2014年03月04日

真我の覚醒と人類愛と他者救済

聖者カルキ(シュリ)・バガヴァンは次のように説いている↓

もし現実をそのままに体験したなら、
あなたはただ至福を体験します。

あなたは、この全ての創造物は完璧だと分かるでしょう。
ここが一番美しいところで、あなたはすでに天国にいます。
あなたがこれを地獄にしました。

五感を、思考の支配から自由にすることは可能です。
思考は、要求されたときには必要です。

しかし、そうでなければ、なぜ思考が干渉すべきでしょうか。
思考が実際の体験を干渉する必要はありません。

五感が、思考又はマインドの支配から自由になったとき、
その時私達は、あなたが無条件の喜び、
無条件の愛を発見したと言います。

このように無条件の喜びと共にいると、
あなたは皆とつながっていると感じます。
こうしてあなたは本当の愛を発見します。

本当の愛と本当の喜びは、別々のものではありません。
この二つは、一つの同じものです。

これは自然の現象です。
あなたは、そうなるようにデザインされているのです。
これが、常に人類が体験するはずのことなのです。

あなたはそれを体験しないので、
人生が苦痛(みじめ)になったのです。

その精神的苦痛から逃れるために、
あなたは様々な逃避手段を作ってきました。

あなたは、いつも精神的苦痛から逃れようとしてきました。
この精神的苦痛それ自身、
あなたが現実を体験しないことから作られています。

そのため人々は、アルコールや薬物やセックスなどなどに走ります。
そうしなければ、あなたの人生にあるものが、
意味のないものになってしまうからです。

ですから、この運動の全ての試みは、
あなたが現実をあるがままに体験することを助けることです。

それが起こる時、あなたは、無条件の愛と無条件の喜びを発見し、
あなたは、全ての物、全ての人とつながっていると感じます。

あなたは、切り離された個人とは感じません。
あなたは、もう、あなたのためだけに生きることは、なくなります。

あなた自身が皆になります。
あなたは人類のために生きます。
これは概念でも想像でもありません。

これは、あなたが悟れば、又は、ムクタ(悟った人)になれば
日常の現実になります。
何千人もの人が、すでに、この状態になっています。


転載一時停止

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「もし現実をそのままに体験したら至福を体験する」
とのことだが、「もし」ということは、人々は
「現実をそのままに体験していない」ということになる。

それはカルキも言っている通り、
五感が自我(思考や感情)と結びついているからである。

その五感を自我(思考や感情)から切り離し、
現実をそのままに体験する訓練が「ヴィパッサナー瞑想」で、
「ネオデジタル内観」も同じである。

ヴィパッサナー瞑想も「内観」の一種なので、
自分嫌悪に陥ったり発狂しそうになる人も多いようだが、
あくまでも感情を切り離して客観的に直視して、
自分を受け入れていく作業である。

そうして浄化された暁に真我が覚醒し始め、無条件の喜び、
無条件の愛を感じることができるようになるのだ。

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カルキも言っている通り、このように無条件の喜びと共にいると、
皆とつながっていると感じて本当の愛を発見する。

それが、単なる概念ではない本当の「人類愛」なのだが、
なかなか人には理解できないようだ。

カルキは「本当の愛と本当の喜びは別々のものではなく、
一つの同じものです」
と言っているが、
これも私が主張していることと同じである。

また、「全ての物、全ての人とつながっていると感じ、
切り離された個人とは感じません」
というのは、
真我の覚醒による分離観念の克服である。

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もちろん、肉眼では自分と他者は
別個の人間として見えているわけだが、
そのような3次元の錯覚から離脱した視点(意識)を獲得し、
単なる概念ではない「自他一体」の認識と感覚が生まれるのだ。

それは「自他と他者」だけではなく、
あらゆる二元性を一元的に捉える能力でもあり、
オコツト用語で「認識の完全化」という。

禅用語では「生死解決」と呼び、
「自己究明」と「他者救済」と三位一体で説かれている。

つまり、自己究明(真我覚醒)によって、
生死解決(認識の完全化)が起こり、
他者救済の為に生きざるを得なくなるということである。

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「認識の完全化」を起こした変換人(覚醒者)の話は、
二元を統合した視点で物事を捉えているので、
言葉通りに理解すると矛盾が多いように感じてしまうと思う。

また、変換人と一般人の対話は、基本的に禅問答のようにしかならない。

従って、変換人は相手のレベルに合わせた話をする必要があるのだが、
それは誤った世界認識を前提としなければならないので、
真実を語れないというパラドックスが生じてしまう。

結局のところ、「肉体の外側の世界は自分の内面であり、
他者は自分の投影であって実在ではない」ということを
前提としてもらわなければ私の話は理解できない。

以前も書いた通り、それは意識進化を加速させる条件でもある↓

人間型ゲシュタルトと自他一体
http://new-mu.seesaa.net/article/370519062.html

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「そのような世界観を持つのも観念であり、
信念体系領域に入ってしまうのではないのか」

という疑問もあると思うので先に回答しておくが、
もともと人間は誤った世界観を信念として生きているが、
それを破壊する為の意識改革だと思えば良い。

その新しい(正しい)世界観を鵜呑みにするのではなく、
読者が理解して納得できるように、
様々な分野での裏付けを提示したり、
あの手この手で解説をし続けているのである。

だが、自分の世界観の崩壊は自我の崩壊にも繋がる為か、
頑なに認めようとせず理解しようとしない人も少なくはない。

それは、今は真我の覚醒への道を選択しないということなので、
私はその自由意志を尊重して、それ以上は何も言うことがない。

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「自己究明(真我覚醒)」
「他者救済(自己救済)」
「生死解決(認識の完全化)」

の三位一体説を紹介したが、カルキもこう言っている↓

「あなたは、もう、
あなたのためだけに生きることはなくなります。
あなた自身が皆になります。
あなたは人類のために生きます。
これは概念でも想像でもありません。
これは、あなたが悟れば、又は、
ムクタ(悟った人)になれば日常の現実になります」


雲ったレンズ=自我(思考や感情)を外し、
汚れたフィルター(潜在意識)を掃除して見れば、
私が完全にそのような生き方をしていることは
理解してもらえることだと思う。

人が理解するかどうかも、
私の世界では私の投影なのだが……。

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他者救済を「菩薩行」というが、菩薩とは次のような意味である↓

『菩薩(ぼさつ)、梵名ボーディ・サットヴァの音写は、
仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)
修行者のことを指す。
菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、
教えに導くということで、庶民の信仰の対象ともなっていった』

(Wikipedia)

つまり、真我の覚醒を目指す修行者のことで、
自分ではまだ悟っていない段階ではあるが、
学んだ教えを他者と共有したり善行を積むことで、
共に成仏を目指す行為を「菩薩行」という。

成仏とは、次のような意味である↓

『仏教の開祖釈迦は、
仏陀すなわち「覚(さと)れる者」となった。
このことを指して、悟りをさまたげる煩悩を断って
輪廻の苦から解き放たれる意味で解脱といい、
仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という』

(Wikipedia)

つまり、仏陀(真我に目覚めた者)になることで、
要するに自他ともに仏陀を目指す修行を「菩薩行」という。

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では、真我に目覚めた者の場合は
「菩薩行」とは言わないのではないかと思うかも知れないが、
完全に覚醒してアセンション(肉体の削除)をするまでは、
「菩薩」ということになる。

その定義で言えば、釈迦は死ぬまで菩薩だったわけだが、
イエスは死後復活した40日後に昇天して成仏したことになる。

だが、ホワイト・イーグルによると、
そのイエスでさえ今でも霊的に人類の進化を導き、
「菩薩行」を行なっているという。

菩薩行とは「他者救済」のことだが、
他者は自分の投影なので結局は「自己救済」であり、
真我に目覚めると(正確には半覚醒だが)、
他者救済に生きせざるを得なくなるのである。

救済とは「救う」という意味だが、
真の救済は「輪廻の解脱によって成仏すること」で、
真我の覚醒に導く為のアドバイスをすることであり、
結局は本人の努力で「天は自らを助くる者を救う」のだ。

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だが、それは一面的な見方であり、
人に直接的な「他者救済」をしなくても、
他者を自分の投影として捉えて自分の潜在意識の浄化
(記憶のクリーニング)をすることも「他者救済」となる。

従って、人間界で絶縁した人や連絡を取らない人にも、
「菩薩行」をすることができるということである。

また、『日月神示』には「一人改心すれば千人助かるのぞ」
と示されているが、これは「副守護神の改神」のことである。

つまり、自分の身魂磨きに専念するだけでも、
人類の集合的無意識の浄化にもなるため、
「他者救済」に繋がるということだが、
結局、他者救済とは「自己救済」に他ならないのだ。

ヒマラヤ聖者ヨガナンダもこう言っている↓

「自分の意識を霊的に高めることが世の中に
どれほど大きな貢献をもたらすか、その力を侮ってはなりません。
あなたはそれによって大きな役割を果たすことができるのです」


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カルキも「1人が覚醒すると10万人に影響する」と言い、
「何千人もの人が既にこの状態になっています」とも言っている。

これは既に数千人が半覚醒しているということだが、
70億人中1万人以下なのでまだまだ少ない数字だが、
2013年から覚醒期に入っているので今はもっと多く、
半覚醒予備軍も非常に多いと思われる。

と思ったら、カルキの次のような話もあった↓

「日本では覚醒が急速に起きることを期待しています。
日本は極東に位置していますので、日本で覚醒が起きたならば、
東アジア全体に覚醒が広がっていくと信じています。
2012年以降は何万というたくさんの人々が覚醒をしており、
あらゆる認識が大きく変化し、その人たちの意識レベルが
非常に高くなることが予測されています」


