2013年12月11日

汝、「神」宣言をせよ!

『「他者は存在する」という世界観』
で紹介したテラ氏の記事に次のような話があった。

「究極の真実においては、一人一人が宇宙の中心である。
あなたが宇宙の王であり、
あなたが認識している広大な宇宙を創造し、開いている」


私の霊的アンテナでも同じ宇宙観を捉えているが、
要するに「宇宙=自分」ということであり、
人類が70億人いれば70億個の宇宙が存在し、
人間はそれぞれの宇宙に住んでいるのである。

即ち、他者は別の宇宙に住んでいて、
自分の宇宙に見えている他者は間接的な他者で、
そこに自分を投影しているのである。

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「他者は存在しない」というのはそういう意味だが、
自分の外側の宇宙は自分の投影であると同時に、
自分の「内側」そのものでもあるのだ。

人間の感覚(自我)では、
宇宙に自分の肉体が存在すると思っているが、
それは一面的な事実である。

あくまでも「宇宙=自分」であるが故に、
外側の世界は自分の内側であり、
その中心がまたこの肉体でもあるという構造なのだ。

故に、自分は自分の宇宙の王であり、神なのだが、
テラ氏は次のような記事も書いているので転載したい↓

世界の中心で『王』を宣言する
http://ameblo.jp/eyeofgod/entry-11617601586.html

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少し長文だが、ザックリと目を通して頂きたい↓

今ではもうあまり使わない言葉かもしれないがー
『セカイ系』 という言葉が、よく耳に飛び込んできた。
私はもともと、アニメやマンガなどを
好んで見ていたので耳慣れた言葉だがー
何のこっちゃ?という人のために、説明を試みる。

【セカイ系】

セカイ系 (セカイケイ) とは、
アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、
日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである 
ある個人の日常世界が、国家や地域社会などの中間項を排して、
直接地球の命運に直結する闘争につながる作品構造をとる作品のこと。

主人公 (ぼく) とヒロイン (きみ) を中心とした小さな関係性
(きみとぼく) の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、
「世界の危機」 「この世の終わり」 などといった
抽象的な大問題に直結する作品群のこと、とされている。

『新世紀エヴァンゲリオン』 という作品が、
セカイ系と言われる代表格である。
国家存亡。世界の終わり。そういう、重要すぎる事柄がー
1人の少年や、彼を巡るごく少数の人間とのドラマだけで決まっていく。

決して、社会や国家側の動きやドラマが、
大きくクローズアップされて描かれない。
人々の具体的努力や行動よりも、
個人の 『心象風景』 を描くことに時間が割かれたりする。

ゆえに、世界が破滅したり終わったりしてもー
ハリウッド映画で真面目につくった 「世界の終わり」 を描いた
パニック・ムービーよりも、軽い感じを受ける。
衝撃は受けるが、「大変だ」 という感じはない。
ただ主人公の心の動きに合わせて、
おまけで (意識の投影として) 世界が終った、という感じ。

しばしば、エヴァを筆頭に『セカイ系』作品群は、批判を受けてきた。
特に、『地に足が着いている』 と自称する大人たち、
あるいは自分は違う、と思う若者から。
なぜかというとー

この手の作品は、主人公を取り巻く狭い世界の外、つまりー
社会領域や、経済問題や時事・国際問題を一切描かない。
また、主人公の特徴として、もともと最強に強かったりする。
(そのくせ、日常的には内気だったりする)
ここでは、努力や人間としての成長、
それに直結するハッピーエンドというものがほぼ描かれない。

そういう意味では、これまでの
「映画やマンガのお決まりの王道」的手法をあえて守らない、
という点で目新しく、珍しがられたものと観察される。
また、今の時代の閉塞感の中で、
鬱屈を抱えた若者の心をとらえた部分もあった。
(美少女やロボット物、という要素も重要だった)

社会の第一線で頑張っている、
エヴァを好んで見る世代の親たちからするとー
「ひとりよがり」「現実逃避」「責任放棄」と映るようである。

恐らく、必死にこの世界を生きている人、
現実というものをちゃんと直視している、という自負のある人には、
狭い世界で自分が世界を救った気になるような
(自分が世界を動かせるような)あり得ないおとぎ話が腹立たしいのだろう。

現実に向き合って頑張れば頑張るほど、自分の小ささが認識されるから。
大海の一滴に過ぎない、という思いを強くされる。
だから、その弱さや恐怖を何とかするために、もっと頑張るしかない。

そのサイクルに身を投じている人にしたらー
そんな自分のつつましい努力などないかのように、どうでもいいかのようにー
主人公とはいえ、その人物の意識次第で
(そんなクソガキ一人のせいで) 世界が振り回せる、という物語は許せない。

セカイ系を批判する人は、自分がさも常識派で、
自分はちゃんと世界を見ているぞ、というアピールをしておいて、
次にセカイ系を現実逃避だ、世界はそんな狭いもんじゃない、とこき下ろすがー
正体を暴けば、彼らも子どもなのだ。
自分のエゴを刺激された、ということに気付いていない。
セカイ系の是非はここでは横に置いて考えるとー要するに、ケチなのだ。

