「鏡瞑想」を思いついたので載せておく。
以前、鏡を使った「ミラーチェック」や
「自霊拝」という瞑想を紹介したが、
今回紹介する「鏡瞑想」は、
鏡に映った自分の顔を見つめるだけである。
他者は自分の断片の投影だが、
鏡に映った自分の姿は自分の顔そのものの投影である。
他者は自分自身、鏡に映った自分も自分自身なので、
他者と見つめ合うのも良いが、
まず個人的な自分自身を見つめることが基本であろう。

通常、人間は体外離脱をしない限り、
自分の姿を客観的に見ることはない。
要するに、内観しなければ自分の内面が見えないように、
鏡を見なければ自分の外面(全身)を見ることができない。
「内外反転」すれば、外側の世界そのものを
「内側」として観るようになるが……。
特に、顔は心の顕れと言われているので、
鏡で自分の顔を見つめることも一種の「内観」だと言える。
それは「自霊拝」や「ミラーチェック」と共通するが、
今回はただ単に「鏡を見る」という瞑想法である。

藏本天外氏によると「鏡は潜在意識」だという。
もちろん、鏡そのものが潜在意識ではないが、
鏡に映った自分に話し掛けると潜在意識に深く入っていくという。
更に言えば、鏡に映った自分の姿を「真我」だと仮定しても良い。
天の岩戸から出てきた天照大神も、
「鏡に映った私の姿を私だと思って祀れ」と言っている。
天照大神とは即ち「真我」である。

そして、鏡に映った自分の顔を見るのは
「自分が見ている視点」である。
と同時に、鏡の中の自分と目を合わすことは、
「見られている感覚」も同時に体験していることになる。
その「見られている感覚」は即、
「自分を見ている視点」でもあるが、それはまさに、
「見ている者と見られている者の区別のない世界」
の擬似体験に他ならない。

私は昔、一般的な意味でのナルシストだった。
不登校を始めた小学校5年の頃から高校時代までがピークで、
何時間でも自分の顔を鏡で見ていた時期があった。
決して、自分の顔が理想の顔ではないのだが、
毎日鏡に映った自分の顔を見続けていた。
それによって自分の内面が見えてきたとか、
真我が覚醒したというようなことは全くなかったが、
「見ている者と見られている者の区別がない世界」
を意識して鏡を見ていれば、意識進化に役立つと思われる。

今の私は普段、歯を磨く時やヒゲを抜く時以外は殆ど鏡を見ない。
ヒゲを抜く時は口元だけしか見ていないので顔全体は殆ど見ない。
まともに鏡を見るのは、外出先でトイレに入った時くらいだが、
自分の顔を鏡で見る時間を増やすことは良いことだと思う。
自分の顔を見て表情のチェックをすることも大切だが、
今回提案するのは、鏡に映った自分と
目と目で「見つめ合う」ということである。
瞑想というと、普通は目を瞑るものだが、
それは目から入る情報を遮断して無我の境地に近づく為である。
同じように、何も思わず考えず、1分でも5分でも良いので、
鏡に映った自分と見つめ合うことを日課にしてみてもらいたい。

ちなみに、マルチョン瞑想はピラミッド・アイ
(ルシファーの目)と見つめ合う瞑想だと言える。
余談だが、江戸時代の曹洞宗の僧曹・月舟宗胡が、
死ぬ間際に描いた上の自画像もマルチョンである。

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