2013年10月08日

汝、悪魔崇拝と他力本願でアセンションせよ!

前回の記事の続きがあるのだが、
最後に親鸞の話で締め括くってしまったので、
ついでに書いておきたいと思う。

親鸞の菩薩行(教え)は、
念仏を唱えるだけで極楽浄土に行けるというものである。

念仏とは「南無阿弥陀仏」のことで、
「阿弥陀仏に帰依します」という意味である。

帰依とは「拠り所にする」「信じてその力にすがる」
「身も心も投げ出して信じ奉る」ということである。

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阿弥陀仏の梵名は「アミターバ」、
または「アミターユス」というが、
Wikipediaには次のように説明されている↓

『梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、
「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、
これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。
無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、
空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす』


聖書で「光」は「ルシファー」と「イエス・キリスト」の象徴である。

『日月神示』を降ろした神と同じ霊統の宇宙神霊で、
大天使ミカエルを名乗るアリオンは、次のように語っている↓

「ミカエルの兄弟であるルシファーは共に在り続ける存在だ。
あなたがたの知識の上では、
ルシファーは光り輝く者としての扱いを受けてはいないようだが、
宇宙に遍在するエナジーとしての扱いは光り輝く者である」


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つまり、「無限の光をもつもの」とは「ルシファー」のことだが、
もちろん、これはこじつけなどではない。

次に「無限の寿命をもつもの」だが、
聖書には次のように示されている↓

「全能者にして主なる神が仰せになる。
『わたしはアルファであり、オメガである』」

(「ヨハネの黙示録」第1章8節)

神の子イエス・キリストも同じことを述べている↓

「わたしはアルファであり、オメガである。
最初のものにして、最後の者。
初めであり、終わりである」

(「ヨハネの黙示録」第22章13節)

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主なる神は「YHWH(ヤハウェ)」と呼ばれているが、
英語で「I am」、即ち「私は○○○である」という意味で、
名前が隠されている。

この○○○が何かというと、ユダヤ教の唯一神「アトン」で、
その正体はエジプトの太陽神「アテン」である。

だが、「十戒」によって神の名を唱えることが戒められ、
その名が隠されたのである。
何故か……本来の太陽神は「アメン」だからである。

宇宙に遍在するエネルギー(光)がなぜ「太陽神」なのか、
出口王仁三郎はこのように説いている。

「神の実証は太陽である。太陽に神力を集中しておられるから」

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エジプトから脱出したイスラエル12支族は、
カナンの地でイスラエル王国を樹立したが、
宗教対立などが原因で10支族と2支族に分裂した。

その2支族が太陽神「アトン」を信仰するユダヤ教徒で、
10支族は黄金の子牛「アモン」を崇拝していた。

アモンは太陽神「アメン」のことで、
本来のヤハウェは「アメン」なのだ。

何故、それが子牛で象徴されているかというと、
牛の姿をした「カナン神話」に登場する主なる神
「バアル」と習合したからである。

バアルはもともと太陽神だったが、
息子の「ミトラ」が太陽神の性格を継承し、
バアルは嵐の神として位置づけられるようになった。

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牛の姿をした嵐の神「バアル」は、
牛頭天王と呼ばれる暴風雨の神「スサノオ」と一致する。

古代日本には、このスサノオの現人神とされた人物で、
日本建国の父と呼ばれる「フツシ」がいる。
その後継者の「ニギハヤヒ」が、
封印された真の初代天皇で「太陽神」とされている。

つまり、「バアル」と「ミトラ」の関係は、
「スサノオ」と「ニギハヤヒ」の関係に対応しているのだ。

スサノオは高天原から追放されて地に落とされたが、
出口王仁三郎や『日月神示』によると、
人類の罪穢れを背負って隠れた「贖罪神」だという。

その姿はまさに、人類の罪を背負って十字架で処刑された
「イエス・キリスト」の姿とオーバーラップする。
つまり、イエスもスサノオの現人神だったのである。

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また、高天原から追放されたスサノオの姿は、
天界から追放された「ルシファー」と一致し、
共に悪神として封印されている。

