2014年01月10日

自己と他者

前回の記事で私は次のように書いた↓

「政治家や外交官が土下座外交を続けてきたが、
許してもらえるどころか相手が図に乗る一方である。
自尊心の強い政治家や外交官の土下座外交は単なる形であり、
本当に反省や謝罪の意志を持っていないことは、
日本の国民から見ても明らかであろう。
重要なことは、国民1人1人の意識であり、
自分の問題として真剣に考えることである」


これが意味することは、
言語では真に理解し合えないということで、
その理由は「外側の世界」は投影だからである。

それは「結果の世界」でもあり、
影が影を動かせないのと同じ原理である。

その自分の外側の世界(投影の世界=結果の世界)は、
あくまでも「自分しか存在しない世界」であり、
人それぞれ別世界に住んで自らの断片を投影し合っているだけで、
決して直接的に交流しているわけではないのである。

そこで、興味深い記事を見つけたので紹介しておきたい。

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自己と他者
http://www.edutech.tohoku-gakuin.ac.jp/ujiie/sisou22.htm

転載開始

宇宙船に乗った人間が、カメラで映した映像を
モニターで見ながらその宇宙船を操縦している、と仮定しよう。
見ると向こうから似たような形の宇宙船がやってきた。
と思う間にミサイルか何かを撃ってくる。
慌てて避けると、こっちもビーム砲で応戦した。
主翼の一部を破壊したが、敵は今度はかなわないと思ったか、
ミサイル発射口を閉じ、エンジンも停止させた。
武装解除をして停戦というつもりらしい。というのも、
こっちにしても、敵と誤認した相手に敵意がないことを
知らせるやり方としてはそうした行動に出るほかないからだ。

だが油断はできない。相手の真意は依然《謎》なのだ。
宇宙船に乗っている相手の宇宙人が何を考えているかは、
じかに会って見なければわからない。
しかし、こちらの宇宙船を相手側にドッキングさせるなど、
今はとても無理だ。物騒でこれ以上近づけそうもない。
へたをするとまたミサイルをお見舞いされる。
宇宙船の行動という、表面にあらわれた徴候から
相手の意図(心中)を察するしかない。
直接に会って話を聞くことはできないのだから…。

いかにも突飛な譬えだが、
われわれの心と身体もこのようなものではないだろうか?
私は他人の身振りや表情、行動やしぐさなどから、
それを手掛かりにして、私にとってはけっして知られることのない、
その人間の内面を推測する以外にないのだから…と。
なにせ他人の心を開いて、それをじかに覗き込むことはできないのだ。

私がいま何を考えているかは、唯一私のみに透明なものであって、
他の人間には(最愛の肉親でさえ!)絶対に触れることができない。
宇宙船は金属に厚く覆われていて、その内部を窺い知ることができない。
他者の内心はまことに測り難い。
(このことはわれわれの誰しもが日頃
何かにつけ痛感させられることではあるまいか。)

場合によってはうまく相手の意図が理解できることもあるだろうが、
基本的に私の理解はいつも不確かな《推測》にとどまっている。
相手の宇宙船が降伏を装って十分に接近したあとで、
突然にミサイルを撃ってくる、ということだってあり得るように、
昨日まで私に甘い言葉をささやいていた女が、
私を裏切って会社の機密書類を持ち逃げすることだってあるからである。

つまり、他人の表情やしぐさ、行動は、
ときに私を《あざむく》ために表出されるのである。
心は、つねに秘められたものとして、その背後にあるのだ。

だが、敵の宇宙船に乗っている人間を決してじかに見ることができないように、
本当に私は相手の人間の内心を直接に知ることはできないのだろうか?
「お前に語る愛の言葉にいっさいウソ偽りはない」
と断言する男の言葉が往々にして真っ赤なウソであるように、
これが私の本心だという保証も相手の内心を直接に示すという保証にはならない。

けっきょく他人を理解することはできない。
人間同士が《心を通じ合わせる》ことなどあり得ないのだ。
われわれはこう割り切って諦めるほかないのだろうか?

