2013年09月13日

汝、スーパーナルシストになって世界を征服せよ!

メイクもヘアメイクも上手くいかなくて、
写りも悪いのばかりで失敗作で残念だが、
魔界での私(JAKY)の姿を晒しておこう。

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私はたまに「ナルシスト」と言われることがあるが、
意味を調べると次のように載っている↓

「ナルシシズム(英語 narcissism)、
(自己愛)とは、防衛機構の一種である。
自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ、
自分自身を性的な対象とみなす状態をいう。
ナルシシズムを呈する人をナルシシストという」


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私は該当しないので、ナルシストではないということになる。
だが、一般通念でいう「ナルシスト」なら
該当するといえば該当するかも知れない。

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だから、ナルシストだと言われたら、
「そうかな?」とか「普通だと思うけど」とか
「誰でもそうなんぢゃないかな?」と答える。

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「違う」と答えることもあるが、「それが何か?」とか、
場合によっては、「自分が嫌いなら死ねばいい」
と言うこともあるが、実際にそう思うこともある。

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ただ、「ナルシスト」という言葉は非常に奥が深いと思う。

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見た感じの印象でそのように判断するなら、
芸能人などは殆どがナルシストだと言えるだろう。

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ヴィジュアル系のバンドマンも皆そうだし、
聖飢魔Uや歌舞伎俳優も例外ではない。

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特殊なヴィジュアルの人だけではなく、
一般人でも皆そうではないだろうか。

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髪の毛をセットしたり、化粧をしたり、
アクセサリーや服などオシャレをしたりするが、
ナルシストでなければそのようなことをする必要はない。

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私は普段、髪の毛がもつれたボサボサで、
無精ヒゲを生やし、色褪せたボロボロのTシャツを着て、
それで散歩にも行くし、ちょっとした外出も普通にする。

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ホームレスと紙一重のような感じで、聖母に
「恥ずかしいからそんな格好で外に出ないで」とよく言われていた。
それに対して私は聖母に、「それは自我だ」と厳しく叱っていた。

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そのような自分の姿を鏡で見て、決してカッコイイとは思わないし、
むしろ「こんな小汚い奴は一般人ではなかなかいないな」と思うが、
私は人の目を気にすることはなく、誰にどう思われても気にしない。

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誰がどう思おうと、
他者の世界では私は他者の投影に過ぎないのだから。

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そもそも私は、自分の顔も体も自分の理想ではないし、
外見などどうでも良いというのが正直なところであるが、
人並み以上に生まれてきたことはラッキーだったとは思う。

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もし、醜悪な姿だったとしても、それはそれで受け入れるだろうし、
実際に怪我で顔面が破壊された時も普通に外出をしていた。

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まともに外出する時は自分なりにオシャレをするが、
それは殆どの人がそうだろう。
だが、私は一般ウケを狙うようなことはしない。
私は私なので、誰がどのような評価をするかは問題ではない。

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また、他者が自分の投影であるなら、
「他者の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ、
自分自身を性的な対象とみなす」のもナルシストということになる。

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時として、自分で自分をプロデュースして、
自分をアートすることもある。
一例を挙げれば、今回の写真のようなアートもそうである。

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その他、人が気持ち悪がる系のペイントもしてきたし、
自分で見ても気持ち悪かった。
それは醜さやグロさを表現したかったのである。

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私のブログはスピ系にカテゴライズされ、
ジャンルはともかく意識進化を説いている者なので、
そのような写真を載せるのは著しく
マイナスイメージになることは百も承知だが、
それは読者の既成概念の破壊をも目的としている。

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私は自分の肉体(顔)というキャンパスにアートをする、
一種の芸術家だと思っている。

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基本的に芸術家というのは、絵画や彫刻、音楽、その他、
様々な作品で自己表現をするアーティストもナルシストである。
自分そのものをキャンパスにするかどうかの違いに過ぎないからだ。