キリスト教の神学では「バアル」も悪魔扱いされているが、
そのスサノオ(バアル=ルシファー)の分魂こそが
「イエス・キリスト」なのである。

太陽神「ミトラ」はバアルの息子だが、
バアルの生まれ変わりでもあり、ミトラス教の主でもある。

そしてイエスの昇天後、イエスが神格化されてキリスト教が成立し、
ミトラス教の影響を受けて「ミトラ」と習合した。

ミトラをサンスクリット語で「マイトーヤ(弥勒菩薩)」と呼び、
末法の世に救世主として誕生することを予言した。
それが、キリスト教でいうところの「キリストの再臨」である。

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何が言いたいかというと、
現在のキリスト教はユダヤ教の流れを汲み、
「アトン」を主ヤハウェとして崇拝しているのである。

だが、本来は「バアル」が主ヤハウェであり、
その顕現が象徴的に「イエス・キリスト」なのだ。

換言すれば、イエスが「天の父」と呼ぶ主なる神は
「ルシファー」ということになる。

その証拠に、聖書でイエスは
「光」「蛇」「明けの明星」で象徴されているが、
それはルシファーの象徴と符合している。

尚、「キリストの再臨」とは「天照大神の再臨」であり、
それは「ニギハヤヒの再臨」を暗示しており、
現在の天皇家に出雲族の霊統が復活して、
「世界天皇」が誕生するという予言である。

その「再臨のキリスト」は現在、小学校に通っている。

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前置きが長くなったが、阿弥陀仏は「ルシファー」なのだ。

南無阿弥陀仏とは、
「ルシファーに身も心も投げ出して信じ奉ます」
という意味なのである。

従って、浄土宗や浄土真宗などの念仏宗(阿弥陀信仰)は
「ルシファー教」ということになる。

私から言わせれば、日蓮宗や真言宗や天台宗も「ルシファー教」で、
ルシファーを悪魔と呼ぶなら「悪魔崇拝」ということになる(笑)

私が「悪魔崇拝」を謳っているのはそのような遊び心なのだが、
詳細は「神仙組2」をお読み頂きたい。

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ルシファーは宇宙に遍在する永遠の光であり、
大宇宙そのものを表しているのだが、それは各次元に顕現していて、
3次元に現れた中の1人が「イエス・キリスト」なのである。

イエスは真我に目覚めた人物であり、
イエスが言う「わたし」とは「真我」のことである。

真我と言っても無数の次元が存在し、高次元になるほど統合が進み、
最高次元である大宇宙の意識が「阿弥陀仏」ということになる。

もちろん、宗教によって様々な呼び方があるが、
今回は親鸞の話をしているので
「阿弥陀仏」という名称を使っているだけである。

イエスが真我に目覚めたというのは
「魂の意識が覚醒した」ということである。

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従って、主なる神(天の父)というのは、
魂の親である「トータルセルフ」ということになる。

ハイヤーセルフの集合体が「トータルセルフ」だが、
一般的に「ハイヤーセルフ」で統一されているので、
「ハイヤーセルフ」と呼んでも差し支えないだろう。

要するに、人間にとって直接的な魂の親であり、
常に救いの手を差し伸べているハイヤーセルフ
(臨時の自己)が「阿弥陀仏」ということになる。

その阿弥陀仏は輪廻を解脱した世界、
極楽浄土(5次元)に実在し、人間はその投影である。

つまり、「3次元の自分を救いたい」と願っているのが
「阿弥陀仏の本願」であり、親鸞はそのことを悟ったのだ。

「阿弥陀仏の本願は親鸞ただ一人を救うためであった」

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その阿弥陀仏に帰依することを「他力本願」と呼ぶ。

「阿弥陀仏は一切衆生を救済するのではないのか」
と疑問に思うかもしれないが、
阿弥陀仏(ハイヤーセルフ)は万人の内在神である。

また、人間次元で見れば分かる通り、
「一切衆生を救済したい」という願いは、
自分の世界に存在する「自分の投影(人類)を救いたい」という願いで、
自分の真我覚醒と同時に「原因の世界」で衆生済度が成就するのである。

では、念仏を唱えていれば救われるのか……。
「救われる」というのは、輪廻を解脱して真我に目覚めることである。

まず、親鸞の教えの根底には「悪人正機」というものがある。

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悪人正機とは……wikipediaには次のように説明されている↓

