2013年11月02日

「瞳光の不睨」による天人合一法

今回の記事は前回のタイトルとは正反対で、
「覚醒に到達する為の思考停止法」だが、
肥田春充は自ら編み出した強健術によって、
悟りの境地に到達して時間の謎をも解明した。

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「時間」については改めて述べるが、
半田広宣氏は時間と空間の関係について、
次のように述べている。

『わたしたちの「今=現在」は全く違ったものです。
「今=現在」はあり続けている過去をつねに包括しており、
そのつど変化、変容していきます。
このように時間をイメージしていくと生きているのは現在ではなく、
過去だという感覚がわき起こってきます。

こうした過去のことを哲学は即自的過去と呼びますが、
わたしたちは過去が存在として生きている
こうした即自的過去の場所をありありと
描像できるようにならなくてはなりません。
わたしたちにおなじみの4次元時空というのは、
この即自的過去の上を覆っている薄い皮膜にすぎないのです。

この即自的過去が息づく場所が実は「奥行き」なのです。
「奥行き」はわたしたちの即自的過去の現れです。
日頃慣れ親しんでいる時空という場所に対して、
この即自的過去としての「奥行き」を
そのまま幅の無限収縮と見なしましょう。
そこに天使として生きる素粒子たちの世界が展開しています』


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「今ここに生きる」ということを説く人が増えているが、
半田氏の話は、「今この瞬間は本質的には過去である」
という私の主張と一致しており、そのことは、
現象界が「結果の世界」であることを考えても明白だ。

また、空間の奥行きは、時間の即自的過去現れとのことだが、
その巨大な宇宙が無限縮小された認識を「顕在化」という。

さて、宇宙を凝縮して素粒子にするイメージはできても、
私にはまだ感覚も認識もない(顕在化が起こっていない)。

だが、宇宙が凝縮されて自分と一体化したような感覚は、
小学生か中学生の頃から度々体験してきて、
これは一種の「天人合一」と呼んでも良いかも知れない。

これは「顕在化」と呼べるものではないかも知れないが、
近いものがあるのではないかと思われる。

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私がこれを度々体験して漠然と認識できるようになったのは、
過去に何度か書いてきて前回の記事でも書いたが、
肥田式強健術の「瞳光の不睨」の修練によるものである。

肥田式強健術は本を読んだり映像を見ただけではできないので、
私は主に「腹式呼吸」と「瞳光の不睨」だけを実践してきた。

肥田式強健術には以下の8つの項目が掲げられている↓

@筋肉の発達 A内臓の壮健 B皮膚の強靭 C体格の均整
D姿勢の調和 E動作の敏活 F気力の充実 G精神の平静

これらは全て中心力が基礎となっているが、
「精神の平静」の為の修練が「瞳光の不睨」で、
オコツトがいう「無限遠点」の位置を悟ることに繋がる。

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半田広宣氏は「無限遠点」という言葉を聞いて、
遥か無限の彼方をイメージしていたそうだが、
それは「自分の位置」であることに気づいたという。

私は8年前に上図を見た時、
「瞳光の不睨」による感覚を思い出した。

即ち、空間の奥行きの感覚が消滅することによる
宇宙の果てと自分の位置が等化する現象で、
それは文字通り一種の悟り(差取り)である。

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オコツトの説明によると、全ての二元対立を統合することを
「認識の完全化」といい、次のようにも説明している↓

「仏性とは確かに人間が認識の完全化を起こすことを意味しますが、
この力を生み出すことが新しい太陽系の創造と深く関係しているのです」

「思考によって認識を変え、
認識を変えることによって今度は感覚を変える。
そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、
人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。
意識進化とはそういうものです」


仏性とは真我(魂)のことで、
「真我覚醒=認識の完全化=悟り」だと言える。
私も人間なので全てに二元性を見て生きているが、
本質的には一元論を認識・知覚して生きている。

禅では「認識の完全化」を「生死解決」と呼ぶが、
やはり自己究明(真我覚醒)セットで説かれていて、
覚醒すると一元的なモノの見方ができるようになるのだ。

それでは『鉄人を創る肥田式強健術』より、
「瞳光の不睨」のやり方を紹介しておきたい↓

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精神の平静

自然体とは安静姿勢であり、休養大勢である。
と同時にまた、強い力を振るう前の準備姿勢でもある。
最も強い力は完全なる自然体からでないと発しないものだ。
ならば、精神の基本姿勢である自然体とはどのようなものか、
自然のままである。

雲の浮かぶを見ずや。水の流れを見ずや。
この大宇宙を映した態度、精神――これが自然体の真髄である。
すべからく自然なるべし。平凡なるべし。
ここに妙あり。禅あり。一切の奥秘あり。

だが、慎むべきは放心である。散漫である。
そこには何に精神気迫もない。
精神気迫なくして丹田に何の力がある。
活力なくして何の鍛錬ぞ。生命なくして何の修養ぞ。
自然体にあっては筋肉を弛緩させ、内臓器官を楽にし、
極めてゆったりとした自由な態度をとるのである。
とはいえ、放心ぼんやりであってはならないのだから、
その矛盾の調和を得ることはなかなか容易ではない。

自然体はすなわち静の極である。
この自然体に身を置いて、一度運動に移れば、
中心力を基礎として目的の筋肉に大緊張を与える。
すなわち動の極である。
静より動へ、動より静へ、休養と活動が交々連続し、
それが一体となって寸隙も生じず、
動静の二境まったく相融和して虚無充実に活き、
貫くにひとつの道をもってするのである。