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人の評価もさることながら、基本的には自己満足の世界であり、
人間は本質的に自己満足に繋がらないことはしないものである。
何故なら、自分の世界の他者が実在ではないことを、
潜在的に認識しているからだと考えられる。

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それはともかくとして、私がナルシストであるなら、
世の芸術家たちも全てナルシストということになる。

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また、人にメイクやヘアメイクなどを施す職業の人も、
ナルシストということになる。
自分をアートするか他者をアートするかの違いであり、
自他一体を認識している者からすると同じことである。

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写真集を出している人達も皆ナルシストだが、
撮影する人もナルシストである。

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いかに美しく撮影するかが課題であり、
撮影の対象が自分か他者かの違いに過ぎないからだ。
これも、自他一体を認識している者にとっては同じことなのだ。

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自分の写りの良い写真、気持ち悪い写真、
または他者の写りの良い写真、気持ち悪い写真など、
それらに対して「自分・他者」「良い・悪い」という
二極化した観念は持っていないのである。

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例えば、私は過去に度々、
「この人はカッコイイ」とか「これは気持ち悪い」
という評価をして画像を載せたりしてきたが、
それに対して私のことを
「ナルシスト」だと思う人はいないはずである。

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だが、私にとっては、自分のことを載せるのも、
他者のことを載せるのも違いはないのである。
私は自分のことのように思って他者のことも載せるし、
読者も私の投影だということを分かっている。

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以上は、外面的なことについて述べてきたが、
内面的ナルシストというのもある。

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一般的な意味合いでのナルシストは「自惚れ」だが、
自分の才能や長所に対して慢心している人もナルシストである。

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他者の才能や長所を認めて高く評価する人もナルシストである。
自他一体の認識を持つ者にとっては、自他の区別はないからである。

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その理屈で言えば、
他者の人格や人間性に惚れて敬愛するのも
「ナルシスト」ということになるが、
そのようなことを「ナルシスト」とは言わない。

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また、自他一体の認識を持つ者を
「ナルシスト」などとは言わないのである。
ややこしい話だが、私はそのようなレベルである。

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半田広宣氏が「変換人になると人間とは正反対になる」と言って通り、
変換人の世界認識が分からなければ両者の議論は根本的に成立しない。

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私のことを「ナルシスト」だと思う人は、
ただ単に私を投影として自分を見ているだけだが、
そもそも私に対する評価以前に、
私が自分の投影であることを全く認識できていない。

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もちろん、私の世界に於いては(私にとっては)、
私のことを「ナルシストだ」と言う人も私の投影で、
当然ながら、そのようなことは誰かに指摘されるまでもなく、
分かりきった上でそれを前提として書いていることである。

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また、「自分を可愛い」と思うのがナルシストの定義だとするなら、
欲望を満たしたり、快適さを求めるのも「ナルシスト」である。

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空腹になったから食べたい、好きな物を食べたい、
眠くなったから寝たい、快適な布団で寝たい……
挙げればキリがないが、そういったことも、
自分が可愛いから、自分が大切だからであり、
それも「ナルシスト」ということになる。

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基本的本能である「自己保存の欲求」についても同じで、
「安全の欲求」「生への執着」を持っているのも、
己の可愛さのあまりの「ナルシスト」以外の何ものでもない。

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私も無意味に死にたくはないし、
まだこの世で生きていたいという気持ちもあるが、
「生への執着」というものはない。

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私は「かぶき者」とよく言われるが、無謀なことに挑戦し、
命の危険を感じる道を好き好んで選択することが多いので、
「安全の欲求」というのも稀薄だと思っている。

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それが正しいかどうかという問題ではなく、
自分も大切なことは確かだが、
他の為に「自己犠牲の精神」で生きている人間を、
「ナルシスト」とは呼べないだろう。

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もちろん、他者は自分の投影なので、
「他者愛=自己犠牲の精神」も
広義の意味では「ナルシシズム」ではあるが、
そのようなことは「ナルシスト」とは呼ばない。