『悪人正機は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、
「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による
救済の主正の根機である」という意味である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。
すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。
よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、
阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である』

『「悪人正機」の意味を知る上で、
「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。
ここでいう善悪は、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。
また一般的・常識的な善悪でもない。
親鸞が説いたのは仏の視点による善悪である』

『法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、
どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、
すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。
悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、
仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、
根源的な「悪人」であると捉える。
阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、
自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。
その時に初めて気付かされる「悪人」である』

『親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、
「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に
気づくことのできていない「悪人」であるとする。
また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、
「どんな悪人でも救済する」とされる
「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える』

『凡夫は「因」がもたらされ、「縁」によっては思わぬ「果」を生む。
つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、
善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。
どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である』

『我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。
1.自分のやった善行によって往生しようと思うのは、
  阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。
2.何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、
  その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。
3.善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、
  本質的な善悪の判断基準がない』

『すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、
阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、
その本願力によってのみ救済されるとする。
つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれた通り、
一つの善もできない悪人だったと知らされるから、
早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが悪人正機の本質である。

しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」
と誤解されやすく注意を要する。
さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、
阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと
『仏説無量寿経』で説かれていることは、
「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、
つまり我々一人一人のためであったと受け止め、
称名念仏は行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した』


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人間は神の子(阿弥陀仏の投影)なので、
私は「性善説」を支持する者ではあるが、
逆もまた真なりで人間は本質的に「悪人」でもある。

光(ルシファー)を知らない無明ゆえに、
輪廻の世界で彷徨っていること自体が悪人の証明である。

光は「阿弥陀仏」でも「イエス・キリスト」でも何でもよいが、
要するに、内なる神である「真我」のことである。

人類は宇宙カルマを共有し、それを解消する為に
カルマを分担して人間界に誕生しているのである。

これは何も暗い話ではなく、悲観的に考えることもない。
カルマを解消して苦から脱却した時に、楽(歓喜)があるからだ。

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少なくとも、内観をして「自分は善人だ」と言える者は存在しない。

親鸞も「深く内省し」と書かれている通り、
古今東西、内観なくして真我に目覚めた者は存在しないだろう。

そして、自分が悪人であることを認めることによって、
阿弥陀仏(真我)の本願力が発動するのである。

悪が悪を浄化することができないように、
人間(悪人)は自らを浄化することはできないが故に、
他力の本願力(阿弥陀仏の光)で抱き参らせてもらうのだ。

「光」で象徴されるイエス・キリストに罪を告白して赦しを請う。
「阿弥陀信仰」と「キリスト教」は非常によく似ている。

但し、阿弥陀仏もキリストもルシファーも同一神だが、
「内在神」であることを認識しなければ意味がない。
それが認識できないもの「無明」ゆえの「罪」である。

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そして、親鸞は「四六時中、念仏を唱えよ」と説いたが、
なぜ、常に唱え続けなければならないのかというと、
雑念や思考や感情や想念など「自我」を沈静化させて、
無我の境地で人生を送ることを教えているのである。

従って、唱えるものは題目でもロザリオでも何でも良いが、
デタラメな適当な言葉よりも、神仏と繋がる言葉の方が良い。

題目とは「南無妙法蓮華経」を唱えることで、
妙法蓮華経は宇宙の根本原理を表している。

ヒンドゥー教では、宇宙の根本原理「ブラフマン」が
人間に顕現したものが「アートマン(真我)」であり、
その本質的同一性が説かれているが、
阿弥陀仏は「アートマン」に対応する。

つまり、「念仏」と「題目」は本質的には同じ意味なのだ。

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一般的な解釈では、念仏は「他力本願」で、
題目は「自力主義」だと説明されているが、
他力本願は真我(阿弥陀仏)の力を引き出すもので、
それは真の意味での「自力主義」と同じなのである。

念仏は「阿弥陀様、お救い下さい」というような、
お願い系のイメージがあるかも知れないが、
親鸞は「報恩謝徳の為である」と明確に説いている。

Wikiperdiaには載っていなかったが、私の知識では、
晩年の親鸞は「人間は既に阿弥陀仏に救われている」と説き、
その報恩感謝の気持ちで念仏を唱えよと説いた。

