても、極楽浄土に思いを馳せようとしても、
それらを信じられない自分に気づくだけでした。

ところが、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかったことを信じ、
心を神に向けた時、人生を新たにする救いの手が差し伸べられたのです。
それは頭だけの知識でもなく、思い込みでもなく、確かな体験でした。
そして同時に、「私は天国に行ける」という確信も与えられました。
私の人生は目的のない、どこに行くのかわからないものではなく、
神の国である天国に向かっている、
という揺るぐことのない信仰が神から与えられたのです。

聖書では、唯一なる神が宇宙万物を創造したと説きます。
西洋人でも東洋人でも、世界のすべての人々は、
創造主である神が造ったものであるといいます。
それならば、子供が親を慕い求めるように、
人間ならば誰でも自分を造った神を求め、
その神に帰りたいとする本能的な要求を持っているのではないでしょうか。
人々が、仏像などを見て思わず拝みたくなる衝動にかられるのは、
本当の神を求める心を持っているからだと思います。

その本当の神とは、聖書に説かれている唯一の神です。
そして、その神に帰る道は、イエス・キリストを信じることです。
私のように、イエス・キリストから
最も離れている所にいた者でさえ救われ、人生が変えられたのです。
ですから、どんなことをしてきた人でも、救われない人はいません。
また、自分の努力など必要ありません。
ただ、イエス・キリストを信じるだけで素晴らしい人生へと変えられるのです。


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「私は罪人です。どうぞお許し下さい」と神に祈ると涙が溢れて、
泣きながら「神さま、許して下さい。私の罪を許して下さい」と祈ると、
今までに経験したことのない大きな喜びに包まれ、
「神さまはいらっしゃる」という力強い確信が心に刻まれたという。

要するに、これは初期の内観と同じような現象だが、
この僧侶の場合は実際に内観した訳ではなく、
何か理解に繋がった訳でもなく、
「ホ・オポノポノ」のようなことを一度やっただけで、
ハイヤーセルフの光で洗心できたのである。

一般的な内観で「真我に目覚めた」というのはこのレベルで、
実際にはまだ真我(魂の意識)に目覚めているわけではない。
が、たった一度「私は罪人です。どうぞお許し下さい」と、
試しに祈っただけでこのような大きな変化がある人は稀である。

「私は天国に行ける」という確信も与えられたとのことだが、
「行ける」のではなく、この僧侶は既に天国のレベルに達したのである。
天国というのは、あくまで六道の天道(フォーカス)であり、
輪廻を解脱したわけではない。
輪廻を解脱した時に涅槃(5次元)に入り、真我(魂)が覚醒するのだ。

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「聖書では、唯一なる神が宇宙万物を創造したと説きます」
とのことだが、聖書で神(エロヒム)は「われわれ」と言っており、
エロヒムはエル(神)の複数形である。

唯一神の真の意味は、宇宙そのものの宇宙意識で、
宇宙を創造した様々なエネルギー(言霊波動)が「神々」なのだ。
その言霊の仮名が「神名」だが、
宇宙創造とは低い次元に神々が降りていくことでもある。

つまり、遍在する宇宙意識の総体が最高次元の唯一神とすれば、
次元を降下する程に神々(エネルギー)が分裂して様々な働きをし、
5次元まで下がると姿形を持った霊魂(人格神)となる。

それがいわゆる「トータルセルフ」で、
5次元には無数のトータルセルフが存在するが、
その分魂が4次元の天国に降臨し、
更に物質次元に現れて人間となったのである。

要するに、最高次元から次々と分魂(分霊)されて
下の次元に降臨していったのだが、
これを「投影」という見方・表現もできる。
だが、最も低次元に現れた肉体が「大宇宙」でもあるのだ。

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「本当の神とは、聖書に説かれている唯一の神です」
とのことだが、これが宇宙意識の総体を指し、
真言宗の「大日如来」や浄土宗の「阿弥陀如来」と同じものである。