個人の意識で簡単に世界など動かせたら、困るのだ。
だって、こんなに頑張っている自分が、動かせないんですもん!
自分が無力だから、他もそうであってほしいですもん。
自分も世間一般の標準にしたがって、
時給いくら、月給幾らで世界の動きがどう、
ってのとは遠いところで頑張っているんですもん。

自分より努力の足りない奴が 「抜け駆け」 などしたら、
絶対にゆるせない。ましてや彼らが
「幸せ」 になどなったら、もう腹の虫が収まらない。
努力もせず、自意識過剰なガキよりも、
今の自分の方がもっと世界を動かす資格があるじゃないか!
そんな幼い怒りを無意識の領域に隠して、
良識派を標榜する者たちは批評をする。

「働かざる者、食べてちょーだい!」
シリーズで述べてきたことにもつながるがー
現代に生きる多くの人々の心がまだ
「豊穣」 に根差していないので、考え方や発想がどうしても
「ケチケチ根性」 になってしまう。
性根がケチケチなくせに、一方で世界観だけが「グローバル」だから、
もっと世界をよく見ろとか広いんだぞ、とかしたり顔で説く。

自分よりも見識や人生経験で劣っていそうな人物が
自分より評価されたり幸せになったら、死んだ方がマシくらいに苦しい。
だから彼らは、そういうのがまかり間違って成功などしないように、
常に目を光らせ、潰そうと身構えている。

私なら、セカイ系をどうとらえるか。
実は、かなりの部分でその通りなのである。
人は皆、それぞれが宇宙の王。
自分が見ている宇宙の、創造主。
だから、あなたが 「今ここ」 において
見、触れ、感じているものこそがすべて。
疑いなく、それがその瞬間の 「セカイのすべて」 である。
 
また、あなたが見知っている範囲の狭い関係が、
あなたにとっては 「全人類の代表」 である。
あなたが彼らと接し人生を送ることが、
全人類と付き合っているのと同価値になっているのだ。
あなたの開く宇宙には、あなたしかいない。
だから、あなたの意識が世界を変えても、おかしくも何ともない。

逆に、自分は60億いる人類の一人に過ぎず…と、
一見地に足を付けているような認識の人の方こそ、
表現は悪いが 「損をしている」 のだ。
だって、本当は神なのに、
「神じゃない」 って常識ぶっているんですもん。
あなたが世界を変える。それ、大いにあり得ますから!
てか、それでしか変わりませんから!

あなたが目の前の世界に対して、特に意思の力を発動させないならー
最初から用意されたデフォルト設定(筋書)に沿って物事が展開していく。
変える自由もあるが(そうしたほうが楽しいが)
何もせず、黙って味わう自由もある。
それもまた一つの選択であり、体験。「それもまた良し」、である。

確かに、エヴァをはじめ 「セカイ系」 と呼ばれる
作品群における世界の描かれ方は極端だがー
あなたが実は (あなたの) 宇宙のすべてで、
あなたの王の意識の在り方で世界が決まるという部分に関しては、
「当たっているし遠くもない」 のである。

私は、テラとして宇宙に目覚めた。
でも、今の私の生活に深く関わっているのは、
親や妻や子供、その他ごく一部の人々だ。
有名人や大統領と言えども、多いとはいえ
関わるのは全人口からすれば限られた人数である。

いくら、この 「セカイ」 は全人類から成り立っているといってもー 
映画を作る時に、全人類を登場させることはムリだ。
この三次元では、どうしても
「一人を主役とする立ち位置から、世界を描く」 話になりやすい。
それはなぜかというと、この二元性ゲーム世界の目的がまさにそれだから。
「個」 という幻想を体験し、
その限られた視点から世界を感じることを面白がりに来たから。

だから、セカイ系に目覚める
(自分が世界の中心であると気付く) ことはー
新しいゲームステージに上がる、ということである。
逆に、自分は世の歯車の一つで、
世界の中心どころか地に足を付け世間の要求通りに
自分を当てはめねばならない、そ
うしてこそ常識人だと自負したい人はー
古いステージにしがみつくことになろう。
 
もちろん、そこにいい悪いや優劣はない。
たかがゲームだから。失敗に見えようが成功に見えようが、
どっちも大局から見れば 「体験」 のバリエーションに過ぎない。
空が選り好みをすることはない。
すべてが 「望むところ」 なのである。

でも、三次元キャラとしての私たちには、特権がある。
どんな特権かというとー
好き、キライが判断できる能力。
本来同価値のものを、よりこれがいいと選択できる能力。
これを使って、楽しまない手はない。

だから、あなたはこの 「自分が宇宙の王」 である、
という考え方を喜んで選択するのか。
それとも、そんな考え方はとんでもなく傲慢で、受け入れられない。
自分は世界の一員に過ぎず、世界に、国に、人々に奉仕する為にいる、
と考え世間の要求通りに身を粉にするか。

選択すればよい。どっちを選んでも正解。
このブログの読者は大丈夫だと思うが、一応フォローしとくと―
もちろん、この世界や他人がどうでもいい、と言っているのではない。
もしそう思われたとしたら、残念である。