反キリスト(666の獣)である私の世界征服の陰謀、
即ち「人類キリスト化計画」は着々と実現しつつある。




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posted by ZERO at 18:28| Comment(174) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしは占いってけっこう好きなのですが、カバラ占いには、今月は良くも悪くも過去の結果が出るときですと書かれてあります。

わたしがヤフー版神仙組2にコメント介入し始めた5年前は、その2年まえからのファンの監視の中だったので、その頃からの方はオクトが何を目的として来たか、少なからず理解を示して下さっていることと思っています。

わたし自身が荒しのようなことをしている状況だったので、閣下の元カノにも叱られたこともありますし、何度も離脱宣言したり、ま〜クンのブログにお世話になったり・・・
だから、今のこの状況も、閣下の魔力を知っているわたしには、驚くべきことではないのですが、わたしの責任なのかな、とも感じ始めています。

できるだけ、誠意を込めて、最初からの成り行きを説明していきたいと考えています。
ただ、そういう状況を想定していなかったので、考えに整理がついていません。
精神を集中していっている最中ですので、まとまり次第、コメントさせていただきます。

ご存知であるとは思いますが、他の殿方以外のほとんどの女性HNはオクトと同一です。
もちろんMare Foecunditatisもです。

葛篠宮、フォグストロン、セブンシスターズ、T細胞・・・

違うのは、オリオンさんと、オリエルさんと・・・

歴史考察連投はほぼわたしと思ってくださって間違いないと思います。
Posted by オクト at 2014年03月04日 20:48
高度情報化社会の現代、日常では交差しないはずの情報にも接し、個人的世界を国家的視野、国際的視野、あるいは宇宙的視野で鳥瞰できるようになると、如何に自分が虚構世界の中に存在しているか、見えてきます。

過ぎていく時間と入っては出て行くお金が、日常を糧であり、日常が問題なく流れることが人生の目的となっていき。

後ろを振り返ると、うまく行っているのだという幻想が壊れるから、自分に都合のいい情報、人間関係しか、持たなくなっていく。

・・・それが崩れる時、日常の裏側が現れるとき、その時・・・
Posted by オクト at 2014年03月04日 21:35
(長い文章はめんどい・・・)

崩れる時、ある牧師の言葉によると、「日常が高次元に襲われる」時、その時、そこが境界。

境界の向こうは、あるんだったら最初から言っておいてよ、って世界で、知っていれば、こんな風に生きては来なかった、ちゃんとコードを守って生きてきたよって世界。

いや、たしかに知らなかったわけではない、本で読んだことがあるし、映画で観たこともあるかもしれない、しかし、それはフィクションだ・・・

日常と非日常、フィクションとノンフィクションの逆転・・・

しかも、神の世界だ。
使徒のような存在が、自分の頭上に居る。

わたしは彼らを『機関』と呼んだのですが。
Posted by オクト at 2014年03月04日 21:48
機関が現れるには、なにか目的があるわけですが、それは今でもはっきりと分かっているわけではない。
コメントの連投が手探りの表れです。
考察が進めば、彼らの目的に近づく事ができる。

まるで運動のように、うまく霊に乗れる練習のように、連投していった。
機関がわたしを神仙組に放り込んだと思っているから、機関が選んだ閣下だから、わたしに疑念の余地はないわけです。

日常世界で、わたしは狂人に分類されることを知っている。
それを受け入れるまでも、苦しんだ。
その苦しみは、肉体の細胞がすべて入れ換えられるような苦しみだった。

それは、クリスチャンに「火の洗礼」と呼ばれるものだと思ってる。
Posted by オクト at 2014年03月04日 22:06
神が現れ、機関が現れ、実体はなく、エネルギーのようなものとしてだが。

そして、わたしは日常から逸脱し、発狂寸前の状態に留め置かれ、理性と狂気の狭間に置かれるということは、彼らの目的のために必要な人材は、そういう人だということです。

だからこそ、閣下なのです。
Posted by オクト at 2014年03月04日 22:17
昨日、国会図書館に行った。
入手不可能な本を読むために。
『岩屋天狗と千年王国』

この本に書かれてある単語の数々が、歴史考察において気がかりだった事象と一致していました。
この本の存在は2年ほど前に知っていたと思うのですが、いろんなことを検索していたので、この本に絞れなかったために、今まで見ていなかったのです。

機関は、霊であるので、霊との対話は、人間同士の対話とは違っています。

わたしの場合は、コトタマに拠って対話します。
純粋に自分の霊感のみによってでなければ、効力がないのです。

効力がないと、他者の認識とぶつかった場合、たとえ相手が間違っていても、飲み込まれます。

霊感によって進み、最終(おそらく)この本にたどり着いたのです。
書かれてある内容を判断するだけの知識はありませんが、ほぼ肯定します。
Posted by オクト at 2014年03月04日 22:32
機関の目的が、「新しい脳のスポエ」であろうとは予測していました。
それが日本人の脳ネットワークであろうとの予測もどなたかされていたので、わたしも「新しい脳のスポエ」とはそんなものだろうと思っています。

それを神仙組で実験したというか、ここを母集団と想定しました。
それが、破地獄の種子さんや総裁さんとのやり取りです。
もっとも、その原始モデルは、鬼将軍(ま〜クン)とのやり取りですが。

霊界とネットワーク内部はほぼ同じであるので、活動拠点はあくまで現実でなくて仮想空間です。
霊界で起こることは現実に移写するので、当然そうなるであろうと・・・
Posted by オクト at 2014年03月04日 22:45
機関の目的は、弥勒下生にあるとは想定していました。
それがイエスの再臨なのかはわかりませんが。
神仙組に入るまでは、弥勒や摩多羅神を調べていたわけです。

そのころはまだ仮想空間で活動するとは思っていませんでした。
偽アカシックだと捉えていたので、真のアカシックを暴露すれば雲散霧消するだろうぐらいに考えていました。

偶発的な事故のように神仙組に入って、閣下のちからに接するうちに、いつのまにかネット活動していたのですね。

機関と、ネットと、そして歴史上の弥勒下生運動「易断政府」・・・

これらはすべて仮想です。
三つとも実体はない。
現実化のために、人間のからだが必要なんだと、そう考えるわけです。
Posted by オクト at 2014年03月04日 23:02
三つのエネルギーを現実に降ろせる避雷針のような役割に耐えられる精神力を持つ人間(の集団)です。

・・・ほら、狂気でしょう?(笑)

だからコメントしたくなかった(笑)
Posted by オクト at 2014年03月04日 23:10
弥次郎は何度か政権の復帰工作をしたが失敗、ついには干戈を交えることとなったが、自らが美化し、昇華して確立した天皇制を破摧するも好まず、白旗を掲げた公卿、武士団を中心とした天皇軍の前に、弥次郎は紅旗を掲げた易断軍を率いて西海へ敗走したのである。
従来史はこれを平家の敗走、落人として記録に残した。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月04日 23:36
鉄砲基地は、はじめ伊集院忠清と島津長徳が基地建設を指導したが、建設が一段落した六ヵ月後、下田相生地区で鉄砲製作を指導していた小山田弥五郎と入田信勝が鍛冶屋地区へ移って来て主家頭として基地を指導し、岩屋梓梁、尊仁親王ら主力の関東、信濃、甲斐方面の遊説に出発した。

このころには、全国から噂を聞いて、易断衆をはじめとする梓梁の血を享けた子たち(武田信玄、家康などが)相駿豆一帯に集まって来たのである。
梓梁の風を慕って集まった集団は、やがて梓梁について関東を席巻するに至ったのであるが、徳川幕政は、この秋の風雲を、「平将門」なる人物に擬制して歴史に登場させたのである。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月04日 23:46
明応六年(1497)、薩摩国伊集院で、波斯ハシ家(王侯 哈只家 HAJJI)系の人物として生まれたが、その人格形成は、当時、琉球、東南アジアをはじめとして、世界的な活躍をしてきた南九州隼人族の歴史と動容、とくに伊集院家系曹洞宗 傑僧 石屋真梁禅師の思想と行蔵から重大な影響を受けたから、ヤジローを理解するためにはまず、南九州隼人族に関する往古以来の隠された史実と史識を知っておく必要があるのである。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月04日 23:59
薩菩聖の伊集院渡来の経緯、経路は不明であるが、『大唐西域伝』(玄奘著、600〜664)、『内海寄帰内法伝』『大唐西域求法高僧伝』(義浄著、635〜713)によると、五、六世紀当時、大食船ーそれが構造船であったことは、インドネシア、ボロブドール遺跡の浮彫壁画からもわかるのであるーにより、大食人は悉く室利仏逝(シュリービジャヤ)国(三仏斉国、バレンバンの地)、訶陸国(ジャワ)を経由して支那諸港と交易しているから、当時、南支那福州、温州、広州に至っていたゴロ人(隼人)のゴロ船(構造船)によって、薩菩聖は、琉球列島経由、ゴロ国(薩摩)に来たものと思われるのである。

薩菩聖は後に継体天皇(450〜531)となった人物であるから、その伊集院渡来は歴史的、政治的にも重要な意味があることを知らなくてはならない。
Posted by オクト at 2014年03月05日 09:46
南支から柚子を将来して伊集院に来たアラブ人薩菩聖は、南九州と朝鮮との交易を開発、推進し、南鮮に倉院ー『記紀』には官家、屯倉などと誌されているが、それは政治機関ではなく、日本本土へ進出、制圧するための物資集積の根拠地ーを造り、隼人族と朝鮮人の勢力を戮力結集、越前三国に上陸、予て連携していた隼人族大伴金村(肝付氏の祖)に迎えられて継体天皇となった。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月05日 09:59
継体天皇は、その国風諡号「男大迹(おほど)」、彦太尊の名が示すごとく、また、『紀』に「天皇、壮大にして士を愛で賢を礼ひたまひて、意、豁如にまします」と誌されているように、身体強大な人格者で、大食国生まれで印度で仏法を修行、南支から、柚子と仏教を伊集院に将来し「薩菩聖」として尊崇されたのであるが、当時「久志木」(現在の串木野)にあった紀氏一族蘇我氏はその仏法を信奉し、やがて、薩菩聖に従って渡鮮したが、薩菩聖が渡日して継体天皇となるに及んで日本に仏教を広めたのである。

