2013年12月10日

「他者は存在する」という世界観

引き続き、テラ氏の記事を紹介しよう↓

私が去年の5月にブログを始めてから初期のころに、
『他人はいない』 という記事を書いた。
ブログサイドにある(PC閲覧時)『人気記事ランキング』
にもある、よく読まれている記事である。

もちろん、今でも自分で書いたその内容を
(自分の宇宙において) 間違っているとは思っていない。
でも、時を経た今、もう少し言いようがあるだろうという思いがある。
私が、このブログでたまに言うこと。

正論は、人を救わない。

この世界でゲームをする上で、『他人はいない』
というこの究極の理屈は、さほど役に立たない。
だって、いるんだもん!目の前に!
それを無視できます?

いくら、この人は自分が生み出したんだ、
元はといえばワンネスで同じなんだー
そんなことを念仏のように心の中で唱えたところで、
その思考は上滑りしませんか?
ムリクリ感がありませんか?(もちろん、ない人はいいんですよ)
多くのケースで、結局何か現実逃避チックなことになっている。

だから今回、私は大胆にも過去記事のタイトルを真逆にして、
題して、『他人はいる』!

たとえ話をしてみよう。
パソコンをいじっていると、必ずお世話になる 『カーソル』 。
マウスを動かすと画面上を動く矢印の、アレね。
聞きますけど、あれ実際の矢印ですか?
本当にああいう矢印が存在して、画面の中を動き回っているのですか?

違いますね。
実は、モニターの液晶画面内のドット(細かい点 の明滅が正体で、
それがいかにも「矢印が動いている」かのように見せているんですね。
つまるところ、カーソル (矢印) なんてない、というのが真実です。

でも、だからといって日常生活の中でこう言いますか?

『カーソル (矢印) のように見えてるけれど、
実は画面を構成している細かいドットの明滅が
動いているように見せかけているよ!』

う〜ん、正しいんだけど回りくどい。面倒くさい。 
それはそうだとしても、もっと簡単にこう言いませんか?

『カーソルが動いてるよ』

これでいいんです。
正しいからって、いちいち真面目に対応していたのでは、
自然な日常ではなくなります。
真実そのものとは違っても、
便宜上そのように言ったほうが処理が楽だし、自然です。

もうひとつ。
例えば、あなたがスーパーマリオのゲームをやっているとする。
画面の中に、マリオが実際にいるわけではありませんね?
もちろん、テレビ画面のドット (点) の明滅パターンが、
いかにもマリオがいて動いているように見せかけているだけです。

それが、まぎれもない真実。
だからって、あなたは画面の中のマリオを、クソ正直に
「マリオにように人の目には映るけれども、
実際は細かい点の明滅パターンが正体の映像」
なんて、呼びます?…長い。

単に、「マリオ、そこでジャンプだ!」
「ああっ、マリオ危ない!」でいいですよね。
例え真実を突いていなくても、
その方が自然だし、面倒がないし、何より『楽しい』。

私たちが認識する 『他人』 というのも、実はそのようである。
ひとつの宇宙の中に、たくさんの人間がひしめいていてー
私は無数にいる中の、たった一人に過ぎない。
そして私とは全く関係のない、別個の魂や意思があって、
それが私を苦しめたり、幸せにしたりするー。
そのように、見える。

しかし、究極の真実においては、一人一人が宇宙の中心である。
あなたが宇宙の王であり、
あなたが認識している広大な宇宙を創造し、開いている。
もちろん、(二元性の世界のカテゴリーで) 他人はいる。
しかし、その他人もその人自身の宇宙を開いている。

それが、私たち人間キャラには思いもよらないような見事なシステムで、
あたかも同じ世界に大勢の人が同時に存在しているように見せている。
まさに、厳密には画面上の点の明滅の集合にすぎないものが、
全体として不思議で楽しいゲーム世界に見せてくれているのである。

だから、「他人はいない」 という真実は、
せっかく他人がいるように見えるこの世界で楽しく生きる上で、
それほど大事なことではない。
確かに、何かの苦痛や試練を乗り越える上で
「憎たらしいけれど、この他人もやっぱり自分なんだ。
元を正せば、ワンネスでひとつなんだ」
と思うことで、多少の気休めにはなろう。