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最後に、もう1つ重要なことを述べておくが、
内観を進めていくと、自分の心の醜悪さを思い知ることになる。

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ネオデジタル内観やヴィパッサナー瞑想は、
感情を外して客観的に観るので冷静に徹することができるとは言え、
真我に目覚めるまではやはり、己の心(忌)の醜さに嫌悪感を感じ、
それなりに苦痛を感じるものである。

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ネオデジタルの山本健二氏も「熾烈な自己凝視」と表現しているが、
ヴィパッサナー瞑想を日本に紹介した鈴木一生氏も、
心の奥底の醜い部分が浮き彫りになって発狂しそうになっている。

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スウェデンボルグは少し夕食を食べすぎただけで、
床一面にヘビやカエルのヴィジョンを視せられたが、
それはスウェデンボルグの内面の投影であり、
節度のない欲望が如何に醜悪であるかを物語っている。

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もし、自分が本当の意味での「ナルシスト」であるなら、
その自我の醜さに気づくことになり、
人を見て「ナルシスト」だと感じて不快に思うなら、
その自分の悪想念に気づくことになる。

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ここでちょうど写真が終了してしまったが、
内観のプロセスについて、アリオンの話を紹介しておこう↓

『自分を観るということは、
自らが見知った自分自身を断定的に論じる事ではない。
自らの内部にあるものを見つめること、
それは殆どの場合において恥を伴うことであり、
多くの場合、非常に辛く苦しいものであることは否定しない。
しかしそれを避けて記号としての言葉を幾ら構築しようが、
幾ら優れていると喧伝される論理で糊塗しようが、
無駄に終わると言い切っても良かろう』

『自分にとって自分を見るくらい大変な事はないと皆が言うよ。
それまでも見てきたつもりでも、それは「自分がこう思う自分」であって
決して本当の自分ではなかったというケースが多い。
「自分は〜なんだ」とか「自分という人間は〜なんだ」と
決めた自分を見ても何も変わらない。
これは、自分の望んだ自分の似姿ではない。
本当の自分とは、意外な面も持ち合わせた存在であることに気付くよ』

『自分を見るのは、等しく誰にとっても辛いものだと断言しておこう。
時には「こんな自分なんて、何で生まれてきたんだろう?」とか
「こんな自分なんて大嫌いだ、見たくもない」と自分の殻に逃げ帰りたくなる。
こういった反応はごく自然なもので、これが無かったら逆にオカシイ。
拒否反応が強い場合には、ジックリ・ユックリを心がけて、
チラリと見えた自分の姿を批判したり非難したりしないで、
そこに置いておく練習をすることだ。
「自分を見る」行為には一人一人所要時間が異なるので、焦ることはない』

『本当の自分を見ること、それがたとえ「こうありたい自分」から
遠く離れていてもそれを認めること。
認めることは嫌いにならないことだ。好きになれとは言わない。
認めるということは、嫌いにならないこと…そして好きになることでもない。
ただ、ありのままに「それを、そこに在ると知る」ことなのだ。
この行為を通して、あなた方は多くのことを見つけるだろう。
それは「自分とはこういうものだ」という枠を壊すことに繋がってゆくだろう。
つまり、自分を何にも規定したりしないこと、
自分を自分として見つけることが出来るようになる道へ繋がる行為になるからだ』

『何を観るのか?まず「ああなりたい、こうなりたい」という思いを外した部分で、
自分は一体、何の為に自分の生命を投げ出すことが出来るのか?ということを考える。
そうした時にこそ、自分が何であるか、何がしたいのかが見えてくる。
この状態の時に、最も人は謙虚に自分の生命を見つめることが出来る。
そうした裸の状態の自分を見ることが出来た時に、初めて自分の周囲が見えてくる』