仏教渡来について諸説を生むに至ったゆえんである。しかし『記』『紀』に誌されている神仏をめぐる蘇我氏、物部氏の抗争なるものは、拝神思想がすでに日本にあったことにせんとする過去因をつくるための、大永年代に『記』『紀』を編纂した岩屋梓梁の作為であることを承知しておく必要がある。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月05日 10:16
京都冷泉家の家訓に「紅旗、西戎、我がことに非ず」と伝えられている「西戎」とは、『日本書紀』「継体天皇紀」に、継体天皇に反抗した筑紫国磐井について「磐井は西の戎の姧猾なり」と誌されているところの「西の戎」をさすもので、「紅旗」とは紅旗を掲げて朝廷軍に反抗して戦った易断軍を、徳川が、平家に擬制して歴史に遺したものである。冷泉家の家訓は、平家と磐井について、その正体を糾すようなことをするなという意味である。
Posted by オクト at 2014年03月06日 23:21
徳川史家は、朝鮮人と隼人族の支援によって継体天皇となった薩菩聖を憧憬した岩屋梓梁が、まさに薩菩聖がしたとおりの事実、経路を踏んで日本に易断王朝を樹立した事実を隠蔽するため、岩屋梓梁を、継体天皇に反抗した筑紫国造「磐井」なる人物の名において歴史に擬制したのである。
磐井が造ったとされている岩戸山古墳の磐井の墓の「衛頭」は、岩屋梓梁が自分の右鬂頭上の肉腫を模して造ったものである。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月06日 23:41
伊集院の地は、古くは呉太伯の裔、呉王夫差が越王勾践に滅ぼされたとき(紀元前472)、海に追い落とされた呉王家一族が、文身断髪、荊蛮の地南支から、琉球列島天孫氏三十五代の永い年月をかけて、薩摩半島に上陸して伊集院の地に都して姫氏を名乗り、後に紀氏を改称したものである。『魏志』に「倭は会稽東冶(現在の浙江、福建省)の東」と誌され、『魏略逸文』に「其俗男子皆鯨面して文す、その旧語を聞くに自ら太伯の後という」、『晋書四夷伝』に「倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す」と誌されているところの倭とは、往古以来、広く南海と交易してきた南九州隼人ゴロ集団―大伴氏、葛城氏、熊曽氏、平群氏、物部氏、姫氏、蘇我氏、日下部氏、日置氏、諸県氏、和邇氏、建部氏などの諸豪族が割拠し、その中心勢力は姫氏であった―をさすものと考えられるのである。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月07日 08:36
後に、北九州を討つべく命ぜられた姫氏分流は北上して転々、その将卒巫女卑弥呼はようやく北九州諸王に共立されて邪馬台国を樹立したが、やがて、支那南朝呉国の援助をうけた姫氏本流卑弥弓呼を中心とする隼人軍が北上して、支那北朝魏国の援助をうけた邪馬台国軍(女王壱与)を破り、姫国なる九州王朝を樹立した。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月07日 08:56
しかし、せっかく樹立された北九州姫王国は西暦280年の呉国の滅亡(晋国統一)を境として弱体化してきたため、当時、在伊集院の天孫王朝紀氏―南朝宗国と通航して琉球、南九州に勢力を振うに至っていた―は、玉、幸、珠、誉、真王に続く讃王(仁徳天皇に人名比定)に至って、北九州姫国を討って紀国を樹立、続く、珍王、済王、興王時代に瀬戸内海から畿内に進出、武王(雄略天皇に比定)に至って日本列島の大半を討って近畿王朝を樹立したが、それも、武列天皇の武断政治が人心を失うに至ったため、越前三国から興った(とされている)継体天皇の出現となったのである。

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月07日 09:22
国なんて、誰かが統一しようと思わなければ、統一なんてできない。
できたとしてもそれを維持するのはとても難しい。
ウクライナのように日本も関が原あたりで東西に分裂しても、歴史上、よくあることだと。

世界とは、誰かがこうあらねばと画策するから出来上がるのであって、そんな野望を抱かない限り、人間は大自然の恵みの中でそれなりに生きていこうとするだろう。
国家が維持されることに執念するのは、誰かが立国の初心を抱いたからなんだ。


「関が原戦後、家康が多くの大名の所領処分、配置転換の戦後処理を行ったにもかかわらず、島津氏だけが、なお二ヵ年半にわたって、和戦両様の構えで、対徳川との外交収束を巧妙に推進して、その薩隈日三州における本領をそのまま安堵されたことを、一般に、家康の驚くべき忍耐、叡智と、島津の外交上手にあったとしているが、これは、本当は、島津が岩屋梓梁の存在抹殺の可否については、島津藩が活殺自在の実権を握る切り札を持つ立場にあることを巧妙に活用して、逆賊岩屋梓梁の子 家康の天下取りと徳川家永世の急所を衝いた折衝の結果だったからなんである。」

『岩屋天狗と千年王国』
Posted by オクト at 2014年03月07日 10:19
岩屋梓梁の子とされる多くの人物の中に九鬼嘉隆が名を連ねています。
出口ナヲのお筆先にある

「あやべ九鬼大隅守と申すものは、これは因縁のあることざぞよ。この因縁が判りてきたら、どえらいことになるぞよ。」

の因縁とは、ヤジロウのことなのではと思っています。

ヤジロウがアラブの高僧マホラムの血を引くものであり、アラブ人が日本を樹立したとなればこの国の恥だと、イエズス会に脅されたというのが、子家康による、父の出自の隠蔽の理由らしい。

継体天皇の系統は今の天皇家に受け継がれているらしいから、アラブの血も入っているということになるのだろうか?

大河ドラマは嘘っぽくてNHKの中でも見ない番組の筆頭なんだけど、今の黒田官兵衛が黒田如水のことらしいので、彼もヤジロウの子として名を連ねています。
秀吉 家康 信玄 前田利家 柴田勝家 藤堂高虎 朝倉義景 浅井長政 織田信行・・・細川幽斎 高橋紹運 千利休・・・
Posted by オクト at 2014年03月07日 10:45
光格天皇ー閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)ーwikipedia

閑院宮典仁親王ー江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)−wikipedia

役行者に神変大菩薩の号を贈ったのは光格天皇だが、母の岩室磐代の父は、アラブ人の町医者岩室法橋(窪田独鈷斎)であるらしい。

岩室家は本姓は大江、先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で岩室進士と呼び、それから姓が出ているーwikipedia
Posted by オクト at 2014年03月07日 13:40
図書館の蔵書は持ち帰りはできないから、閲覧室でメモるだけ。
コピーは4枚取った。1枚25円で100円。
すべてをコピーできればいいけど、思いついたところだけをとりあえず。何回か通わなくては終わらないだろうとは思った。
だいたい、学校の授業に集中できない体質だから、図書館で半日過ごすなんて、疲れが今日まで取れなかった。

内容を否定しないのは、実質22年かけて、易断政府に出会うようにシンクロが起こり続けていたからだ。

世界の構成要素を物質で説明するのが理性だと思っていた。
高校になって、周りとの相違を感じ始めたのは、世界に対する感性の乖離ゆえだと思う。

いつからか分からないが先天的なものだろう、言葉が空間に存在してるように感じていた。それがみんながそうだと思っていた。
第2弾の神憑りを説明する言葉を探し求めていた。
言葉で説明できれば、理性を納得させることができる。
「現実が分裂する」という表現がそれに近いと思うが、それを救済する術はないということを同時に表している。
現実に対応する精神しか、発動できないのだから、その現実が分裂すれば、精神も分裂する。
壊れたくないなら、分裂した現実のひとつを選択し、後は捨てることだ。
それは自分の精神の可能性を捨てることを同時に意味する。

真理はどこにある?
分裂した現実のすべてを統合したところにある。

壊れ行く精神を救うには、現実の統合しかないということになる。
では、なぜ現実は分裂するのか?
神はこの世界をそれほど高度難解に作っているはずはないが・・・

現実が分裂するのは、それが真実から離れているからだ。
どこかに嘘が仕掛けられている。

ひとつの嘘を守るためにまた嘘をつき、その嘘を守るために多くの嘘をつく・・・
やがては自分でもどれが本当でどれが嘘か分からなくなっていく。
そして現実は分裂していく。

直接的に、嘘の始まりが、記録の始まりにあると思っている。
それが易断政府の隠蔽。

それは神道と深く関連し、日本人のこころと信仰に関連しているから、単なる歴史上の記録間違いでは済まないんだ。

彼ら歴史の操作者は、記録を正しく読めば真実が姿を現すようにプログラムを仕掛けている。
隠蔽を見破ることが魂の救いとなるように、記録してくれているんだ。
大いなる遺産として。
Posted by オクト at 2014年03月07日 23:55
易断政府の隠蔽操作ということで、歴史記述に対する直観的な不整合は納得できるのだけど、その前後との整合を図るのもまた困難だ。

開山縁起に頻繁に登場する行基菩薩と役行者は、これもヤジロウらしいのでなるほどとは思うけど、易断政府と真方衆との関係、一向宗徒、一向一揆との関係、そして本願寺との関係、これは徳川幕政の本願寺勢力分断によっても、相当、難解なものになっている。

