2014年05月11日

汝、自他の幸福を願うべからず!

去年の8月頃、丹波哲郎の著書
『守護霊問答』について連載記事を書いていたが、
まだ載せていない未公開記事があるので載せておこう。

「ポジティブな意味づけ」という未公開記事もあるので、
前回の記事に織り込んで載せれば良かったが、
今回は「汝、自他の幸福を願うべからず」を公開する↓

『守護霊問答』には次のように書かれている。

『さらに、自分や家族の者だけの幸運を願うだけではなく、
周囲の人々や、手助けを必要としている人や、不幸な人たち、
困っている人にできるだけのことをしてあげる事をお勧めしたい。
互いに助け合い、幸福を分かち合うことが大切なことなのである。
それがいずれはあなたのところへも返ってくることになるのだ』


negai.jpg

これも基本的には異論はないが、ツッコミどころは沢山ある。

まず、「自分や家族の者だけの幸運を願う」のは自然なことで、
自分や家族の不運や不幸を願うのは悪魔想念だが、
幸運や幸福を願うことは不運や不幸を願っているのと同じだ。

願うということは、
「今は幸運・幸福ではない」という認識に基づいているので、
潜在意識の法則上、それが実現する方向に働くのである。

いつも言っていることだが、「現状肯定」「現状感謝」
を原点とすることを出発点としなければならない。

また、もし仮に幸運で幸福な人生が実現し、
一切の不運や不幸がなくなったとしたら、
そこで意識進化はストップし、再び堕落を始めて
不運や不幸が絶えない人生を余儀なくされることだろう。

まず、「善・悪」や「幸・不幸」という
二元的観念をなくして「中道」の視点を養うことが先決である。

それは内観の絶対条件でもあるが、
私は27歳の時から「ありがとう仙人」のメルマガを読んでいて、
非常に役に立ったと思っている。

この数年間は、メルマガが届いても読む暇がないので、
殆ど読まずにフォルダー移動しているが……。

puramai.png

細川将軍に借りている内海康満著
『中心感覚――一瞬のうちに本質をつかむ力』
を開くと、やはり同じことが書かれていた↓

幸せを求めると不幸を引き寄せる

『光をつくると、そのとたん影ができるように、
善を目指そうとするから悪をつくってしまう。
平和を求めるから戦争を引き起こしてしまう。
また幸せを求めるからこそ、手に入らないときの不幸を感じてしまう。
人生はそんな逆説の連続であることに私たちは早く気づくべきである。
私は幸福というものを求めない。
幸福を求めることが同時に、不幸もつくりだしてしまうからだ。
たとえばマイホームをもつことが幸福だと思っている人は、
それが手に入らない間はいつも不幸を感じていなければならない。
幸福と不幸はコインの裏表のようなもの、表がなければ裏も存在しない。
そう気づくと、幸せは「死合わせ」のことだ。
幸せを願うことは死に向かって照準を合わせているようなものである。
何故なら、今が不幸だから幸せを求めるのであり、その思いが、
さらなる不幸や不自由を呼び込んでしまうからである。
善悪や幸不幸といった外側のものさしで物事を判断したり、
人生の価値を計らないほうが賢明である。
中心感覚の指示する原理に素直に従っていれば、
「求めているうちは得られない」といった、
この世に満ちた逆説がすんなり理解できるようになってくるだろう』


転載終了

0009g.jpg

それでは、丹波氏の話の検証を進めていこう。

「周囲の人々や、手助けを必要としている人や、不幸な人たち、
困っている人たちにできるだけのことをしてあげることをおすすめしたい。
互いに助け合い、幸福を分かち合うことが大切なことなのである」


これは人として当然のことで、天国の生活というのはそういうものである。
もちろん、私も人々の支えで生かされていて、私も人々の為に生きている。

私の支えになってくれていない人々の為にも生きているが、
それを総称して「自分の為」と言うのである。

実際に「他者=自分」なのだが、
「自分の為」という認識を持っていれば見返りを期待することもない。

3次元的には「カルマの法則」で何らかの見返りはあるだろうし、
それが別の人々に支えられて生かされていることになっているのだと思うが、
そういう見返りを求めて善行を積んでも宇宙銀行への貯金にはならないのだ。

hadou7.jpg

もりけん氏も「人の為を意識した瞬間にエゴになる」
と言っているが、次のようにも述べている↓

「私たちはないものを目指しているのでしょうか、
あるものを目指しているのでしょうか?
力をつけようとし、誉められようとし、感謝されようとし、
自己の存在を残そうとし、成長しようとし、徳を積もうとし……
私たちはあるものになろうとします。
道教には愛という言葉に相当するものがないと思われます。
ひょっとすると愛は「ある」世界なのかも知れません。
ないものを目指したとき、
愛という言葉すら意識しなくなるのではないでしょうか。
その時、人は本当に愛の世界に入れるような気がします」