でも、何が何でも本気で腑に落とすべきものではない。
自然にそう思えたり、覚醒に導かれた人は別にいい。
問題は、今ここという最善の時においてそう思えない場合に、
それで「自分がまだまだ不十分」「スピ的に幼い」「腑に落とすべき」
となってしまうと、あまり楽しくない『試練の時間』を過ごすはめになる。
もちろん、それが悪いことなのではない。すべては同価値。
ただ、ゲーム展開的にあまり楽しくないでしょうね、というだけ。

ブログを始めた頃は、色々ダウンロードして分かることが嬉しく、
無造作にメッセージを言い放ってしまった。
「他人はいない」 というのもそうだし、
「私が認識していない世界は存在していない
(私が今見ていない駅前のローソンは、存在していない。
駆けつけたとたん、一瞬にして創造される)」 というのもそう。
 
これらは正論だが、分かったからってだから何が変わるの?
って程度の話。知らないほうが、ずっと快適に生きられる。
逆に下手に知ってしまうことで、
腑に落とせないことが心に引っかかって、悶々としたり。
 
私が見ている限り、スピの世界において
心の平安以上に知的好奇心の方が勝っている人は多い。
そういう人が、「あれがこうなら、これどうなんですか」
とうるさく質問してくる。

スピリチュアルとは、理屈を納得することではなく
『魂で感じるもの』 である。
知的パズルに必死になっている人がいる。
それによって、かえって『この世ゲーム』がやりにくくなる人がいる。
幸せになる為にスピを学ぶんだろうに、皮肉な結果になっているよね。

だから今、私は過去記事のタイトルを、言い換えたい。

『他人はいる!』

それは、他人がいない、という内容が間違ってました、というのではなくー
真面目に正論を意識し続け、周囲とはズレた痛い人にならないためにも、
この世界の流儀に従って 『他人はいる』 ってことで、
他人を大切にして生きたほうが楽しいよね、ってこと。
ことわざでも、『郷に入らば郷に従え』って言うでしょ?
一元性の世界の 『空意識』 が、この二元性の世界に遊びに来たんだからー
この世界の流儀に合わせるほうがいいのは、明らかですよね。


転載終了

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「だって、いるんだもん!目の前に!それを無視できます?」

とのことだが、無視できません(笑)

私も肉体を持った人間である以上は自我があるので、
自我では「他者は存在する」と認識している。

つまり、「他者が存在する」という自我の意識と、
「他者は投影だ」という真我の2つの意識を持っている。

もちろん、真我が本当の自分だと分かっているので、
自我の認識に惑わされることはないのだが……。

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さて、カーソルとマリオの喩え話が出てきた。

「カーソルが動いてるよ」
「マリオ、そこでジャンプだ!」
「ああっ、マリオ危ない!」


例え真実を突いていなくても、
その方が自然で面倒がないから、これでいいという。
それについても異論はないが、
あまり適切な喩えではないので異論を唱えておきたい。

理論的に解説すると煩雑になるのでシンプルに説明しよう。

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ゲームをしていて、
「マリオにように人の目には映るけれども、
実際は細かい点の明滅パターンが正体の映像」
などと思うことはない。

それと同じく、目の前に人が見えるが、
実際に実在していなくてどうのこうのと、
左脳で分析するようなことはない(笑)

人間としての肉体意識(自我)の私は、
普通に「目の前に人がいる」と認識する。

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そして、もう1つの意識、
即ち本来の私である魂の意識(真我)では、
この世界が自分の投影であることを分かっている状態である。

夢であることを自覚しながら夢を見ている
「明晰夢」と同じような状態だという表現が的確である。

ゲームの世界が「この世」で、
自分が操作しているキャラが「この世の自分」、
その操作している自分が「真我」だと仮定してみてもらいたい。

真我が我を忘れてゲームに没頭し、意識がゲームの世界に入り込み、
ゲームのキャラに成りきっているのが、いわゆる「人間」なのだ。

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真我に目覚めた人間というのは、ゲームをしていることを
認識しながらゲームをしているようなものである。

ゲームが現実ではなく、画面の中のキャラも本当の自分ではなく、
他の登場キャラも実体ではないことを認識しているが故に冷静で、
「他者は存在しない」ということが分かっているのだ。