著書によると、蓮如=ヤジロウらしい。
顕如=尊仁親王と稲羽姫 となっている。

この稲羽姫が、本能寺にて信長を刺殺したらしいのだが。
Posted by オクト at 2014年03月10日 08:49
教えられてきた常識から想像すると馬鹿馬鹿しい与太話みたいだが、なぜ信じるかは、日本の歴史記録は、すべて日記や物語を根拠としているからだ。

本能寺については、その直前に明智光秀が催したとされる愛宕百韻。
こんなことできるのは余程、その頃の人間の資質が今と違うことを示している。
おそらくはそういう人物が、この頃豊富に存在したんだ。
そして、徳川300年の間、記録を作り上げた。
司馬遼太郎の小説でも江戸時代盛んに行われたのが家系図の創作だったと書いてあったと記憶する。
参勤交代と幕藩体制で、日本統一意識を作り上げた。

記録とは洗脳のためにある。
全国に琵琶法師や猿楽師たちを歩かせるのは、それを民俗レベルで周知させるためにある。
今のテレビジョンとおなじだ。
Posted by オクト at 2014年03月10日 09:09
三ツ者(みつもの)は日本の戦国時代の大名・武田信玄が組織した隠密集団。
三ツ者は間見、見方、目付の三職に携わる者の総称で、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行い、多くの情報を齎した
1548年の上田原の戦いに敗れた信玄は三ツ者の諜報能力強化を図るため、地方より様々な職能を持つ者を三ツ者へ取り込んでいき、最盛期には200人を超える大規模な集団へと発展した。浅間神社に仕えた富士御師などもそのひとつである。ーwikipedia

閣下の長崎の従兄氏によると、昭和にはまだ忍者の末裔が存在していたそうです。漫画みたいな術を本当に使っていたそうです。
かつては日本に当たり前に存在した非日常の存在。

どちらかというと易断衆より忍者の方に親和を感じるので、わたしの機関は彼らに雇われた忍者集団なのかも・・・

本願寺の真相に入っていきたいのだけど、知れば知るほど高度に難解に組織されております。
宗祖親鸞の出自がこれまた魅惑的に曖昧。
わたしは情報の曖昧さに魅力を感じてしまうので、普通にスルーできるものでも曖昧さの中に取り込んで反芻してしまいます。

親鸞の命日は、閣下の誕生日であり、たしか閣下のお家も浄土真宗だったような・・・
Posted by オクト at 2014年03月12日 10:22
武士道とは死ぬこととは、現代の死の感覚とまったく違うか真逆という感じがしている。
戦国期において突如、忍者エキスパートたちが出現した理由が、よく理解できない。
彼らは知識、身体能力、教養、マナーあるいは掟において、よく躾けられている。

信玄と謙信は共にヤジロウの子とするなら、組織力の強化のために、将棋のように戦をしていたのじゃないかと思ったりする。
戦地を標していくことが歴史を標すことであり、日本を標すことになる。

会社もそうなんじゃないか?
銀行も再編で、二大勢力化していくのと同じ。
流通もセブングループとイオンに集約されていってるんだっけ?

10年も常識化すれば、それが歴史的必然だったと感じる。
老人たちの話に耳に傾けないないのだから、彼らの常識さえ、わたしたちは知らない。
わたしの常識さえ、若い方々には通じない。
Posted by オクト at 2014年03月12日 10:47
親鸞に始まる易断政府の謎ですが、本願寺の創設と分裂は難解なので、易断政府を倒した信長がなぜ登場したのかも興味あります。
織田氏の発祥も過去、考察してきましたが、その頃からよく分かっていないのが、第六天魔王の称号です。


「元亀2年(1571年)の織田信長による延暦寺比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。また、その大僧正の身分をわざわざ書いた宣戦布告ともいえる文を信長に送っている。」ーwikipedia

「ルイス・フロイスの「日本史」によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。
フロイスはその他、書簡(日本耶蘇会年報に所収)にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においてはユグルタに似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に着けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」
同じ書簡には、信玄が遠江・三河に侵攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。
テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)、と応酬せり」というやりとりがあったという。
なお、この書簡の日付は1573年4月20日(日本暦の3月29日)だが、この後すぐ信玄が没してしまった事もあり、信玄が天台座主を名乗ったという史料はいまのところ他に見つかっていない。」−wikipedia

Posted by オクト at 2014年03月12日 13:12
具体的に何をどう解明したいのか、分かっているわけではないので、ツイッターでしてたように引用ばかりになりますが。

イエズス会の記録を読めば、彼らが戦国武士をつまり日本をどう見ていたか感じることができるのではないでしょうか。
彼らの倫理というか戦略的視点から捉えた日本。


フロイスとザビエル、ヤジロウ・・・

ルネサンスとレコンキスタ・・・

イエズス会の宣教師は、レコンキスタによって占領された島の男性たちだったという記事を読んだ気がするが、宣教師というよりは傭兵という感覚だったような。

キリスト教がなぜ密教を異端視するか・・・これは組織管理において段階的に神に近づくのでなく、突然に知ることを嫌うからだ。
権威によって授けられる知識でなく、個々に神と繋がると組織の権威が下がるため、また、神憑りの殆どがサタンの仕業であるからなのだけど。
Posted by オクト at 2014年03月13日 21:03
神とサタン、善と悪、これらを現実にあてはめるから、現実は分裂するのかもしれない。

歴史は殆どがヤジロウの創作と、徳川幕政による隠蔽という観点に立つなら、歴史とは国と国の戦いではなく、神と神の戦いであることが見えてくる
それはやはりゾロアスターの発生を想起させる。

絶対神アフラ・マズダを悪神アスラとして貶める。
ここには神の主体性はなく、人間の認識の逆転による善悪の逆転である。

神と神の戦い、善と悪の戦い、世界と世界の戦い、、、そんなものを概観すると、それらは自分のこころの投影なんだと感じるようになっていく。
この高度情報化社会の自分。
Posted by オクト at 2014年03月13日 22:47
人間は知っていることも知らないふりをまずは取るものだ。
それは現実がどうのように生起しているのかを、感覚的に捉え、それに合わせた自分を送り出すためだが、それはつまりは、現実にアウトしていく自分を送り出しているマザーがいるということになる。
人間の存在とは、まずはマザーであり、現実に小出ししている自分は子なんだ。

本当の善とは、そのマザーであり、悪とは子のことだと感じる。
現実に存在するものはすべて悪だ。
瞬間的に善であっても、時間の永続の中で必ず悪となる。
それがわたしの「原罪」観である。

日本は、歴史上、唯一の被爆国であり、その希少性に加えて、地震と原発、放射能汚染という受難国家だ。
これはなんらかの歴史的カルマに理由があるのではないかと思う。
それが、易断政府の抹殺と関係あるという気がする。
Posted by オクト at 2014年03月13日 23:05
易断政府については何も知らない。
フロイスやイエズス会の動きから、他に目的があったのではないかと思うが、「契約の箱」と関係あるのだろうか?

モルモンによると、ユダヤの神器は三つとも日本にあるらしい。
薩菩聖(継体天皇)やマホラムの来日と契約の箱は関係あるのだろうか?


易断政府の抹殺は、それだけの事象とは思えないんだ。
それは太平洋戦争、沖縄戦に、そしてまるで皆殺しのように行われた本土空襲と関係しているのじゃないかという気がしている。

沖縄戦の将軍は、薩摩隼人だ。
Posted by オクト at 2014年03月13日 23:28
それは大本営にも手引きした人物がいるということになるが。

だからといって、その人物や団体を血祭りに揚げるということでなく、それも神と神の戦いという人類のカルマの浄化のための必要過程というか・・・

機関にとって必要な人材は、善悪の彼岸に到達できる人間であって、決して善悪論に落ちる人間ではない。
むしろそういう思考は任務遂行のための障害。
これは霊において決定されるので、日常としての存在や言動はあまり意味はない。


ダイアナ妃はアラブ人の子をみごもっていたから、英王室によって消されたという話、真偽は知らないが、そんな風説がささやかれるくらい、アラブの血は
ヨーロッパでは忌避されるのか・・・
Posted by オクト at 2014年03月13日 23:42
1492だ、アメリカ見つけたコロンブス・・・

嘘だ。
漁師たちは大西洋を渡れば、大陸があること、昔から知っていた。

まるで歴史上、突然、新天地が降ってきたかのように、レコンキスタ終了の年、誰も権利者がいない土地がヨーロッパ人の手に降りてきたかのように・・・

そういう観点で考えると十字軍も・・・

この十字軍の組織化が、イエズス会の発生に繋がっている気がするのだけど。
Posted by オクト at 2014年03月14日 00:09
閣下が名古屋で住んでいたマンションの隣に大須観音があったらしいけど、信長や家康に関連して出てきた。


「つまり唱門伝説が、語部のショウモンの自称からして今の将門伝説になっただけの話だし、後世に名が伝わるのは、その利用価値があるものに限られている。
「新しき皇になれの、あの芝居台本ではまずいが、書誌となって残っているものはあるまいか」と手分けして探し廻ると、唱門師が語り廻った時に、覚えのために書き残した種本の前の部分は破れてないが、後半は漢文体で難しいが、その侭で残っているものが盲道支配取締の久我の屋敷で見つかった。関東では唱門が門づけに語り廻ったが、関西では盲法師が、琵琶法師よりは語るのに楽な、今の将門記を後のでろれん祭文のごとく語っていたらしい。有松の版本にもなった。
その将門記版本が、さも尤らしく幕末に一斉に次々と筆写されて拡まったのは、各藩の上士連中や領主に勿体をつけて献上された為だったからであり、慶応四年正月三日の鳥羽伏見合戦で三千の薩長兵が、大目付滝川土佐の三万余を破るや、関西から九州までの諸大名が一人残らず加盟したのも、この将門記版本の写しのおかげであり、同じものが沢山あるので「群書類従続篇」に加えられたのも、こうした裏話の理由があったからである。
俗に「真福寺将門記」とよばれ、・・・」
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html