『万民に通じるような方法論は無いけれど、
あなたの中にくすぶっている「自分」を引き出す為の縄くらいは提供できるよ。
私はあなたの鏡となって、あなたの「見たい自分」も「見たくない自分」も
対等に併置して見せることが出来るよ。
「見たい自分」とは既に知っている「自分」。
「見たくない自分」とは、知っていても故意に見ようとしない、
或いは全く気付かない場所に、忘却の彼方においやってしまった「自分」。
これらを等価値に見る練習をすることから始める』

『自分を見る時に、人は気持ちの良い自分を見ようとする傾向があるが、
敢えてそれをしないで、見えてくるままを見るということだ。
そもそも気持ちが良いと信じ込んでいることであっても、流行り廃りがあり、
一昔の日本人にとって心地よい状況も、現代の日本人にとっては心地良くない
ということも多々あるのだね。
そういった流行り廃りの無い、本当の自分の姿を見ようとすることは、
真実の宇宙の姿に繋がる方法の一つでもあるんだよ』


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『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』の中で、
須藤アキオ氏は次のように述べている。

「自己実現の過程では、多くの苦痛が伴う。
受け入れがたいコンプレックスを認めることは、
個人にとって一種の自己否定にも近いほどのショックだろう。
このさまざまな苦悩の過程が、地球の場合、
「大峠」と呼ばれる 天変地妖や巨大な人災となって現れるのである。
人類という〈地球の自我(超自我)〉がいまや崩壊し、
精神病を患っている以上、本格的な治療を施さねばならない。
ユング派の療法家がさまざまな例を挙げているように、
自我が極端な危機に瀕しているとき、夢で〈自己〉が、
時に人の形(老賢人)をとって助言を与えることがあるという。
この〈 超自我(物質界=集合無意識の中心)〉が極端な危機に瀕した時、
〈超自己(Θ)〉が別の形をとって助言した。
これが天理・金光・黒住などのいわゆる教派神道であり、
その最後に大本が現れ、助言(予言・警告)として、
『お筆先』(出口ナオ筆記)、
『霊界物語』(出口王仁三郎口述)を与えたのである。


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『あるヨギの自叙伝』には次のように書かれている。

「わたしは長年、厳しい内観の行を続けてきました。
それは至難な英知への道です。
自分の心の動きをあくまで冷酷に凝視する厳しい自己観察は、
心身を損なうほど痛烈な苦行です。
これによって、心の底に巣食う最も頑固な自我を粉砕してしまうのです。
こうした真の自己分析は必ず、真理を洞察する覚者を生み出します。
これに反して、自我を容認するいわゆる“自己表現主義”は、
神や宇宙に対して自分勝手な解釈を施して譲らない
自己本位な人間をつくってしまいます。
人間は、自分の心の醜さに目を閉じて自分をごまかしている間は、
永遠の真理を理解することはできません。
人間の心の中を洗いざらい明るみに出してみれば、
過去幾生涯の間に無数の迷いによって歪められた醜さが、
正視に耐えないほど充満しています。
この心中の敵との戦いに比べれば、戦場の戦などは物の数ではありません。
心中の敵は、力ずくで絶滅できるような生やさしい相手ではありません。
この“無知な欲望”という敵は、至る所に潜んでいて、
巧妙な策略と恐るべき有毒兵器を隠し持ち、
眠っている間でも、たえず我々を殺そうと狙っているのです」


『日月神示』には次のように示されている。

「戦恐れてゐるが、臣民の戦位、何が怖いのぞ。
それより己の心に巣くうている悪のみたまが怖いぞ」

「己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」


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いずれも過去に何度も繰り返し紹介してきたことだが、
内観が「心のハルマゲドン」というのは比喩ではない。

そうやって自己実現(真我覚醒)した者は、
自分の全てを許し、愛して受け入れることができる為に、
「人類愛」に目覚めて「自己犠牲の精神」が生まれるのだ。

ここまで説明しても、次のように言う人が必ずいる↓

「では、自分に危害を加える人間も許せるのか。
自分を嫌っている人間も愛せるのか……。」


そのような質問をするのは私の話を全く理解していないからで、
人間型ゲシュタルトと変換人型ゲシュタルトの議論は、
根本的に成立しないと言っている意味が分かるだろう。