本当の自分は「ゲームをしている自分」であり、
本当の他者は「別のモニターでゲームをしている対戦者」である。

つまり、本当の自分と他者はゲームの中には存在していないのだ。

殆どの人が「そんなことは当たり前だ」と思うだろうが、
ゲームを人間界に置き換えると、
殆どの人が全くそのことに気づかずに生きているのである。

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以下の部分は注目に値する。

「ひとつの宇宙の中に、たくさんの人間がひしめいていてー
私は無数にいる中の、たった一人に過ぎない。
しかし、究極の真実においては、一人一人が宇宙の中心である。
あなたが宇宙の王であり、
あなたが認識している広大な宇宙を創造し、開いている。
もちろん、二元性の世界のカテゴリーで他人はいる。
しかし、その他人もその人自身の宇宙を開いている。
それが、私たち人間キャラには思いもよらないような見事なシステムで、
あたかも同じ世界に大勢の人が同時に存在しているように見せている」


これも私が繰り返し巻き返し主張し続けていることだが、
「内外反転」に至っていなければ認識できないことである。

私は他のスピ系ブログを読み歩いたりは殆どしないので
無知なだけかも知れないが、
この世界観を説いている人を今まで見たことがない。

その意味でも、テラ氏は大したものだと思う。

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ただ、単なる価値観の違いなら問題ないのだが、
私が異論を唱えたいのは以下の部分についてである。

「他人はいないという真実は、
せっかく他人がいるように見えるこの世界で楽しく生きる上で、
それほど大事なことではない」


「他人はいない」というのは真実だが、
その世界観では楽しく生きられないから、
「他人はいる」という認識を捨てる必要はない、
と言いたいのだと思うが、私はそれを否定したいのではない。

くどいようだが、私は真我では「他者は存在しない」、
自我では「他者は存在する」と認識している。
肉体を持っている間は自我は付き物なので、
「他者は存在する」という認識がなくなることはない。

つまり、私が言いたいことは、「他人はいる」という逆説を
敢えて書く必要はないのではないかということである。

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「他者は存在しない」というのは、
「この世は夢である」という意味だが、
バシャールの言う通り、
「夢は見えている間は現実」でもある。

つまり、人間がこの世に生きていることも事実ではある。

そして、「内外一致」の真理からすると、
「他者は存在しない」と「他者は存在する」
の両面を説いて真理となる。

その意味で、テラ氏が「他人はいる」という記事を
書いたのは正解で、高く評価したいのだが、
私が言いたいことを文章で上手く伝えることができない。

また、本当の楽しさは真我に目覚めた時に実感できるもので、
何もしていなくても楽しい状態、
真の歓喜、至福、安寧を獲得できるのである。

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「他人はいない」という世界観について、問題は以下の部分である。

『確かに、何かの苦痛や試練を乗り越える上で、多少の気休めにはなろう。
でも、何が何でも本気で腑に落とすべきものではない。
今ここという最善の時においてそう思えない場合に、
「自分がまだまだ不十分」「スピ的に幼い」「腑に落とすべき」
となってしまうと、あまり楽しくない試練の時間を過ごすはめになる』


何度も言うように、
自我では「他者は存在しない」ということは認識できない。

従って、「他者は存在しない」ということを、
どれだけ腑に落とそうとしても無理な話である。

「他者は存在しない」という世界観を認識している私でも、
自我でそれを認識することは不可能である。

テラ氏は、「自分がまだまだ不十分」「スピ的に幼い」
という想いに陥る読者が出てくることを懸念して、
敢えて「他人はいる」という記事を書いたのだと思うが、
他人が存在することは誰もが認識していることなので、
敢えてそれを論じる必要はないと思うのである。

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それだけならどうでも良い事なのだが、
私が最も指摘したいのは以下の部分である。

「郷に入らば郷に従え」

「一元性の世界の空意識が、
この二元性の世界に遊びに来たんだから
この世界の流儀に合わせるほうがいい」


これでは、意識進化の道も振り出しに戻って元の木阿弥である。

上記の2つの文章を合体させると以下のようになる。

「一元性の世界の空意識が、
この二元性の世界(郷)に遊びに来たんだから
この世界(郷)の流儀に合わせるほうがいい」


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まず、一元性の世界の空意識が、この二元性の世界(郷)に
直接的に生まれてきたのが現世の我々ではない。

そして、この二元性の世界から解脱できずに、
輪廻を繰り返してきたのである。

人生の目的が、一元回帰による輪廻解脱であるならば、
「他者は存在しない」という世界観を意識して生きた方が良い。

とは言え、自我だけで生きている人(真我に目覚めていない人)は、
日常的に「他者は存在しない」という知識を忘れている。

日常的に忘れているどころか、
私が「他者は存在しない、他者は自分の投影」だと説いた直後から、
それを完全に度外視した話をする人もいるし、
私の記事とそれに対するコメントでも同じことが言える。