「その神に帰る道は、イエス・キリストを信じることです」
とのことだが、『カナン神話』では最高神「エル」が引退し、
息子の「バアル」が主神となった。

バアルはもともと太陽神だが、バアルは息子の「ミトラ」に生まれ変わり、
太陽神の性格はミトラに継承され、バアルは嵐の神となった。
このバアルを信仰していたのがイスラエル10支族だが、
バアルは暴風雨の神「スサノオ」であり、贖罪神としての性格も持っている。

5次元のスサノオの分魂は、
救世の使命を持って古今東西に人間として生まれているが、
その1人がイエスだったわけである。
古代日本の「スサノオ」と呼ばれた出雲族のフツシや、
出口王仁三郎もスサノオの御魂を持っていた人物である。

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話を戻すが、イエスが言った「天の父」とは、
魂の親である「バアル」だと言えるだろう。

簡略して話すが、『旧約聖書』は元々、
エロヒム(一神即多神)を唯一神としていたが、
「出エジプト」の時代からユダヤ人たちは、
アクエンアテンが信仰した新たな太陽神
「アテン」を唯一神とするようになった。

モーセは、アマルナ改革以前の太陽神アメン(バアル)を信仰していたが、
後に『旧約聖書』はアテンを信仰するユダヤ教に塗り替えられた。
そこで登場したのがバアルの受肉であるイエスで、
「モーセの時代に帰らなければならない」と訴え、ユダヤ教を糾弾した。

イエスも『旧約聖書』を参考書とするユダヤ人で、
ユダヤ教エッセネ派に属していたとされるが、
それはユダヤ教の信仰とは大きく異なるので、
ユダヤ教にカテゴライズするべきではないだろう。

イエスが説いたのは「バアル信仰」であり、そしてイエスは死後、
バアルの息子(太陽神ミトラ)と習合して神格化されたのである。
この太陽神ミトラが、仏教でいうマイトレーヤ(弥勒菩薩)なのだ。

日本神話でいえば、スサノオの息子のニギハヤヒ
(男神・天照大神)に対応するが、
キリスト教はイエスの教えに反してユダヤ教の
「アテン信仰」を引き継いだのである。

「唯一の神に帰る道は、イエス・キリストを信じることです」
とのことだが、イエス・キリストは「観音菩薩」でもあり、
再臨のキリストが「弥勒菩薩」なのだ。
つまり、キリスト教のみを絶対視するのは間違っている、
と私は言いたいのである。

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ただ、私はキリスト教を全面的に否定しているわけではない。
『新約聖書』を正しく理解すれば、
その教義は親鸞が説いた「他力本願」と「悪人正機」と一致する。
キリスト教で救われた僧侶は、
まさに親鸞の教えと同じことで救われたのである。

この僧侶は天台宗だったそうだが、
同じ仏教である浄土真宗で救われたのと同じようなものである。
天台宗と浄土真宗も本質的には同じだが、
その他のあらゆる宗派を統合することで真理に到達する。

だが、各宗派の教義を研究しても真理に到達することはできない
(悟りを開くことはできない)。

『日月神示』には次のように示されている。

「小乗の行と馬鹿にするでないぞ。
小乗の行から大乗の真理を掴むのであるぞ」


つまり、釈迦が説いた小乗仏教のヴィパッサナー瞑想(内観)によって、
大乗仏教が説く真理が悟れるのだ。
別の言い方をすれば、大乗仏教の各宗派は、
悟りを開いた高僧によって説かれたもので、
表現は全く違っても本質的には同じことを説いているのがわかる。

また、それらを統合することにより、
欠落している面を補い合うことができるのだ。
聖書は、時代も場所も異なる数多くの預言者の言葉を記録した書物だが、
仏典も同じように1つにまとめて総合的に読むべきである。

聖書を教典とする宗教の場合は、その解釈の違いによって宗派が異なるが、
仏教の場合は、特定の仏典によって宗派が分かれているので、
正しく理解できないと偏った思想や信念となる。
もちろん、キリスト教も真の意味が理解できないと偏った思想や信念となる。