また、もりけん氏と超能力者・孫儲琳の質疑応答である↓

「多くの人は、世のため人のために生きたいといっても、
何をすればいいのかわからないと思います。
天命にそって生きたいけど、
自分の天命とは何なのかを知ることが難しいですが?」

「自分のやりたいことをやっているという状態が使命、
あるいは天命に生きるということです。
思い込みや雑念、既成概念、外的制約を取り払ってもなお、
今やっている仕事がやりたいことなら、
それがその人にとっての使命の仕事であり、天命の仕事です。
本当の自分と繋がることによってそれは発見できます。
女房子供のために仕事をするのも一種の使命です」


真我に目覚めたら(もしくは繋がったら)、
自分の使命が分かるということに異論はないが、
まだ全然そうではない段階においては、
(自我が)やりたいことが使命から外れていたり、
(自我が)やりたくないことが使命であったりもするので、
まずは「今与えられている仕事」「今やるべきこと」が、
それが「今現在の使命」だと捉えるべきだと私は思う。

ai-24.gif

また、丹波氏は次のように述べている。

『守護霊を信じ、その存在に感謝すること。
これは自分という人間存在の“核”である霊魂の存在が
存在することを信じることと、ほとんど同義である』


霊魂の存在を信じるという意味では同じだが、
守護霊の存在を信じるのと自分の魂の存在を信じるのは異なる。

本質的には宇宙は1つの意識なので同じと言えば同じだが、
そのことを認識していない段階では、
「同義である」という説き方を私はしない。

これは決して「分離観念を持て」という意味ではなく、
信仰者の多くが落ちる落とし穴について警告しているのである。

どういう事かと言うと、神仏や守護霊を篤く信仰する人は多いが、
自分の魂に無頓着な人があまりにも多いということである。

私は「魂は肉体に宿っていない」と主張しているが、
魂は内なる神に通じる自分の「核」であることも事実である。

Screen-shot-2012-10-15-at-11_06_22-AM.png

一般論として話をするが、人々は神仏や守護霊のことを
「自分とは別物の外在神」として認識している。

確かに神仏や守護霊は、自分とは異なる意識を持った存在(他者)で、
人間からすると自分の肉体の外側に存在するものである。

自分や家族、人類の為に神仏や守護霊に祈るのは構わないとしても、
自らの内に宿る神の種子(魂)に目を向けていない人が多すぎるのだ。

だから、釈迦は神仏の存在を説かずに真我を知る為の内観を説き、
イエスも「私(キリスト)は汝の手や足よりも近く(胸)にいる」
と説き、サイババも「神は遍在だが、私とあなた方の違いは、
あなた方は神が自分の中にあることを知らないことだ」
と説いているのである。

そして、その三者とも、
「守護霊」や「先祖供養」については触れていない。

siseinaru%20goseitai%20no%20mikokoro%20de%20arareru%20syu%20jesus%20christ211.jpg

即ち、自らの内なる魂に目を向けることなく
「真実の神」を知ることは出来ず、ましてや交流することもできない。
実在の神仏や守護霊との交流も胸中の大宇宙で行うものだからである。

もちろん、諸天善神は究極的に大いなる1つの意識体なので、
例えば『日月神示』を降ろした神も、自分の深奥の真我でもあるのだ。

「このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな」

神仏や守護霊を信じている者は、自分に魂があることも信じているはずだが、
魂の向上(身魂磨き)に努めている人は極めて少ないように見受けられる。

教義や戒律を守って道徳的に生きたり、
奉仕などの善行で徳積みを心掛けている人もいるが、
人間的に善人であったとしても、
その想念や潜在意識に問題がある人が多いことを指摘しているのだ。