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なので、何かネガティブな感情が湧いたりなどして、
内観すべき時に「他者は存在しない=他者は自分の投影」
という知識を思い出して、素直に反省と感謝ができるだけでも、
その人は素晴らしいと思う。

それで良い、それで十分である。

「他者は存在しない」ということを認識できないのはもちろん、
内観するべき時も「他者は存在しない」
ということを認識できなくても全く問題はない。

「他者は存在しない」ということは、
真我の意識でしか認識できないことなので、
「自分がまだまだ不十分」「スピ的に幼い」などと思う必要は全くない。

「他者は存在しない」という知識を獲得し、
「他者は自分の投影」だと(思えなくても)思って、
内観できることが素晴らしいのである。

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私は真我に目覚めるまで、
「他者は存在しない」という知識を持っていなかった。
当然ながら、それを前提として内観したこともなかった。

だが、認識できなくても、
「他者は存在しない」という世界観を前提に内観していれば、
もっと早く真我覚醒に至っていたと思う。

「他者は存在する」というのは錯覚だが、
他者が存在することは誰もが自我で認識していることである。

従って、「本質的に他者は存在しない」
という世界観を人々に教えるだけでいいのだ。

そして、それを前提として生きてみることである。
それが、意識進化〜真我覚醒を加速させる「知識」だと、
私は確信している。

それは、以下の記事の中で紹介した記事を読んで確信を深め、
既に何人もの人たちから意識進化の加速の報告メールを頂いている↓

人間型ゲシュタルトと自他一体
http://new-mu.seesaa.net/article/370519062.html

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ちなみに、そのような報告や喜びや感謝のメールは、
コメント欄に入れて頂ければ幸いである。

私に直接伝えたい気持ちも分かるが、
コメント欄に入れてもらって他の読者にも読んでもらった方が、
私の株が上がるからである(笑)

いや、実際にはそのようなことはどうでもいいのだが、
私の記事を読んで実践して、
「自分自身や周りや人生にこういう変化が起きました」
ということをコメント欄に入れてもらえると、
他の読者の励みにもなると思うからである。

それは結果として、救われる人が多くなるということである。
何だか宗教じみて自分でこういうことを言うのも嫌だが、
そのようなコメントを入れることも一種の「菩薩行」だと思う。

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「郷に入らば郷に従え」という話に戻そう。

それは即ち、
「二元性の世界に遊びに来たんだから、
この世界の流儀に合わせるほうがいい」
ということだった。

だが、本来の「郷」とは「一元性の世界」である。

何度も言うように、人生の目的が一元回帰であるなら、
この二元性の世界に革命を起こさなければならない。

即ち、「他者は存在しない」ということを悟ったのなら、
それを伝道することが「菩薩行」である。

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「他者は存在する」ということは、
誰もが自我で錯覚して認識ていることである。

また、どれだけ「他者は存在しない」と自己暗示をかけても、
自我ではそれを認識することは絶対に不可能である。

だから、「他者は存在する」ということは言う必要はなく、
「他者は存在しない」という世界観を持つ真我の覚醒に
導くことこそが重要だと私は思っている。

それは「他者は存在しない」という洗脳ではなく、
「他者が存在する」という洗脳からの脱却である。

尚、「他者は存在しない」と言っても、
3次元〜4次元と5次元では、その意味合いがまた異なるのだが、
話が長くなるので別の機会に改めて書きたいと思う。
(過去に何度も繰り返し書いてきたことだが……)

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最後に、誤解のないように述べておくが、
私はテラ氏の批判をしているのではない。

傲慢な言い方になってしまうが、
私は一部の記事に目を通しただけだが、
一応、推奨しておきたいブログである。


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posted by ZERO at 23:01| Comment(5) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私のような者の気持ちを理解し、認めようとしてくださってありがとう。☆(((o(*゚▽゚*)o)))☆

私はテラさんと一度名古屋で会ってますよ。(笑)
講演会にお話を聴きに行きに行ったんです。
テラさんの小説、おもしろいなって思っていたからテレビドラマのシナリオライターはどうですかって聞いちゃいました。