こういうとはなはだ抽象的で大変難しそうだが、
それを具体的に現して目的を達する為の方法がある。
それは「瞳光の不睨」だ。
目は最も鋭敏な精神の使者だといえるだろう。
外界からの刺激は目から入って精神を衝き、
精神はまた目という門を通って表現される。

だから「眼はこれを開けば色相に妨げられ、
これを閉じれば雑念妄慮起こる」と言って、
仏教でも目の使い方に大きな苦心を払っている。
孟子はいう。「眸子はその悪を覆うことあたわず。
胸中正しければ眸子明らかなり。
胸中正しからざれば眸子暗し。人いずくんぞ隠さんや」と。
逆にいうと、目の統一は精神統一に直結することになる。


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それならば動静二境一貫の具体的方法である
「瞳光不睨」とはどのようなものか?
真に到達するには大いに修練を積まなければならないが、
方法そのものは何でもないことだ。
すなわち、両眼をぱっと無邪気に見開いて、
まばたきを少なくし、視線を定めるのである。

視線を定めるといっても、一定の箇所を見つめるのではない。
一物を凝視したり、目を動かしてしばしばまばたきをすると、
精神はひとところに凝り固まったり、放散したりしてしまう。
だから、まばたきを少なくして瞳光の不睨を期するのである。

無我無心である。自然である。恐れず、誇らず、考えず、
無邪気に目を見開いて、何が起きても心が凝滞していないから、
一切はそのままに我が心境に映ってくる。

これは極めて無邪気にならなければできないことで、
目が鋭く光るようではだめだ。
涼しく、ぽっかりと赤ん坊の様な目でなければならない。
動静勝敗ともに眼中にないから、怖い目つきをする必要はない。

視点は水平に置き、立っても座っても眼光をそれから離さない。
その先の先に宇宙の視野を開き、無限大の空間に視線を飛ばすのだ。
言葉を変えて言うと、視点は一定の箇所に定めるが、
視線は虚空に浮かべて、視界視野を無限大にするのだ。

実際はただ無邪気に、ただ無心に、
ぱっと目を見開いてまばたきを少なくしているだけである。
こうすれば瞳光不睨をいくら続けても疲れるということはない。


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何でもないつまらないことのようだが、
この妙諦(秘訣)を会得して修練を積んだならば、
新生命はこんこんと湧き溢れて尽きることなく、
いかなる難事に当たっても驚きもしなければ屈しもしない。

精神が定まり心が清らかになって、目が涼しくなる。
自然と邪念が去り、妄想も起こらない。
魂までも澄み渡ってくる。
空々乎として我れあるがごとく、なきがごとく、
果ては運動そのものをも超越してしまう。

要するに中心に注ぐことだ。
期せずして無心になり、心眼も自ずから開かれる。
だがしかし、瞳光不睨の妙は、正中心を離れては、
断じて存在し得ぬものであることを忘れてはならない。

いや、正中心がしっかり鍛られれば、
瞳光不睨の境地は自然と現れるものであって、
正中心は本、瞳光不睨は末である。
が、正中心入門の第一歩として、
瞳光不睨の修練をすることも初心者向上の近道だろう。

そのためには、まず首を伏せたまま、ぼんやりと起立する。
そして腰を据え、腹を落とし、正中心を定めて呼吸を整える。
突如、グイッと首を上げて、正面に向かうと同時に、
キッと眼光を放って視線を一定する。

すると両眼から電光のように精力が迸り出るのを感じるが、
この時は一切の是非、善悪の念もなく、人間万事を捨て去り、
天空海闊の新神光に接する思いがする。

それから腰腹の力を抜いて、静かに自然体に返るのである。
けれども中心の正しい形は、
いかなる場合でも崩さないようにしなければならない。

瞳光不睨は精神の抽象的中心を、
肉体の物理的中心に合致させる最良の道である。
腰腹正しく、眼光澄み渡る時、
心身ともに中心丹田において復活更生し、
そこに輝かしい新世界が展開されるのである。


転載終了。

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正中心(丹田)が鍛られれば瞳光不睨の境地は
自然と現れるとのことだが、正中心入門の第一歩として、
瞳光不睨の修練をすることも初心者向上の近道だという。

正中心(丹田)を練磨して、精神の平静を得る為には、
強烈な丹田呼吸である「肥田式腹式呼吸法」が効果的で、
8つの項目のうちの「A内臓の壮健」に該当する。

私は両眼から電光のように精力が迸り出たる経験はないが、
肥田式腹式呼吸法をした後に、横になったままで、
目の前の天井の一定の箇所に視点を定め、
宇宙の果てに視線を飛ばすように瞳光不睨を行なっていた。

私の場合、所要時間は5〜10分程度だったが、
基本的に毎日続けることが大切で、
肥田式腹式呼吸法とセットで日課にしてもらいたいと願う。

天人合一に至る「肥田式腹式呼吸法」
http://japan666.seesaa.net/article/143594110.html

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「無限遠点」については以下の記事も参照してもらいたい↓

真我覚醒と内外反転
http://kemono666.seesaa.net/article/265344552.htm
汝、5次元にアセンションせよA
http://kemono666.seesaa.net/article/292028924.html
4次元世界の謎@
http://kemono666.seesaa.net/article/291028564.html
4次元世界の謎A
http://kemono666.seesaa.net/article/291308691.html
無限遠点が導く変換人型ゲシュタルトと鏡像反転の真相
http://mujaki666.seesaa.net/article/169546994.html


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posted by ZERO at 08:04| Comment(0) | 呼吸法・瞑想法・言霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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