世界平和や人類全体の幸せ、全体のシステム向上といったものはー
それを目標 (ゴール) と見据えて、目指して得るものではない。
それぞれの魂が、自分の「セカイ」 を情熱をもって味わう中でー
自然に獲得されるべきものである。

狙ってやるのは、ヘタな方法である。
何かを目指すということは、
「今はその理想的状況ではない」 という意識的宣言にもつながる。

また、目指すというスタンスを取った瞬間に、
「成功と失敗」 が明らかに分かる状況が生じる。
それで、「よくやってる」とか「怠けている」とかいう価値判断が、
宇宙の王であるはずの個々人に下される。

こんなの、人類がずっとやってきて、
機能しないと分かり切ったことじゃないか。
なのに、まだその機能不全な手法を試そう、って言うの?
さぁ、こういう世界を目指しましょう!
こうしましょう。人としてこう在りましょう!
私が世界に呼び掛ける言葉は、ただひとつー

あなたらしくあれ。
どんな選択でも、あなたがしたことなら私は受け止める。
あなたが、魂に従って自分らしく選択し続けるのならー
あなたの正体は、神だから。
遅かれ早かれ、空が仕掛けたゴールに向かって収斂していくでしょう。

私は、宇宙の目的が 「正しい選択をするため」 とは信じない。
どんな選択であれ、「すべての可能性を味わうため」 だと信じる。
ゆえに、そこに優劣はない。
エゴによる 「志向性」 の力など借りなくても。
「〜すべき」 の義務のチカラなど借りなくても、
神ならあらゆることを達成できる。

ただ、魂の喜びや情熱に従って選択するだけで。
あなたが自分の限られたように見える「セカイ」でそれをするだけでー
宇宙は、あなたによって救われる。
あなたによって、保たれる。
今こそ、神として立て。
世界の中心で、神宣言をせよ。
王である、と叫ぶのだ。


転載終了

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少し長い記事だったが、重要なことは最後の3行である。

「今こそ、神として立て。
世界の中心で、神宣言をせよ。
王である、と叫ぶのだ」


これは2013年9月21日に書かれた記事で比較的最近だが、
私は真我に目覚める前年の2009年9月14日に「神宣言」をしている↓

戦争展と神宣言
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/127953293.html

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その後、半年後の2010年03月14日、つまり、
「獣の2・26事件」で新エルサレム(▼)が降臨し、
「黄金太陽」が構築されたと思われる霊的現象から
約1ヶ月後、以下の記事を書いた↓

この世界の主人公は反キリストである
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/143603678.html

そして、真我に目覚めてから、
2010年12月15日と12月12日に次のような記事を書いている↓

獣は宇宙創造神である
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/173068774.html
我々は宇宙創造神である
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/173513974.html

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一般的に、自分を「神」や「王」と名乗る人間は、
カルト教祖ぐらいのものであろう(笑)

天使長だったルシファーが、
神の座を奪うべく天界で反乱を起こして堕天したのも、
「神になろう」という傲慢さが原因だったことが、
聖書の「イザヤ書」に記されている。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」


このルシファーの堕天神話は、あくまでも寓話であり、
アリオンによると「聖書が改竄された結果」だという。

それはともかくとして、
自惚れや慢心が堕落の原因になるということである。

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だが、自分という存在が、
自分の宇宙の王であり、神であることは事実である。

それを悟ることが「真我覚醒」だが、
それによって自惚れたり傲慢になることは有り得ない。

真我の覚醒とは「神意識」への到達である。
それは「自他一体」の認識の世界で、
テラ氏が言う「ワンネス」である。

自分の本質が「神」であることを悟った者は、
他者の本質が「神」であることも悟っている。

つまり、人類の数だけ神が存在するということだが、
その多神は究極的には全体として「一神」であり、
自他の優劣や慢心や嫉妬なども当然ながら有り得ない。

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「われ最高の神なり」という謙虚な想いは、
高次元と直結する高いバイブレーションを起こすのである。

即ち、人間としての自分は仮の姿に過ぎず、
自分の実相が「真我」であることを認めるのが「神宣言」なのだ。

だが、自分の世界において、「自分が世界の王だ」という認識では、
傲慢になってしまうのではないか、という疑問があるかも知れない。

まず、「自分は王だ」と言って偉ぶるのは王として失格であり、
真の王たる者は「他者を自分の投影」と見なし、
他者を尊重する謙虚さが絶対的な条件である。

また、本当の他者は、その他者の世界での王であり、
自分と全く対等の立場であることを忘れてはならない。

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いずれにせよ、自分の世界を調和的に治めることができなければ、
「王」とは呼べない。

自分の世界は自分が投影している「自分自身」であり、
その中心に自分が認識している「自分」が君臨しているのだ。

故に、汝は汝の世界の「王」であり、
汝の世界の「主人公」であり、その本質は自他一体の「神」なのだ。

それ故に、「神」を宣言して「王」を宣言せよと申しているのである。

女性の場合は「女神」や「女王」に置き換えても良いが、
性差を超越した次元で捉えるべきことだと言っておく。


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posted by ZERO at 05:52| Comment(0) | 青森白木上神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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