言葉は悪いが、信心深くて善人として生きる努力をしていても、
地獄への道を進んでいる人が少なくないのである。
故に、日々の内観を途切らせることなく、
真我覚醒の道を少しずつでも着実に進んでいくことである。

「省みねば生まれた時より悪くなると申してあろうが」

「この世に生まれて、この世の行せねば、生まれた時より悪くなるぞ。
草木より役に立たんものとなるぞ。草木に変えると申してあろう。
神が変えるのでない。自分で成り下がるのであるぞ。わかりたか」


神を信じても低級霊となる不思議 ―
― 自己の魂を知らぬ人々(隈本確著)
神を信じても低級霊となる.JPG

神を信仰していても地獄に行く人など無数にいるので、
イエスを信じていれば救われるというような
キリスト教の教義は大間違いである。

イエスはあくまでも、
「子供のようにならなければ天の国に入れない」
と説いているのであり、
「私を信じなさい」などとは言っていない。

さて、ヘブライ語で「主を褒め称えよ」を「ハレルヤ」というが、
主(神)は外側の世界で人類の上に君臨しているわけではない。

いや、その表現も決して間違いではないのだが、
今までの人類が抱いてきたそのイメージは適切ではない。

それはイエスが既に2000年前から説いていた通り、
主は自分の「胸」の中に実在することを自覚する必要がある。

kiba.jpg

教会では「ハレルヤ」という讃美歌が歌われるが、
ガーゴイルにも「ハレルヤ」という曲がある。

私はキーを4つ上げて歌うのが基本だが、
キーを上げずに撮影開始にしてしまって、
途中でキー変更できない上に、
酔っぱらってグダグダのまま撮影した。

失敗作を公開するのは自我的には恥さらしだが、
私には羞恥心というものがないので載せておく(笑)

そして、これを視聴してどのように思おうとも、
汝の世界では私は汝の投影に過ぎないのである(笑)

間奏に入る前に「かかってこいや!オラ〜」と言った後、
何か言っているのだが、何を言ったのか覚えておらず、
何を言っているのか聴き取れないが、そこだけカッコイイ。

もしかすると、宇宙語の霊言かも知れない(笑)
もし、聴き取れた人がいたら教えて頂きたい。

ラストの過激なパフォーマンスも自分で高く評価パンチ


にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村
posted by ZERO at 19:04| Comment(2) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
正直な事を言います。20代の時の事です。25の時、地元の派遣で働いてました。その時、私が可哀想だと思って同情してくる女も沢山いました。その時は心が荒れてるからありがとうも言わなかった。見て見る振りをしてました。村上農園に派遣で行ってた時、寒い雨が降ってる中事務の人が来るのを待ってました。寒い中外で待ってました。私は車がなかったので外で待つしかなかったです。その時、太った女の人が私と同じく外で待ってました。私はありがとうも言わなかった。村上行ってる時、ご飯も外で食べてたから車持ってる女の人に私の車においでって言ってくれる人もいました。全て仇で返しました。私は心の中を救ってほしかったから。そんな同情なんていらないんですよ。その時、私は派遣の事務員からも嫌われてました。好きな人は送ってくけど、私は嫌われてたので暑い日も寒い日も雨が降ってる日も風が強い日も自転車で一時間かけて通ってました。心がぼろぼろでもそこまでやらなきゃならなかった理由が分かりません?そんな冷たい日差しを浴びてるのに辞めないで5年働いてました。嫌われてるの分かってても我慢してやってました。その日給が3000円にしかならなかった。煙草と喫茶代でなくなってたから洋服やブランド物なんて買えなかったです。原宿行っても洋服なんて買えなかったです。金がないから原宿なんて3ヶ月に一回行けるか行けないかでした。原宿の服屋の店員にも嫌われてました。欝でネガティブな事しか言えなかったから。本当にがちで辛かったです。辛い思いをしたからこそ楽があるのですね?今でも楽ではないけど、楽だと思ってます?
Posted by ルキュエル at 2014年05月12日 01:48
>辛い思いをしたからこそ楽があるのですね?

その通りです^^

>今でも楽ではないけど、楽だと思ってます?

それはいいことですね!
僕も同じです(笑)
Posted by ZERO at 2014年05月15日 10:46
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]