どういうシナリオならヒットするか全くわかってないのに。

「何だこいつは」って思われたみたいです。
(苦笑)

イマココの阿部敏郎さんにもお話し聴きに行きましたよ。「センチメンタルカーニバル、楽しくて好き」って伝えたら喜んでくれました。

名古屋のほうで用がある時は、ついでにお話し聴かせて欲しいなって思います。こちらに住んでいる人達を呼んで。

それでは今日は失礼します。
☆ヾ(@⌒ー⌒@)ノ☆




Posted by 石川裕子 at 2013年12月11日 23:24
こんばんは。

他者は存在しない、というのを信じ、
自我で納得しようとし始めて、1年が過ぎました。

もちろん腹が立ったり、忘れることも多々あります。
それでもZEROさんの教えを少しずつ取り入れ、直接自分に関係のないことでも反省し、オポノポノを心で唱え、怒らないよう恐れないよう実践してきました。

これで進化できました、と言えるほどの変化はありませんが、
感情任せに怒っていたころよりも、視野が広がったというか、冷静になれる自分がいます。
どんなに世の中が汚くとも、恐れてはいけないんだということをなんとなく理解できるようになりました。

うまく言えませんが、私は内外反転をもっと意識して、いつか真我の意識に辿りつきたいと思っています。

鏡瞑想、簡単なのでやれそうです。

いつもありがとうございます。
Posted by つん at 2013年12月12日 01:25
石川裕子さん、こんにちは。

名古屋でお話とは私のことですか?^^;
私も以前の拠点が名古屋で、住民票も名古屋のままで、
名古屋にも仕事関係の知人がいるので
行こうと思いながらなかなか行けずにいます。
行く時は予めブログ上で発表しますね^^
ちなみに、会場などで1人で話すのは苦手です。


つんさん、こんにちは。

私は4年間も母親に指導していますが、
まだ真我の覚醒には程遠いです(笑)
でも、2013年から覚醒期に入っているので、
進化の流れにさえ乗っていれば焦る必要はなく、
安心立命でいれば良いです^^
ろうそく瞑想と鏡瞑想は、つんさんに向いてるようですね。
Posted by ZERO at 2013年12月14日 01:10
こんばんは。

住民票、名古屋なんですね。o(^▽^)o

会場を借りて講演をされるより、
賑やかなファミレスやカフェなどで輪になって数人でお話しする方が楽しくて気楽でいいかもしれないですね。

ゼロさんは虹に特別な想いがあるの?

私にはあります。

私、1999年頃かな、作詞家の松井五郎先生の通信の作詞講座を受けてました。

課題の一つに曲に詞を付けるものがありました。

その曲が届く前の朝目覚めた時、同じ曲、メロディが聴こえました。

ビックリしました。

「ねえ、おいで僕のとこへ」と聴こえました。
そのままメロディにのせ、続いて浮かんだ言葉が

「愛ならこれから探しに行こう

そう、深い哀しみ耐えた君なら渡れる
虹の橋目指そう

僕はどんな時にも此処にいる
生きている事、誇りに思ってる。

目を閉じて…
生まれ変わろうよ
君を傷付けるモノ、全てかわして行けるように

君はもう1人じゃないんだ
愛と喜びを…
(途中です。)

わずかな時間でできた詞
タイトルは ☆虹の橋

1番元気にしたい自分自身への応援メッセージでもありました。(^O^☆♪

愛知の豊川に住んでますが3歳までは静岡市の浅間神社の近くに住んでました。
木花咲耶姫様とはご縁がありそうです。

私は前世はわからないけれど
前世からのご縁がゼロさんとはあるのかな。

ジャンヌダルクと似た魂を持っていると思っています。
普段はホワ〜ンとしてますが時々熱くなってしまいます。

その時はもののけ姫みたいかも。(笑)

見た目は普通、平凡な人です。
ゼロさんみたいにビジュアルで注目されるタイプではありません。

それではまた、メールしますね。
長くなってしまいました。ごめんなさい。








Posted by 石川裕子 at 2013年12月15日 18:57
石川裕子さん。こんにちは。

はい、一方的に1人で話すのは超苦手なので、
ファミレスでサミットを開くのが理想ですね^^

私は虹に対して特別な想いはないのですが、
私が虹シンクロだといって画像を載せることは、
石川さんの虹への想いに共鳴しているかも知れませんね^^
Posted by ZERO at 2013年12月21日 09:26
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