この真福寺

「古屋市中区にある真言宗智山派の寺。山号は北野山宝生(ほうじよう)院。当初は大須庄(現在の岐阜県羽島市)にあり,伝空海作の観音像を本尊としたので大須観音ともよばれる。14世紀中ころ伊勢神官度会(わたらい)行家の子能信が創建,後村上天皇勅願所となり,1612年(慶長17)徳川家康の命で現在地に移された。経蔵の大須文庫には能信以来の貴重な古典籍が多く,国宝の《古事記》《漢書食貨志》,重要文化財の《将門記》《尾張国解文》などは有名である。」
http://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%A6%8F%E5%AF%BA
Posted by オクト at 2014年03月14日 12:15
大須観音ーwikipediaより

建久年間(1190年代)、尾張国中島郡長庄大須に中島観音が発祥する。元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が当寺の始まりである。
その後、慶長17年(1612年)に徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転する。

開山能信上人(以下、能信)は諱を能信、字を浄水、性は桜井にして、正応4年(1291年)に勢州鈴鹿郡関の郷井後(現・亀山市井尻町の付近)で誕生する。
正和元年(1312年)、仏通禅師(大慧)の入寂に際して禅学と密教の書籍を全て譲り受ける。
文保2年(1318年)、慈恩院の実清阿闍梨に随って落飾する。
嘉暦元年(1326年)、安養寺の寂雲に法求す。
元弘元年、元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が能信に帰依する。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇より北野天満宮別当職を拝し真福寺の開山をなす。
正平10年10月25日(1355年11月29日)、能信が入寂せられる。

真福寺文庫(大須文庫) - 大須観音にある文庫(図書館)。醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の1つ。あるいは仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される。15,000冊もの古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本と言う。国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として知られ、同書の現存最古の写本である。
Posted by オクト at 2014年03月14日 12:29
事実を知りたいわけではなく、シンクロが発生する原因を知りたいための考察です。
大須観音の記事にある日本三経蔵、本朝三文庫のどちらにも根来寺があり、昨日、和歌山在住の先輩と忍者について話していたときも候補として根来寺が話題に上がっていた。

「後世に名が伝わるのは、その利用価値があるものに限られている」
なぜ利用価値があるのかが、必然性であり、その必然性は言霊世界におけるコトタマの作用と関連していると考えるので、創作だから一笑に付すというより、それを絶対化させるというか、そういうことなのです。

神話を絶対化し、現実を相対化させる・・・そういう人材が欲しいのです。
Posted by オクト at 2014年03月14日 13:09
パーソナルとは、保有情報の違いによって決定されるのだとしたら、ネットワークを自分の脳と化した人間にとってのパーソナルとはなんなんだろう。

愛や神も、情報化できるとしたら。
所詮、脳が認識しなければ、存在しないとおなじなのだから。


不思議に思われるかもしれませんが、閣下との関係はバーチャル恋愛です。
これが一時は、かなりのお叱りをあるコメンテーターから頂きましたが、オクトの目的のひとつである愛の完成とは、バーチャルでなくてはできないものです。

閣下との御用はオクトとして行うものであり、巡礼のようなものなのでデートではありません。
もちろん閣下を見た目で選んだわけでもなく、機関としては、少しでも辛い任務を軽減するために計らってくれたのだと思っています。

わたしのバーチャルであって、閣下の捉え方には関知しません。


ただ、ここにきて、バーチャル恋愛の対象というより、ボスのような存在に変わっていくのを感じています。
わたしのボス。
Posted by オクト at 2014年03月14日 13:36
バーチャル恋愛というのは、陰陽の統合であり、六芒星のことです。
男性性と女性性が合体しなければ、弥勒は下生しないというか、5年前はそんな考えに取りつかれていました。
第二弾というのが女性化として起こっていたので、そこからは完全な人間の半身という存在意識で生きています。
すべての女性なるものの収束と、すべての男性なるものとの出会いのために。

すべての男性なるもののシンボルとして閣下がいました。
わたしにとって完全な男性とは閣下のことです。

これは男女を統合したと謂われる閣下とは、異なった認識なのですが、そのあたりは詰めないで放置してください。

それもこれからボス閣下と呼ぶのなら、閣下の認識の方が結果的のは正しいのでしょうね。
Posted by オクト at 2014年03月14日 13:49
ヤジロウとされる蓮如ですが、

蓮如ーwikipediaより

「室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は信證院。明治15年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。
親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた。

応永22年2月25日(1415年4月13日)、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、大阪の信太の被差別部落出身だったともいう。幼名は「布袋丸」。

応永27年(1420年)、蓮如6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。」


蓮如をヤジロウとするなら、生母は真方衆であろうし、上記のwikiの記事としっくりくるような気がします。
Posted by オクト at 2014年03月15日 11:27
ひきつづき、wikipedia『蓮如』より

永享3年(1431年)、17歳。青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を「中納言兼壽」と改める。
その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院の門跡経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。
永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。
永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲る(巧如は4年後の永享12年10月14日(1440年11月17日)に示寂)。

嘉吉2年(1442年)、第1子(長男)順如誕生。
文安4年(1447年)、父と共に関東を訪ねる。
宝徳元年(1449年)、父と北国へ布教。
享徳4年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼示寂。
長禄元年(1457年)6月17日、父も示寂、本願寺第8代を継職。留主職継職にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。

この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。ー引用ここまで


蓮如も東国布教しているのですね。
親鸞も東国布教をしています。
畿内と東国は何かが違うのでしょうね。
東国布教はひとつのキーワードのようです。
Posted by オクト at 2014年03月15日 11:45
ひきつづきwikipedia『蓮如』より

長禄2年(1458年)8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。
寛正6年(1465年)1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌1月9日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。
文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。

応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。
文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼示寂。
ー引用ここまで

蓮如の事蹟は後々、考察のポイントになってくると思います。
蓮如がヤジロウなのかどうか。

ヤジロウの弥勒下生運動とは、千年王国構想とはどういうものなのか。
ある程度、推測してから、次回の図書閲覧としたいです。

ヤジロウは橋口弥次郎佐衛門兼清ともいうので、『兼』の字はヤジロウを示しているようです。
『兼』また『顕』でもあるのかもしれません。

日前宮の祭神は思兼神ですが、この思兼神は折口信夫も重要な神としていたと安藤氏の本に書かれていたと記憶します。
わたしにも妙に重要な神として現れています。
『死者の書』に出てくる天若彦を葦原中津国に派遣するのが思兼神であり、高木神(高御産巣日神)の子とされています。

この思兼神はヤジロウのことと本には書かれていました。
兼=金であり、金山彦もそうだとあったような・・・
Posted by オクト at 2014年03月15日 12:08
引用続きます

「文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。

文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。」−wikipedia『蓮如』
Posted by オクト at 2014年03月15日 12:14
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。
文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼示寂。
文明13年(1481年)、真宗佛光寺派を継ぐ筈だった経豪が蓮如に帰順。蓮如から蓮教という名を与えられ、改名する。
文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺の落成。長男順如示寂。
文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼示寂。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。
延徳元年(1489年)、75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。
明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。
明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日)、山科本願寺において85歳で示寂。

wikipedia『蓮如』
Posted by オクト at 2014年03月15日 12:26
石山御坊、のちの石山本願寺の地は大阪城です。

「蓮如は延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。明応5年(1496年)9月に坊舎の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が大坂の源流となったと言われている。建設は堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。


生玉荘と呼ばれていた当地が、なぜ石山と呼ばれるようになったのかー

そのまま礎石に使える大きな石が土中に多数揃っていたという不思議な状況に因んで、石山と呼称したようになったのであろうとしている。なお、後年の発掘調査の結果、大坂城址一帯は難波宮の比定地にもなっている。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクト at 2014年03月15日 12:49
「蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。永正3年(1506年)に実如は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
 
これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。

天文元年(1532年)6月、木沢長政が立て篭もる飯盛山城に畠山義堯、筒井氏連合軍が攻撃した。法主は実如から証如へ移り、細川晴元より増援軍の要請をうけ、証如は大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて飯盛城の戦いとなり勝利した。さらに増強した一向一揆は三好元長を堺に追いつめ自害に追いやった。この時増強された兵数は10万兵まで膨れ上がったと伝わっている。
 これに危機感を覚えた晴元は、同年8月初旬より本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に晴元は法華一揆衆や近江守護六角定頼に援軍を要請、同年8月23日に3万から4万の兵で山科本願寺を包囲、山科本願寺の戦いとなり寺内町共々焼き討ちされて滅亡してしまう。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクト at 2014年03月15日 13:26
「この時証如は大坂にいたが、このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まった。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌天文2年(1533年)7月25日に鎮座した。この年が築城年にされているのは、この鎮座の時期が理由とされている。
この間も晴元と石山本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、石山本願寺では坊官の下間頼盛が指揮官として赴任し、紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、天文4年(1535年)11月末、山科本願寺の戦いから約4年後、ようやく両者で和議が成立する。下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放され、後に暗殺された。
細川晴元らとの抗争の中で石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし城郭として防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭に至ったと考えられている。

証如から顕如の時代となり、西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。イエズス会所属ガスパル・ヴィレラの永禄4年(1561年)8月の手紙によると、