だが、身体的な表われとは別の、
いわばその手前にある《心》などというものが、
はたして本当にあるのだろうか?
つぎに二つばかり例を挙げて、このことを考えてみよう。

@意識は唯一その人間にとってのみ透明性をもつ
(それゆえ、他者の心はまったく不透明なのだ)と上では述べた。

たとえば郵便ポストは赤く、砂糖は甘いと誰しもが言う。
だが他ならぬこの私に見えているポストの「赤」や砂糖の「甘さ」は、
君に見え、感じられる「赤」や「甘さ」と本当に同じものだろうか?
ひょっとして、同じ「赤」や「甘い」という言葉で表現されるものの、
じつはまったく似ても似つかないものかもしれない。

「このお菓子、美味しいネ」「ほんとう!」という
息の合った男女の会話もただの《思い違い》や幻想かも知れない。
だが、それを確かめるすべはないのだ。肝腎なのはここである。   
人生なんてすべて夢か幻かもしれない、と時にわれわれは思う。
だが夢も幻も、その外側(つまり目覚めた現実の側)に
立つことができるからこそ、夢であり幻であると言い得るのだ。

われわれの人生そのものが夢か幻かもしれないと思っても、
その外側に立つことができない以上、
そうした「問いかけ」は最初から無意味だと言うほかないのである。
(たんにそれは《夢−目覚め》という関係を、
この現実にかぶせて考えようとする、粗雑なアナロジーにすぎない。)

これと事情は同じで、自分の見ている「赤」は
本当の赤ではないかも知れないと思っても、
われわれが自分の見ている「赤」の外部に立つことができない
(つまり《本当の赤》とそれを比べっこできない)以上、
その疑いそのものには根拠がない。

むしろわれわれは子どもの頃から、親やまわりの大人たちが
「赤」と言いながら指さす色を「赤」であると学んだのであって、
「赤」とはそれ以外のものではない。

同じことは「痛み」についても言えるだろう。
たとえ肉親であっても、
他者の頭痛や歯の痛みを感じることはわれわれにはできない。
痛みは、それをもつ人間のみが感じることのできるものだ。
だから「頭が痛い」という本人の申告を信じる以外にない。
手でこめかみを押さえ、顔をしかめて「ううっ…!」と呻く。

こうした表面にあらわれた徴候から、
われわれは「痛み」を推測することができるだけなのだ、
とひとは言うかも知れない。
それが証拠に、頭などほんとは痛くないのに、
仕事をサボるために頭痛のふりをする人間もいるではないかと。
現にわれわれは、そうした演技にまんまと騙されたりする。
だが、そうした場合、それがほんとうの頭痛ではなく、
ただの《ふり》にすぎないと、どうやって「わかる」のだろうか?

われわれには《本当の頭痛》というものが
すでに分かっているからではないのか?
言うまでもなく、「このキャビアはにせものだ!」と言える人間は、
すでに本物のキャビアの味を知っているはずだからである。
じつは、しかめた顔と呻きとは、
他人の痛みを推測させる不確かな徴候などではなく、
いわばそれが痛みそのもの(の一部)なのである。

少なくとも「痛み」という言葉がやりとりされるという事実は、
それが他者と共有できる次元をもっていることを示している。
もっとも「胃がチリチリと痛むんです」という患者の言葉を聞く時、
医者にとって問題なのは胃袋の状態であって、
痛みという感覚の質的な内容ではない。
われわれは他人の仕草を真似ることで、その心に同一化することができる。

ボクシングに熱狂して見入る時、
われわれはボクサーのパンチに合わせて無意識に腕をくりだす。
ボクサーがパンチを浴びた時には、本人と同様に顔をゆがめてのぞけり、
その痛みを共有するし、ひいきの力士が「取り組み」で苦戦している時など、
思わず全身に力が入ってしまう。