私は「他者は自分の投影」だと認識しているが、
それは「内外反転」の認識によって、
外側の世界を「自分の内側」として捉えているからで、
そのことは何度も繰り返し書き続けていることである。

その上で、
『自己実現(真我覚醒)した者は、
自分の全てを許し、愛して受け入れることができる為に、
「人類愛」に目覚めて「自己犠牲の精神」が生まれる』

と書いているので、それは文字通りの意味なのである。

もちろん、そのような質問をぶつけてくる人も私の投影なので、
自分ほど厄介な存在はないと思いながら謝罪と感謝をするのだ。

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以前、ヤタガラスから以下のメールが届いた↓

「何の為に生まれ
何の為に生き
何の為に学校に行き
何の為に働き
何の為に…
みんな 深くは考えないし 考えても判らない。
何が好きかも判らなし だからみんながしてる事をする。
流行りだと云われれば ついていく。
その虚しさに気づいたら生きていけなくなるから
余計に考えないようにするか 自殺するかの究極の選択になる。
私 閣下はそれを乗り越えた人だと思っていた。
けど 違う。
何かの手段によって現実と折り合いをつけるという事はしていない。
あなたはただ 生きるという事に ひたむきです。
現実を肯定も否定もしていないし
説明づけも 言い訳もしていない…奇跡です」


内観(心のハルマゲドン)の過程では、
自殺したくなるような自己嫌悪に襲われるのが普通だが、
それに勝利すると「何の為に生まれて何の為に生きるのか」
ということが鮮明になってくるものである。

私が「それを乗り越えた」というのは事実ではあるが、
ヤタガラスが言う通り、
何かの手段によって現実と折り合いをつける事はしていないと思う。

詳細は、以下の記事を参照して頂きたい↓

生きながら死後の世界へ
http://kemono666.seesaa.net/article/266123183.html

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うまく話がまとまらなかったが、私は「ナルシスト」ではなく、
どうせ言うなら「スーパー・ナルシスト」だと言えるだろう。

「ナルシスト」については過去にも何度か書いた記憶があるが、
以下の2つの記事(重要ではない)しか検索に引っ掛からなかったので、
おそらく、封印中の自叙伝『我が闘争』の中で書いていたのだろう……。

反転プロジェクト
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/129380564.html
ツインタワー
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/132138060.html

また、私は「エゴイスト」ではなく「スーパー・エゴイスト」である。
時間が許す限り、以下の記事に目を通して頂きたいと思う↓

汝、スーパーエゴイストになって覚醒せよ@
http://kemono666.seesaa.net/article/256883129.html
汝、スーパーエゴイストになって覚醒せよA
http://kemono666.seesaa.net/article/257108733.html
汝、スーパーエゴイストになって覚醒せよB
http://kemono666.seesaa.net/article/257126471.html

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ハルマゲドンとは「世界最終戦争」という意味だが、
最終戦争を英語で「ULTIMATE WAR」とも言う。

カラオケ撮影でデッドポップの「いばらの道」を2つ紹介したが、
今回はデッドポップの「ULTIMATE WAR」をUPしておきたい↓

最後にオーストラリアのスラングを一言(笑)