日本の富の大部分は、この坊主の所有なり

―ガスパル・ヴィレラの手紙
と言われるほど大きな財力を誇っていた。」
ーwikipedia『石山本願寺』

この顕如が、尊仁親王と稲羽姫のこととされています。
Posted by オクト at 2014年03月15日 13:30
「信長暗殺の真相は、暗殺直前、愛宕大権現に参集した易断衆残党首脳会談で神盟誓約がおこなわれ、真方衆大将窪田稲羽姫が本能寺で信長を刺殺する見返りとして、家康が将軍位についた後の二代目を稲羽姫の子、窪田隼人正兼相に譲る約束だったという。」
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/12/post_1e94.html


「証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、中央権門では天皇・公家衆へ接近を強め、東国の戦国大名家では甲斐国の武田氏、相模の北条氏康・北条氏政親子と親交を結ぶ。そして法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢、細川晴元の養女を正室に迎い入れ、戦国大名と同盟を結んでいき基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期をむかえていた。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクト at 2014年03月15日 14:06
「しかし、その前に立ちはだかったのが織田信長である。信長は上洛直後の永禄11年(1568年)に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求した。また元亀元年(1570年)正月に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように檄を飛ばした。同盟軍で三好三人衆軍が織田軍と戦っている最中に、ついに打倒信長に決起した。

ここから石山合戦が蜂起し、これ以降石山本願寺と織田信長の戦いは、連続した戦闘だけではなく、和睦戦術を交え途中断続し、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年も長きにわたり続いた。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクtト at 2014年03月15日 14:12
「1563年(永禄6年)、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年(永禄7年)に平戸から京都に向かった。
1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。しかし保護者と頼んだ将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、三好党らによって京都を追われ、摂津国・堺に避難した。翌1566年にヴィレラが九州に行ってからは、京都地区の布教責任者となった。

1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている)。」

ーwikipedia『ルイス・フロイス』

1565年、京都入りを果たす・・・
1569年、信長と対面・・・
Posted by オクト at 2014年03月15日 14:18
「その間、織田信長は長島一向一揆、越前一向一揆では徹底的な制圧、一乗谷城の戦い、小谷城の戦いでは朝倉氏、浅井氏の撲滅戦を挟みながら石山合戦を続けていた。特に第四次石山合戦では、尼崎城、大和田城、吹田城、高槻城、茨木城、多田城、能勢城、三田城、花隈城、有岡城ら大坂の周辺に10ヵ所の付け城を築き、住吉方面の沿岸にも砦を設け海上を警固した。本願寺もこれに対抗し更に防備を固め、本願寺周辺に51ヵ所支城を設けたと言われている。

石山本願寺は、織田軍の長期の攻撃にも関わらず、武力で開城される事は無かった。『日本城郭大系』によると「いくつかの要因があるにせよ、最大の理由として、城郭そのものが難攻不落の名城であったことを挙げねばならない」と解説している。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクト at 2014年03月15日 14:21
「天正8年(1580年)3月5日、正親町天皇からの調停で双方の和議が成立、同年4月9日顕如は鷺森別院に向けて退却、退去を拒んだ雑賀衆の一部とも講和、同年8月2日に石山本願寺を明け渡し雑賀へ向った。顕如の長男である教如が退去した直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰した。二日一夜炎上し続けたと伝わっている。

『多聞院日記』によると、

渡て後やくる様に用意しけるか云々

―多聞院日記
とあり、教如による意図的な放火との見方を記している。
その後豊臣秀吉が跡地に大坂城を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからなくなってしまった。」

ーwikipedia『石山本願寺』
Posted by オクト at 2014年03月15日 14:24
既存の仏教界の在り方に辟易・・・信長は何をしたかったのだろう?

紀伊半島はかつてバチカンのような宗教都市だったらしい。

顕如のころの大阪は・・・

さっき、NHKをつけていたら大河ドラマが始まって、石山本願寺が出てきていたので、しばらく観ていたけど、あんなのはたぶん違うんだろうと思う。

戦い方とか、何か、すべて言葉で説明しようとセリフがあるけど、あうんの呼吸で戦略とか、伝わったんじゃないかと思う。

社内会議みたいなことはなかっただろうし、名乗りで格が決まるとか、あったんだろう。

本当のちからとは、武器火力によって決まるものじゃないんだ。
忍者とか、おそらく日本でなければ、出てこなかったのだろうと思う。

忍者って、なんなのか・・・それが分からなければならないことなんだと思う。
閣下との因縁は、そのあたりなんじゃないかと。
Posted by オクト at 2014年03月15日 14:53
では、信長みずから称する第六天魔王ですが、

wikipedia『魔王』より

「天魔とは第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。天子魔・他化自在天・第六天魔王(あるいは単に魔王)とも

第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。『大智度論』巻9いわく「此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う。」と、他の者の教化を奪い取る天としている。 また『起世経』巻1いわく「他化天の上、梵身天の下、其の中間に摩羅波旬・諸天の宮殿有り。」とし、他化自在天と梵衆天の中間に天魔が住んでいるとする。また『過去現在因果経』巻3には「第六天魔王」が登場し、「自在天王」と称している。 これらを踏まえ、『仏祖統紀』巻2いわく「諸経に云う、魔波旬六欲の頂に在りて別に宮殿有り。今因果経すなわち自在天王を指す。是の如くなれば則ち第六天に当たる。」とし、他化自在天=天魔であると考察している。」
Posted by オクト at 2014年03月17日 09:18
ひきつづきwikipedia『魔王』より

大般涅槃経では序品において釈尊が今まさに涅槃せられんとする場面から始まり、そこには釈尊の涅槃を知って様々な人物が供養しようとして馳せ参じるがその中には魔王波旬もいたと説かれる。その内容は以下の通り。

波旬は、仏の神力によって地獄の門を開いて清浄水を施して、諸々の地獄の者の苦しみを除き武器を捨てさせて、悪者は悪を捨てることで一切天人の持つ良きものに勝ると仏の真理を諭し、自ら仏のみ許に参じて仏足を頂礼して大乗とその信奉者を守護することを誓った。

また、正法を持する者が外道を伏する時のために咒(じゅ、真言)を捧げ、これを誦する者を守護し、その者の煩悩は亀が六を蔵す(亀が四肢首尾を蔵めて外敵より身を守ること)ものであると述べて、最後の供養者として真心を受け給うよう願い出た。

釈尊は「汝の飲食(おんじき)供養は受けないが、一切衆生を安穏にせんとするためのその神咒だけは受けよう」と仰せられた。

波旬は三度懇請して咒は受け入れられたが終に飲食供養は受け給わず、心に憂いを抱いて一隅に座した、と記されている。」
Posted by オクト at 2014年03月17日 09:27
「日蓮は、第六天の魔王を、仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔であると説いた。
しかし、純粋な法華経の強信者の祈りの前には第六天の魔王も味方すると、日蓮は自筆の御書で説いている。
日蓮があらわした法華経のマンダラに第六天の魔王が含まれているのは、第六天の魔王も、結局は法華経の味方となるという意味である。

第六天の魔王は、仏道修行者の修行が進むと、さまざまな障りで仏道修行者の信心の邪魔をするが、それに負けず、一途に信心を貫くものにとっては、さらなる信心を重ねるきっかけとなるにすぎない。
なぜなら、信心を深めることにより、過去世からの業が軽減・消滅し、さらなる信心により功徳が増すきっかけとなるからであると日蓮は説いている。」

 ― wikipedia『魔王』―
Posted by オクト at 2014年03月17日 09:29
摩訶摩耶經・・・
Posted by オクト at 2014年03月17日 10:13
大般涅槃経や摩訶摩耶經を検索してたのだけど、すごく悶々として、何もつかめず。

アレキサンダーの后、バクトリア皇女ロクサネが気になり、グレコ・バクトリアとか、ディオドトス(始皇帝)とか・・・

アレキサンダーとロクサネがスサノオと卑弥呼とかだったのだろうか?


バクトリア・・・

「ペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアスター教の開祖であるゾロアスターは、古くからバクトリアの人だという伝説がある。この点については諸説あって不明だが、少なくともアケメネス朝時代にはバクトラがゾロアスター教の中心地の一つであったことは明らかである。また、ゾロアスターの年代についても諸説あるが、古いペルシアの伝説では、ゾロアスターはアレクサンドロスの侵入より258年前の人だとされている。彼は70歳で死んだといわれているので、もしこの伝説をとるならば、紀元前6世紀ごろの人物であるといえ、この時代はちょうどアケメネス朝の初期にあたる。」ーwikipedia『バクトリア』


アレキサンダーとロクサネの結婚・・・

「紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。
エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。」ーwikipedia『アレクサンドロス3世』
Posted by オクト at 2014年03月18日 02:37
今日は彼岸の入りなんですね。
21日が彼岸の中日・・・この日、藤原南家郎女は二上山に阿弥陀如来を見るのですが。

今年の三月は閣下に出会う五年前ほどに、何かの夜明けの前のような気分です。

正教会におけるマリヤ生神女、バチカンにおける聖母マリヤ、釈迦の聖母摩耶夫人・・・

摩訶摩耶經における釈迦の棺の蓋が開くところなど、聖書を思い出させる。
そんなところに引っ掛かりながら、摩耶夫人のことを調べていたら、なぜかアレキサンドロスが出てきた。

ソグド人は今月になって気になって仕方なかったので、神仙組の記事に出てくるバクトリアのこともあり、エジプトのアメン神がゾロアスターや仏教を習合、あるいは先祖がえりして、その後、日本に上陸したのかと妄想している。