身体を媒介にした、いわば《共振》がここには成り立っているのである。
これと同じで、心は身体の背後に隠れているのではなく、
常に同時に身体として表われ、《身体として語り出される》のである。

いま話をしている友人が微笑む時、
私にはなぜかれがうれしい気持ちでいることが「わかる」のだろうか?
それは、私自身がうれしかった時に、目を細め、口の両端の筋肉を縮めて、
頬の肉を持ち上げるという「しぐさ」をしたことを思い起こして、
あるいは目から涙がこぼれた時に悲しかったことを思い出して、
かれもいま同じ「しぐさ」をしたから内心ではうれしいはずだ、
悲しんでるはずだ、という推論を組み立てるからではない。

そうした推論のできない幼児でも他人の気持ちはちゃんとわかるからだ。
相手の笑顔や泣き顔は、まさにそれ自体で笑顔や泣き顔であり、
よろこびや悲しみなのであって、それ以下でもそれ以上でもない。
表情によって相手の人間のよろこびや悲しみに、じかに触れるのだ。

これをもっとも端的に示すのは、動物たちの感受性である。
たとえば道で野良犬などに出くわした時、こっちがひるみ、
怯えた気持ちをもつと、向こうはそれにつけこんでこちらを威圧する。
反対にこちらが心の中で凄みを利かせると、犬は尻尾を巻いて退散する。
このばあい、雰囲気や気分として、
われわれの心そのものが、いわばわれ知らず表出しているのである。

A誰かに宛てて私が手紙を書いているとしよう。
文章も書きかけで、封筒に宛て名もいまだ書いていない時に、
私が誰かに殺されてしまったり、心臓麻痺で死んだりすれば、
肉親や警察はそれが誰に宛てた手紙だろうか?と訝かるだろう。

もちろん誰宛ての封書なのか、文面からある程度は推測できるだろうが、
私が死んでしまった以上、真相は闇の中ということになるのだろうか?
あるいは、家人がテーブルの上にある書きかけの便箋を見つけて、
夫はいったい誰に手紙を出そうとしているのか?と首をかしげる。

ここからわれわれはこう考えるかもしれない。
東京のA君宛てに手紙を書くという私の意図は、
私の心のうちに隠されていて他人にはわからない。
他人は表に現れた手がかりから、それを推測しうるにすぎないのだと。

だが、A君に手紙を書こうと思うということは、
A君に宛ててじっさいに手紙を書いているという行為とはべつに、
心の中の「どこかにある」ものなのだろうか?
否、おそらくそうではない。
意図とそれに則った行為とは同じものなのである。

向こうから来るタクシーを止めようとして私が右手を挙げる時、
腕を上に挙げようという意図(意志)がまずあって、
その意図(意志)が腕の動きを引き起こした…
こう考えることはバカげている。

あなたは腕を挙げようと思い、その結果、あなたの右腕が挙がったのですネ?
と私に聞く人間がいるだろうか?たとえそういう《もの好き》がいたとしても、
私は返答に窮するだろう。たんに「私は腕を挙げた」だけなのだ。

ようするに、他者の真意はその心の中に閉じ込められていて、
他人にはぜったいに近づき得ない、
という思い込みがナンセンスなのだと言いたかったのだが、
こうした「わたし」の真意は通じただろうか?
すくなくとも、こうは言えるだろう。
他者というものの理解のカギは、人間の身体というものの不思議さにある。

それは心を内側に閉じ込める容器などではない。
宇宙船の鋼鉄製の船体とはちがうのだ。
身体と心は一つのものであって、分けて考えるのがおかしいのである…と。
いや待て。つぎのような事態はいったいどう考えればよいのだ!?