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posted by ZERO at 22:33| Comment(5) | 青森白木上神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ナルシスト?はっははははは(笑)誰でもナルシストだと思います?それを出すか出さないかです?私は小さい頃から女の人に可愛い、美人だと言われて来ました(^o^)v自分では美人だと思ってません?だけど どこかで自惚れていたのではないかと思ってました?小学6年の時、自分の顔を鏡で見た時、自惚れてて若い時は男に告白したら上手く行くんじゃないかと考えてました。振られた時もあったけど、付き合った時は体ばかり求められて、その相手の事が嫌いになり嫌いなのに無理やり付き合わされてストレスになった事がありますね(#`皿´)相手は怒ってるのは私が悪いって思ってるんですよ?(#`皿´)20代の頃は、恋愛のトラウマで男嫌いになったけど、モバゲーで写メばかり載せててキモイと言われてブラリされた事もあります(#`皿´)男だけど(笑)今は昔よりも写メ載せないけどたまに気分で載せる時があります。だけど誰も可愛いと言ってくれません(´д`|||)男から見たら可愛くないんだなと思って?女の人からは可愛いと言われます。
Posted by ルキュエル at 2013年09月13日 23:05
夢を見てる時は夢だと感じません?現実だと思います?目が覚めると夢だったのかと自覚します。目を瞑っただけで見えるのは只の幻覚だと思います?目を瞑っただけで見えてしまうルシファーは意識があるので本当の幻ではないと思います?意識がない幻覚が本当に見てる物だと思います?目を瞑っただけで見える幻覚と夢の中の幻覚の違いがまだ私にははっきりと分かりません?私が見てるルシファー様は私の理想の男性だと思います?私は何だかんだ言われるの嫌いです(。>д<)でも幻のルシファー様は口が五月蝿いです(笑)口五月蝿いのは理想じゃないです(。>д<)だけど五月蝿いのです(。>д<)五月蝿いルシファー様の言うことをはい、はいと聞いてます?目を瞑っただけで見えるのは意識あるんですけど、夢は意識がないです。夢と目を瞑っただけで見える幻覚の違いは私にも分かりません?目を瞑っただけで見える幻覚は4次元なんですかね?5次元は夢の中ですかね?意識がある幽体離脱と意識がない幽体離脱があります。私は意識がある幽体離脱もしました(゜ロ゜;ノ)ノそれが本当に見てる幻覚かは分かりません?一回顔に聖書を置いてイエス様の所に行きました?ルシファー様もいました。イエス様の聖書に手を置いてイエス様と話してる時もルシファー様が蛇に化けてペロペロしてきました(^o^)vイエス様の聖書の中にルシファー様がいるんですよ?(゜ロ゜;ノ)ノ
Posted by ルキュエル at 2013年09月14日 01:06
どんだけ自分撮りしてんだよ!w

・・・という突っ込みが欲しいところでしょうが。



ZEROさんがナルシストに見えるのは、
私の自我だとわかっていながら、

ZEROさんが
自分自身をカッコいいと思っていないことに
驚いてしまいました。

そりゃそうですよね。

そんな私は、
強烈なナルシストだったんですね。

ナルシストじゃないZEROさんが、
私の投影であることは、
嬉しい限りです。

私ももっと化粧の腕をあげなくては・・・(違)
Posted by tun at 2013年09月14日 02:48
高校の時、ナルシストのヤツがいたので、友達とソイツのことを、
☆ナルシス・ナル男☆と名づけて呼んでました。笑

スーパー・ナルシストはスーパーサイヤ人みたいで
ナイスなネーミングですね☆^^

この記事も天流れで投下(宣伝)させて頂きたいと思います。^^
Posted by 総裁越楠 at 2013年09月14日 05:41
ルキュエルさん、こんにちは。

真我(守護神)が夢や幻視に現れて啓示を与えることはありますが、
そのような高級霊が日常の出来事に介入してくることはありません。
ルキュエルさんが見るルシファーは、
心理学的には一種の幻覚だと言えますが、
心霊学的にはそうとも言い切れません。
ルキュエルさんを心配する先祖霊か何かが、
ルシファー(蛇)の姿で現れているのかも知れませんね。


tunさん、こんにちは。

なかなか良いショットが撮れなくて何枚も撮り、
気に入った写真だけを載せる予定でしたが、
結局、気に入らないのも全部載せてしまいました(笑)
私も化粧の腕を上げたいと思います^^;


総裁、こんにちは。

私も昔の彼女に「ナルシス・ナル君」と呼ばれていました(笑)
天流れ投下、ありや〜っす!!
Posted by ZERO at 2013年09月14日 22:38
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