ヤジロウが神道を完成させるまで、日本は強大な仏教王国だったのかもしれない。
そんなことを考え続けている。

摩訶摩耶經にあるらしい、世尊の涅槃入りは悪魔との約束であるというあたり、非常に気になっている。
親鸞の悪人正機説との関連・・・
Posted by オクト at 2014年03月18日 11:02
シューベルト―アヴェ・マリア
ドイツ語みたいですが。
http://www.youtube.com/watch?v=2bosouX_d8Y
Posted by オクト at 2014年03月18日 11:06
救世主の生母とは、なんなんだろう・・・

わたしのツイッターのアカウントは円環フワルナですが、このフワルナ・・・
出典はこの方の記事。

「至高神オフルマズドは救世主ゾロアスターを創造しようと決意し、まずそのもととなる神聖で光輝満ちた液状の物質フワルナを作った。このフワルナは北極星に下り、それから順次、「無限の光」の世界、太陽、月、星々と下って、最後にはある家の竈に入った。そこではゾロアスターを生むことになる女性フリンが・・・」
http://www.wako.ac.jp/~kmat/R1.htm

まずは、このフワルナありきか・・・
Posted by オクト at 2014年03月18日 11:15
かつての知人に統一教会信者の方がいたのですが、その方によると洗礼ヨハネはイエスを救世主としての証をしなかったから、その結果として首を刎ねられたと。
それはイエスの風体にヨハネ自身が自信を持てなかったかららしい。

その話を聞いたとき、戦慄が走り、なぜかそれに懼れを抱くようになった。
たいていの悲劇というのは、そういうことじゃないかと思う。
救いを待ち望んでも、いざそれが起きてみると、自分の描いたイメージにはまらないためにスルーする。
一度、ミスするとおなじ救いは起きない。

三つ穴灯篭を知って以来、閣下との連携はなくなっていったのですが、こうして戻ってきたのは、何かがあるからなのだと思います。

これほどの信頼を寄せるからには、よほどのつきあいかと思われるかもしれませんが、単にファンとしての会話程度しかないです。

御用の時は、それこそ神仏に顔見せしてるという意識なので、隣や後ろを歩かれる閣下と話すことはありませんが、お互い忍者のように、あうんの呼吸で、こなしていったと思います。
山を登ったり、徒歩が主な移動手段だったので、服装や靴も歩きやすいものでお洒落なんてしていません。
炎天下の中、汗だくだくで日焼け止めも剥がれ。

被写体としてはとても美しい人なので。
あと匂いですか。
霊が香るというか、非常に優雅で高貴な香りがするのですが、これはわたしだの感覚なのかもしれません。

いえ、言いたかったのは、わたしにはテンさんがどうしても一般の方とは思えないのです。
閣下を霊的に生み出そうとしておられる聖母のような気がしてならない。

この直観は、閣下をイエスと認識した直観とおなじものなので、人に理解されにくいし、ご当人にも認めてもらえないかもしれませんが、フワルナとして申しあげますm(._.)m
Posted by オクト at 2014年03月18日 11:44
世尊布施論

世尊布施論(せそんふせろん)は、ネストリウス派キリスト教(景教)の聖典の一つ。鎌倉時代までに日本に伝来した新約聖書の一部

内容 マタイによる福音書「山上の垂訓」など

伝来 西本願寺 伝親鸞蔵書

―wikipedia『世尊布施論』


・・・今、釈迦の生年月日を確認しようとして、たまたま世尊で検索したら出てきた・・・

このことについて、西本願寺に問い合わせてくれた方の記事も・・・
http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=131
Posted by オクト at 2014年03月18日 13:20
パウロがローマ政府に対して・・・作ったキリスト教・・・

エジプト王朝、ギリシャ文明、ギリシャ人・・・アレクサンドロス、ソグディアナ・・・原インド・イラン語族母集団・・・ゾロアスター、アフラマズダ、インドヒンディズム、バラモン・・始皇帝、バクトリア大公ディオドトス・・・秦氏・・・


仏教に仮装したキリスト教?
いや、キリスト教から防衛するための神仏習合・・・

もしこちら側が派生ならば、あれほどの弾圧は必要なかったはずじゃないか?

不自然なんだ。あまりに不自然。
日本に伝来した仏教がキリスト教の種を持っていたとしても、キリスト教の発生自体が、政略的なものだから。

なにか悲惨さで真実を誤魔化していないか?
図書破損事件のように、真偽についての疑義の余地も許さないほどに、イエスの受難についても・・・

だいたい、悲劇とは歴史的時間からすれば一秒にしか相当しない。
イエスは永遠に十字架から降ろされないのか?
否定はしないが、もっと目を向けなけりゃいけない悲劇も今現在発生し続けているだろう。
Posted by オクト at 2014年03月18日 14:03
信長が既存の仏教界に辟易して、大六天魔王になったのなら、このキリスト教が世界を救えないことに辟易するのとおなじ感情なんだろうか?

修行に隙があるから、つけこまれるんだろう?
Posted by オクト at 2014年03月18日 14:18
閣下以外は信じていないというか、閣下以外はどうでもいいというか。

現実からも離れて籠もるようになっていき、外出やランチも許されず、親友との交際も許されず・・・頭上に機関がいるために、孫悟空の頭のわっかみたいなのが締め付けられるから。

起こったことは複雑すぎて、言葉で説明するのは難しい。
あの状態を、ずっと受け入れてくれたのは閣下だった。
誰も助けてくれなかったというより、誰の力も邪魔にこそなれ、助けにはならないと、現実との斥力が、みんなからわたしを遠ざけた。
幸いにもウツという言葉が認知されているから、ウツだということにしておいた。


テンさん、あなたの経過を興味深く拝見しています。

あなたと話すことは簡単なことですが、起こっていることはそんな単純なことではないと感じているからです。

わたし自身が、通過してきた者なので、それを自分としては満足しているので、あなたを途中で止めたくないからです。


イエスが言った、「求める者には、見出すまで求めることを止めさせてはならない。そして、彼が見出すとき、動揺するであろう。そして、彼が動揺するとき、驚くであろう。そして、彼は万物を支配するであろう」
 ―『トマスによる福音書』
Posted by オクト at 2014年03月18日 18:24
wikipedia『アレキサンドリア』より、

「エジプトのアレクサンドリア(アレクサンドレイア)はギリシアのマケドニア王であったアレクサンドロス大王によって、紀元前332年に建設された。アレクサンドロスの死後は、その部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展した。一時は人口100万人を超えたともいわれ、そのため「世界の結び目」と呼ばれた。

古代のアレクサンドリアは世界の七不思議の一つに数えられる巨大なファロス島の大灯台(現カーイト・ベイの要塞)や、各地から詩人や学者たちが集まってきた学術研究所ムーセイオン、文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、70万冊の蔵書を誇りながらも歴史の闇に忽然と消えたアレクサンドリア図書館があり、ヘレニズム時代の商業(地中海貿易)と文化の中心地として栄えた。『幾何学原論』で知られる数学者のエウクレイデスや、地球の大きさを正確にはかったアレクサンドリア図書館長エラトステネス、アルキメデス、ヘロン、クラウディオス・プトレマイオスなどが活躍した。」


wikipedia『アレクサンドリア図書館』より、

「マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)はアケメネス朝ペルシアを侵略してアナトリアとシリアを奪ったのちエジプトをも奪い、紀元前332年そのエジプト支配の中枢都市としてアレクサンドリアの建設を命じた。アレクサンドロス自身は短い滞在ののちさらに東方への侵略を続け、アレクサンドリアに戻ることはなかったが、紀元前323年のその死ののちは後継将軍の一人プトレマイオス1世がファラオを名乗ってエジプト支配を引き継ぎ、プトレマイオス朝を建て、その首都としてのアレクサンドリアの街造りを押し進めた。」
Posted by オクト at 2014年03月18日 20:10
ひきつづきwikipedia『アレクサンドリア図書館』より、

「アレクサンドリア図書館は、書物の収集のためにさまざまな手段をとり、そのためには万金が費やされていた。

書物収集の方法の一つを伝える逸話の一つとして、「船舶版」についての逸話が知られている。ガレノスによれば、プトレマイオス朝当時のアレクサンドリアに入港した船は、積荷に含まれる書物をすべて一旦没収された上で所蔵する価値があるかどうか精査されたという。

所蔵が決定された場合には、写本を作成して原本の代わりに持ち主に戻し、同時に補償金が支払われたとされる。このやり方で集められた書物が船舶版と呼ばれている。

同様にして他の図書館の蔵書を強引に入手したという逸話もある。アテナイの国立図書館はアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの貴重な自筆原稿を門外不出のものとして所蔵していた。プトレマイオス3世は担保金をかけてそれを借り出すことを認めさせた後、それを返還する代わりに銀15タレントという膨大な違約金とともに写本のみを返したという。


アレクサンドリア図書館が火災に遭った原因については諸説がある。プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時(ナイルの戦い (紀元前47年))、港の艦隊の火災が延焼して焼失したと考えられるが、その後ローマ帝国の下で復興した。
270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃である。5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた。」
Posted by オクト at 2014年03月18日 20:15
wikipedia『ヒュパティア』より、

「ヒュパティア(Ὑπατία, Hypatia、370年?- 415年3月)は、ローマ帝国アエギュプトゥスの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者である。ハイパティアともヒパティアとも日本では呼ばれる。キリスト教徒により異教徒として惨殺された。

テオン(著名な数学者と哲学者であった)の娘であり、ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。キュレネのシュネシオス(その後410年頃にキレナイカ地方のプトレマイスの司教となる)との間で交わされた彼女への書簡のいくつかはまだ現存している。