即ち、「私は既に真我に救われています。
有り難う御座います。感謝します」
ということなのだ。

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その前に「悪人正機」が前提なので、次のような意味になる↓

「ご免なさい、許して下さい。
私は阿弥陀仏に身も心も投げ出して信じ奉り、
既に救われて極楽浄土にいます。
有り難う御座います。感謝します」


これは過去完了形で欲望ではないので、正しい祈り方である。
換言すれば、以下のような意味と同じであり、
意識進化の出発点とするべき意識の持ち方である。

「私は真我と合一した完全体である」

意識進化の前提条件
http://new-mu.seesaa.net/article/375285038.html

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もちろん、同じような気持ちなら題目を唱えても同じだが、
「救われたい」「願いを叶えたい」という依存心があれば、
念仏を唱えても題目を唱えても幽界と波長が合うことになる。

まず、「救われたい」という想いは苦しんでいる霊と同調し、
「願いを叶えたい」という欲望も低級霊を引き寄せることになる。

また、言霊の力を考えるなら「祝詞」か「真言」が良いだろう。
もちろん、「ホ・オポノポノ」を唱え続けるのもお勧めである。

音声は発した方が良いが、無理な場合は心の中で唱えても良い。
感情を込めずに機械的に唱えているだけでも良い。

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「自分は完全である」
「自分は悪人である」


この矛盾した2つの認識を持てというと、無理だという人がたまにいる。
私は普通に受け入れることができるが、なぜできない人がいるのか……。

おそらく、物事を頭で考えるクセがあるのではないだろうか。
常に「胸」で考える習慣をつけていれば理解力が高まり、
それが「真我覚醒」の近道であることを意識してもらいたい。

論理的な説明が必要であるなら、ルシファーの預言書である
『日月神示』に次のように示されている。

「善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない」

「善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、
悪のみにてもまた同様である」

「神をはなれた善はなく、
また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊に地上人はこの善悪の均衡の中にあるが故に、
地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、
地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである」


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もりけん氏の『ハンドルを手放せ』には次のように書かれている。

タオが完全だから、悪がある

『……宇宙が始まる前のことをタオというのです。
一なる気が分裂して陰と陽が生まれました。
陰と陽が混じり合って物質が誕生しました。
これらはすべてタオが創造したのです。
タオは、私たちの内部にあって、
生きとし生けるものすべての生命サイクルを助けています。
いつも私たちと一緒にいます。
でも、タオはいつも一緒にいるのに、
どうして天変地異などが起きるのでしょうか?
どうして悪人がいて、凶悪な犯罪が起きるのでしょうか?
それによって殺される人が出るのでしょうか?
どうして病気で死ぬ人がいるのでしょうか?
タオの力はそこまで及ばないのでしょうか?
道教ではなんと、この答えは……。
タオが完全だからこそ、世の中に悪がはびこる余地があるのです。
もしもタオによって管理されていたらどうでしょうか?
私たちに自由がない代わりに、悪も、災害もなくなります。
完全だからこそ、陰と陽があるのです。
完全だから、一般的に悪と言われるものが存在するのです』


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タオは「宇宙の根本原理」と言ってもよい。
それ故に、人間は悪人だが「実相は完全」であり、
その悪を浄化することによって無限に進化していくのである。

『日月神示』には次のように示されている↓

「悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、
善の善悪となすことによって、三千世界は弥栄となり、
不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」

「本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。
しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として
育て給わんがために課せられたる地上人の
光栄ある大使命なることを自覚しなければならない」

「悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。
神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。
大完成から超大大完成へ向かって常に弥栄しているのであるぞよ」


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ちなみに、「ハンドルを手放せ」というのは、
「他力本願」の生き方と同じである。

真我(阿弥陀仏)に身も心も投げ出して信じ奉じて、
全托するが故に、自我(思考や感情)に従わずに、
天啓(直感)に従って行動することができるのだ。

その為に「阿弥陀仏に帰依します」という意味の念仏を唱え、
自我(思考や感情)が働かないようにするのである。

真我(阿弥陀仏)に従うのが「霊主体従主義(善)」、
自我(自由意志)に従うのが「体主霊従主義(悪)」である。

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前回も書いたが、人間が生かされている存在なので、
見通しの神(ハイヤーセルフ)から真我(魂)を通して伝達される
テレパシー(指令)を忠実に実行しなければならないのである