いずれにしても、教義や思想を学んで捨てなければ、
真我に目覚める事はできない、ということをよく理解する必要がある。

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「どんな人でも、どんなことをしてきた人でも、救われない人はいません」
とのことだが、この発想ではなかなか人は救われない。
晩年の親鸞は、「他力本願(阿弥陀如来の本願力)によって
既に救われていることに対する感謝の気持ちで念仏を唱えるべきである」
ということを説いた。

釈迦も「衆生済度(人類救済)を成し遂げた」と語っているが、
これは過去完了形の発想で、時空の本質論である。
人間はこの3次元〜4次元の世界で幻の苦悩を体験しているが、
全ては投影であり、時間も錯覚であり、
永遠である5次元以上の真我は最初から救われているということである。

「イエス・キリストを信じるだけで、素晴らしい人生へと変えられるのです」
とのことだが、この僧侶は「仏を礼拝しても、
それらを信じられない自分に気づくだけでした」とも言っている。

これは非常に大きな矛盾で、キリストも仏も本質的には同じだが、
この僧侶には『新約聖書』が説く教義(表現)が
ビンゴだったというだけのことである。

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先ほど、この僧侶は「天国のレベル」だと書いたが、
キリスト教の教義に強い信念を持っているので、
「信念体系領域」でもある。
また、「信じるだけで救われる」というのは明らかに間違いで、
危険な思想でもある。

「自分の努力など必要ありません」
とのことだが、これは私もよく言っていることである。
「努力」も信念体系領域の霊の特徴らしく、
もりけん氏も努力を否定しているが、
ここまであからさまに「自分の努力など必要ありません」
と言い切るのは大きな問題がある。

親鸞が説く「他力本願」と日蓮が説く「自力主義」は、
その本質は全く同じ意味であり、
人間として何の努力もしなくていいということではない。
正確には「努力」という観念を持たずに努力することが重要なのだ。

スウェデンボルグも次のように述べている。

「天の理」は、言い換えれば「神」と言ってもいい。
「天の理」はやはり、人間はなにもせずに、
哺乳ビンからミルクを飲ませてもらうような怠惰な幸福は与えていない。
つまり、霊たちにも修行を課しているわけだ。


もちろん、人間にも修行が課せられているわけだが、
その努力とは、ESP用語でいえば「発想即行動」ということになる。
もちろん、内観や食事改革、その他の日課も努力以外の何ものでもない。
私はブログを更新するのも努力だし、定読者は読むことも努力であろう。

だが、「努」は読んで字の如く「奴」の「力」、
すなわち一般通念での「他力本願」でもある(笑)

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posted by ZERO at 22:02| Comment(4) | spirituals日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も信ずるだけで、救われる。永遠の命が与えられる。とありますが、キリスト教会に通えば通う程、悩みましたし、別の角度からの意見というか何かを求めてました。牧師の説教も献金、献金しか聞こえてこなくなり、結局金かという悲しい思いをしました。それは私が一重に牧師に依存していたからであり、ルシファーさんの言われる様な事を知らなかった為だと思います。ですからこれからは色々な事を学び精進していきたいと思います。クリスマスや復活祭には参加しようと思いますが(笑)
Posted by 上坂紙音 at 2013年05月23日 11:21
上坂紙音さん、こんばんは。

でも、その教会での体験は
自立の意識を持つキッカケになった貴重な体験でしたね^^
牧師様に感謝です♪
宗教行事は遊びやサークルだと思って参加するなら良いと思います^^
Posted by ZERO at 2013年05月23日 20:54
キリスト教の救いにキリストが死に3日間お墓にはいり、その後復活した。以外の要素を付け加えるのならば、それはもはやキリスト教ではなくなってしまうと思うのですが、いかがでしょうか?
Posted by ヨナたん at 2015年01月11日 00:12
こちらの内容も非常にたすかりました
ありがとうございます
Posted by nene at 2015年08月21日 06:13
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