両目をつぶってみたまえ。
われわれの前に広がっていた世界が、一瞬だが消滅する。
おそらくわれわれ自身が死んでも、
世界そのものがなくなることはないだろうが、
この世界が他ならぬ「この私」、
この私だけにあたえられたものだということは疑いあるまい。

だから正確には、私が死ねば、世界そのものが相変わらずそこに
在り続けるのかどうかを唯一見定めるべき私がもういないのだから、
依然として世界はあとに残るとも言えないことになる。
いや、事実上世界は私の存在とともに消えるのだ。

世界はつねにこの私から見えるものとしてのみ在るのだ。
それはちょうど、窓のそとに広がる風景を、
私が部屋の中から眺めているようなものだと言えるだろう。
窓にカーテンやブラインドを下ろしてしまえば、外の景色はもう見えない。
外には依然として街路樹があり、家々があり、
道を人々が行き交っているだろうが、私にとってそれらはもう存在しない。

窓枠をとおして私が外の風景を眺めるように、
この世界を見る私は、世界の外部にあって世界の一部ではないことになる。
窓から外を眺める私自身が、もはや窓の外の風景の一部分ではないように。
われわれがいわば世の営みから一歩退いて、
隠遁者のように冷ややかに外の世界を見やる時、
実際にこのように世界は見えてくると言えるだろう。

だがそんなことはない。
私は私の身体をとおしてこの世界に繋がっており、
その一部としてそこに属している。
このこと自体きわめて不可思議だが、
ここでもわれわれは身体がカギを握ることに気づく。
手足を目の前にかざせば、私の手や足が他のさまざまの事物や
人間たちと一緒に《世界の中にある》ことがすぐにわかる。

いや、たとえば私が独り静かにもの想いにふけるとき、
私はおのれを私の身体の内側に感じる。
このとき身体は「私そのもの」ではなく、それの外殻なのだ。
私の手足を対象化して眺めることはできる。
だが「私そのもの」はぜったいに対象化しえない。
やはり私は世界の「原点」であって、世界の一部などではない、
という理屈が依然として成り立つ。こう反論することも可能である。

だが、もっと不思議なのは、
私がこのように私の世界にとってのいわば「原点」をなすように、
他者もまた世界を「かれの世界」として持っていることである。
そしてそこでは当然のこと、
私という存在はかれの世界の風景の一コマになり下がる。
彼が「私の世界」においては同じく風景の一コマにすぎなかったように。
こう考えれば、私とかれ(他者)とは
ぜったいに同じ世界の中で出会うことができないことになる。

だが、現実にはそんなことはない。
私は他者と共有された世界のうちに住まっているのだ。
しかし同時に、世界がつねに私を「原点」とするパースペクティブ
においてしかあたえられないこともまた、否定できないではないか。
いったいこれをどう考えれば良いのだろうか?

他者はわれわれに対してじかにその存在を主張する、
と上で述べたばかりではないか。
他者の言葉や言動は、時にわれわれを傷つけ、奮い立たせ、激情でみたす。
他者はたんに「私の世界」の一風景ではない。
それはときに私の心に闖入し、
じかにその中へズカズカと(土足で!)踏み込んで来さえするのだ。
以上のようなことを、われわれはどう考えればよいのだろうか。?

いやそうではない。端的にまず世界がそのものとしてある。
われわれの意識などというものは、
その世界という岩にはりついた苔のようなものでしかない。
いや、その苔が出す臭気にすぎないのであって、
苔が枯れて臭気が出なくなっても、なんで岩が無くなるはずがあろうか!
意識など、物理的・生物的な過程の付随現象にすぎないのだ。
こういう見方もできよう。

だが、そうした世界をこの私の意識以外の
いったい何が現出させうるというのだろうか? 
自己のうちに、他者が《他なる自己》として、
いかにして居場所をもつことができるのか? 
この問いは、簡単そうで、じつはひどく難しい。


転載終了

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細かい点は除いて、全体的に私の主張と一致している。

これを書いた人は恐らく、悟っているのではなく、
空想と思考によって導き出した仮説だと思われるが、
私も幼少の頃から同じような空想と思考に浸っていた。

そして、今は、それが事実だという認識を持っている。

少し長くなったので、続きは次回に譲りたいと思う。


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posted by ZERO at 01:15| Comment(2) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日月神示で「あいうえお」ではなく「あおうえい」であることに関して関連がありそうな記事を見つけました。