それでは人間は単なるロボットではないかと思うかもしれないが、
そのような考え方は故障したロボットと同じである。

人間の肉体・頭脳・心は「真我」の道具であり、
真我(魂)を通して神の指令通りに動くのが正常なのだ。

例えて言えば、魂はロボット(肉体)の操縦士で、
ハイヤーセルフ(神)の指示に従って操縦するものだが、
ロボットが意志を持ち、操縦士の存在も知らずに
好き勝手に動いているようなものである。

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『日月神示』には次のように示されている↓

「神は理屈ではない。理であるぞ。
生きた自由自在の、見当とれん絶対であるぞ。
ただ求めるより外に道はないぞ。
親呼ぶ赤子の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。
すべてを投げ出せよ。まかせ切れよ。
神は喜びの光となって、そなたに現れてくるぞ。
理屈の信仰に囚われると邪道。赤子心の理解は第一ぞ」

「神まかせがよい人民であるぞ。
この神と認めたら理解して、まかせ切れよ。
雨降らば雨を、風吹けば風を、ひとまず甘受せよ。
受け入れずにはね返すのは大怪我のもと。
何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。
何か迫りくるのは、何か迫りくるものが自分のなかにあるからぞ。
内にあるから外から迫るのじゃ。自分が呼び寄せているのじゃ」

「まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。
まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。
おかげ信仰 や病気治しの神ではまかせ切れまいがな」

「神まかせがよい人民であるぞ
これと一応信じたら任せきれよ。
梶を放して鳴門の渦の中に任せきれよ。
任せきると開けてくるのぢゃ。
悟れたようでいて、そなたが悟り切れんのは任せきらんからぞ」

「鳴門の渦巻を渡る時は梶をはなして、
手放しで流れに任せると渡れるのであるぞ。
梶を取ると同じ処をグルグルぢゃ。
梶を放せる人民少ないのう。
何んでも彼んでも梶をとって自分の思ふ通りに
舟を進めようとするから大変が起るのぢゃ。
渦に任せきる時は任さなければならんぞ。
ナルトの仕組の一面であるぞ、大切ごとぞ」


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『日月神示』が説く「善と悪の役割」とヤハウェの恐怖
http://mujaki666.seesaa.net/article/125393113.html
スウェデンボルグが説く「善と悪の役割」と2つの樹の実の熟成
http://mujaki666.seesaa.net/article/125393377.html
汝、宇宙一の大悪党になる覚悟をせよ!
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/161026665.html
汝、悪を追求して、いい加減な人生を歩め!
http://kemono666.seesaa.net/article/254659287.html
真の信仰の原点となるYMOの法則
http://new-mu.seesaa.net/article/363105937.html
キリスト教で救われた僧侶
http://new-mu.seesaa.net/article/355575859.html
他力本願と蜘蛛の糸
http://new-mu.seesaa.net/article/366991110.html
悪人は既に他力本願で救われている
http://new-mu.seesaa.net/article/367582895.html

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posted by ZERO at 18:09| Comment(5) | 青森白木上神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ZEROさん、こんにちは。

最近、日に日に日月神示が読みたくなっています。
日月神示関係の本は何冊かあると思いますが、
5、6000円する完訳 日月神示をいきなり購入して
読むという感じでもいいでしょうか?

Posted by ファイブリッチ at 2013年10月09日 15:21
感慨深いですね。ユニークなお話しを聞かせてもらいました。また来ます。
Posted by ポニー at 2013年10月09日 23:15
ファイブリッチさん、こんにちは。

日月神示の完訳、良いと思いますよ〜^^
解説書などは一部しか載っていませんし、
艮の金神がルシファーだと分かっていない著者も多いので。


ポニーさん、こんにちは。

訪問ありがとうございます。
ぜひまたお立ち寄り下さい^^
Posted by ZERO at 2013年10月11日 16:44
www(666)の世界をさまよってたどりつきました。

ページの雰囲気を裏切る親切すぎる内容に感謝
ありがとうございます


Posted by nene at 2015年08月21日 05:48
naneさん、こんにちは。

ありがとうございます^^
Posted by ZERO at 2015年12月19日 19:40
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