これを読むと英語圏のホームやハウスに比べて日本の家(IE)が小さいのは仕方ない気がします。



http://tokyo.secret.jp/80s/come/aiueo.html

赤ちゃんは言葉を認識する前から母音を通して世界を学んでいる


米国科学的心理学会 プレスリリースより


言葉の意味そのものだけではなく、「言葉の持つ音」というものが私たちには非常に大きな意味を持ち、それは言葉の単語の意味を正確に把握している子どもや大人、共に関係することだ。

そして、最近、小さな赤ちゃんにもその「言葉の音」が大きく関係していることが調査の結果わかった。そして、その行動には母音が大きく関係している。

この内容は、心理学専門誌「サイコロジカル・サイエンス誌」の次の号で発表されることになっている。

今回、この研究では、スペイン語を話す家庭から生後4ヶ月の赤ちゃん 28人と共に研究者たちが調査を進めていた。


赤ちゃんからは両親の顔や姿が見えないようにして、防音室の中で、赤ちゃんを両親の膝の上に座らせた。

防音室には、母音を表す「I」、「O」、「E」、「A」から始まる内容的に意味をなさない綴りの言葉の音声がパイプで送られた。

この防音室には卵形や円形や正方形などの様々な形をした色の違うオブジェが置かれた。オブジェには大きなものと小さなものがそれぞれ置かれた。そして、アイトラッカー(人の視線を追う装置)を利用して、赤ちゃんたちがどのオブジェを見ているのかを実験の中で記録し続けた。

以前おこなわれた同様の調査では、大人の場合、母音の「I」と「E」では小さなオブジェに視線がいき、「O」 と「A」では大きなオブジェに視線が向かった。
これは様々な言語において同様だった。


今回の研究では、赤ちゃんでは、この傾向がさらに大きいことがわかった。

赤ちゃんたちは、ほぼ 100パーセント、その母音に応じての同じ対象を見た。ほぼ必ず、母音の「I」と「E」では小さなオブジェに視線がいき、「O」と「A」では大きなオブジェに視線が向かったのだ。

また、卵形や円形や正方形などの様々な形、そして、様々な色に対しても、赤ちゃんたちは母音に対応した視線の動きをした。
つまり、母音と物体認識の間の相関関係がほぼ絶対的であることが実験で示されたのだ。


研究者は言う。

「これが私たちが生まれつき持っている認知と学習機能なのかどうか・・・それは私たちにはわかりません。しかし、これが最も初期の人間の能力の一つであることは間違いないと思います」。

赤ちゃんは言葉の意味を知らない。しかし、母音によって、大 きなもの、小さなもの、丸いものなどの形状を「言葉から」学んでいるということになる。音の持つ特性によって世界を認識している可能性があるのだ。


この研究の何が重要なのか?

それは、「人間の初期の認知の発達がどのようになっているか」ということは、実は現在でもほとんどわかっていないのだ。

小さな赤ちゃんがどのように世界を認識して、その概念を築いていくのかということの研究は大変に重要な課題となっている。そして、今回の調査結果からは「言語学習」の意味の別の側面が見える。

今後、言語と概念に関しての発達のプロセスの調査のために新しい方法も取り入れていく予定だ。
Posted by キャッチ22 at 2014年01月10日 14:12
キャッチ22さん、こんにちは。

情報提供ありがとうございます。

>これを読むと英語圏のホームやハウスに比べて
日本の家(IE)が小さいのは仕方ない気がします。

面白いですね^^

皆様もアオウエイ祝詞を唱えてみて下さい↓

宇宙浄化の祈り「アオウエイ祝詞」
http://messiah666.seesaa.net/article/191813415.html
Posted by ZERO at 2014年01月11日 23:32
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