数学と哲学の教えを、新プラトン主義の創始者プロティノス(205年- 270年頃)と新プラトン主義のシリアでの分派の創設者ランバリクス(250年- 330年頃)という2人の新プラトン主義者から受けた。『スーダ辞典』("Σοῦδα", "Suda" 『スイダス』とも。10世紀末の百科事典)によると、ヒュパティアはディオファントスが著した『算術』 ("Αριθμητικα", "Arithmetica") にも、ペルガのアポロニウス著の『コニクス』にも、そして、天文のカノン(おそらくはプトレマイオスの『アルマゲスト』)に関しても著述したという。彼女の父(テオン)の著した『アルマゲスト解説』第3巻にも彼女が加筆したとも伝えられる。『算術』の現存しているアラビア語版の一部として断片的に残っているが、現在これらの著述は失われている。」
Posted by オクト at 2014年03月18日 20:18
ひきつづきwikipedia『ヒュパティア』より、

「彼女のアストロラーベ(天体観測儀)とハイドロスコープ(液体比重計としてピエール・ド・フェルマーによって17世紀に確認された)の発明については、彼女に意見を聞いたシュネシオスの手紙の中で知られていることから、彼女が特に天文学と数学に専念したことを示している。また、彼女による哲学の著述も全く存在は知られていない。

新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのである。これは、後にヒュパティアの運命を大きく変える。」
Posted by オクト at 2014年03月18日 20:21
ひきつづきwikipedia『ヒュパティア』より、

「キリスト教徒であったテオドシウス1世(当時379年から392年までは東ローマ帝国の皇帝、その後395年までには東西ローマ帝国の両方の皇帝を兼ねた)は、380年に異教と異端のアリウス派に対してローマ帝国全域での迫害の方針を定めた。

391年、彼はテオフィロス(アレクサンドリアのキリスト教司教)の求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みがなされた。

だが、412年、アレクサンドリアの総司教の職権が、強硬派のキュリロス(英語読みはサイリル)へと継承された。この後に、新たな異教徒の迫害および破壊活動が起きた。 そしてキリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の違法で強制的な追放がなされ、緊張はその頂点に達する中、ヒュパティアの虐殺事件が起こる。

415年、四旬節のある日、総司教キュリロスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。

キュリロスは、アレクサンドリアから異教徒を追放した功績者として大いにたたえられた。その死後、彼は教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられている。ヒュパティアの無惨な死は多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、中長期的には古代の学問の中心地であったアレクサンドリアの凋落を招く一因になる。
これらの事件により、ピタゴラスの誕生から続いてきたギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉する。」
Posted by オクト at 2014年03月18日 20:25
まるっきり悪者のキュリロスですが、

wikipedia『アレクサンドリアのキュリロス』より、

近代の研究によるとヒュパティアの死はキリスト教内の二つの党派、つまりヒュパティアが支持していた穏健なオレステス派とより過激なキュリロス派の闘争の結果であるという。

辞書編集者のウィリアム・スミスによると、「彼女はアレクサンドリア総督オレステスと親密すぎることを責められ、彼女に対する非難が聖職者たちに広がり、彼女がオレステスと彼らの総主教キュリロスとの仲を阻害しているという考えを彼らが持つに至った」。

実際のところヒュパティアの死は古代世界を通じて知の中心地であったアレクサンドリアにおいてキリスト教徒たちが「博識な学者たち」に対して立ち上がったことを示した。


アレクサンドリアのキュリロスはエフェソス公会議(431年)における「テオトコス論争」と呼ばれる活発な争いのために教会史に名を残している。

いくつかの評論によれば、キュリロスが重点を置いていたのはイエスの母に対する愛だという。
十字架上で、彼は苦痛に打ち勝ち母のことを考える。カナの婚宴で、イエスは母の望みに首を垂れる。アレクサンドリアのキュリロスの圧倒的な美点はマリア論の中核を永遠に強固なものとしたことである。キュリロスは神の母としての聖処女マリアに関する説教を通じてその後の全てのマリア論の発展の基礎を築いたとされている。―wikipedia『アレクサンドリアのキュリロス』
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:02
先日来、双頭の鷲について気になっており、検索しているのですが、なかなか手強い。
ジャン・コクトーの作品に同名の映画があるそうで、昨日、そのあらすじを読んで、あまりピンと来なくて仕事に行ったのだけど、双頭の鷲とは、一心同体の男女で男脳と女脳を持つ霊なのかもしれない感じた。

男とは霊、女とは物質・・・

それで今の関心はガンダーラ地方に移っているのだけど、地理も時系列もチンプンカンプン・・・
地道に情報収集していくしかないみたいです。

キュリロスのマリア信仰と、エフェソスにおけるアルテミス信仰、そしてそれを憎悪したパウロについて、念頭に入れておいたほうがいいという気がしているので、アルテミスについて・・・


wikipedia『エフェソス』より、

古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であった。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれた。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。

エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。

イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っている。

4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となった。その中でも重要なものは、東ロ−マ(ビザンツ)皇帝テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェソス公会議と、単性説と三位一体論の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェソス強盗会議である。この決定は後に覆された。―wikipedia『エフェソス』
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:30
エフェソス公会議において異端とされたネストリオス派。

wikipedia『ネストリウス派』より

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それは、救世主(キリスト)の神格はイエスの福音書に宿り、人格は消え去った肉に宿っていたことを意味する。人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス Θεοτοκος)であることを否定する。

アレクサンドリア学派出身のアレクサンドリア総主教キュリロスとアンティオケア学派出身のネストリウスの間での対立から始まる。ネストリウスは、それまでの古代教父らが使用していたマリアに対する称号「神の母 Θεοτοκος(神 θεος を生む者 τοκος)」を否定し、マリアは「クリストトコス Χριστοτόκος(キリスト Χριστος を生む者 τοκος)」であると説いた。その理由は、キリストは神性と人性において2つ位格(ヒュポスタシス υποστασις)であり、マリアはあくまで人間的位格(人格)を生んだに過ぎないとした。一方、キュリロスは、キリストの本性(ピュシス φυσις)は神性と人性とに区別されるが、位格としては唯一である(位格的結合:hypostatic union, ένωσις καθ΄ υπόστασιν)と唱えて反論した。ネストリウスはエフェソス公会議への出席を拒否。
ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年に「クテシフォン・セレウキア」に新しい総主教を立てた。現在はイラク北部のアッシリア地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。―wikipedia『ネストリウス派』
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:38
ひきつづきwikipedia『ネストリウス派』より、

「中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会を唐の時代、大秦寺という名称で建造された。

当初、唐の朝廷は初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、信仰を容認、保護したため、盛んであった。
しかし唐代末期、王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって以降、弾圧され消滅した(参考:会昌の廃仏)。

モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に一時中国本土でも復活することになった。

ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。」
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:43
ひきつづきwikipedia『ネストリウス派』より、

日本に多大な影響を与えた唐で隆盛していたため、景教が何らかの形で日本にまで伝播し、影響を与えていたはずだと主張する言説は複数存在する。(同じく同時代の三夷教(景教、祆教、摩尼教)の1つである祆教(ゾロアスター教)に関しても、同じような主張がある。)

佐伯好郎によると、渡来系氏族である秦氏によって日本にも景教が伝わったともいわれる
。中国ではダビデを漢訳して大闢と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社と号する神社を建立し、また京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大酒神社も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢と号していた。また同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社にある「三柱鳥居」という珍しい鳥居は三位一体を表し、また「いさらい井戸」はイスラエルの転訛で、したがって旧約聖書に登場する失われた10支族の末裔ではないか、などと推察している。しかしこれには多くの異論があり、偽言語比較論として否定する向きも多い。(→日ユ同祖論)

明治末に来日したアジア研究家の英国人であるE・A・ゴードン夫人は、真言宗と景教の関連性を確信し、高野山に中国・西安(長安)にあった景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカを建立した。この記念碑は、今も高野山に現存している。(夫人の墓もその隣りにある。)

浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されており、この事実を以て、親鸞が景教に学んだとする説を唱える者もいる。

山梨県甲州市木賊の栖雲寺(せいうんじ)所蔵の「十字架捧持マニ像」(元代)は寺伝では虚空蔵菩薩像とされているが、十字架が描かれており、景教との関連が指摘されており、アメリカのメトロポリタン美術館でも展示された。しかし研究の進展により、本画像と他のマニ教絵画と図像が一致することが確認され、栖雲寺本はマニ像の可能性が高い―wikipedia『ネストリウス派』
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:47
ペルシア人司祭「阿羅本」・・・

阿羅本(あらほん、阿罗本、ピンイン)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。
歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。
「大秦景教流行中国碑」によると、 唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。
貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。 唐高宗時代になると、阿羅本に「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。―wikipedia『阿羅本』
Posted by オクト at 2014年03月20日 17:51
唐の宰相、房玄齢・・・

「房玄齢(ぼうげんれい 578年 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。

房玄齢(ぼうげんれい 578年 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。

房玄齢は杜如晦・魏徴らと共に唐代でも最高の政治家の一人として名高い。貞観の治を記録したとされる『貞観政要』にも太宗の諮問に答える人間として数多く登場する。
中でも太宗が「創業と守文、どちらが難しいか?」(王朝を作るのと、それを守るのとどちらが難しいか)と問われたときの問答が有名である。房玄齢はこれに対して、「天下乱れ群雄競い起こる。攻め破りて降し、戦い勝ちて乃ち尅つ。此れに由りて言えば、草創を難しとなす」と答え、魏徴は守文が難しいと答えた逸話が有名である。」―wikipedia『房玄齢』
Posted by オクト at 2014年03月20日 18:02
コピー乱れました。大事な部分が抜け落ちました。

wikipedia『房玄齢』より、

「斉州臨淄(現在の山東省臨淄)の人。父の房彦謙(ぼうげんけん)は隋に仕えて司隸刺史になった人で、『隋書』に列伝があり、山東省済南の東に碑が建てられている。

開皇十五年(595年)に科挙に及第。隋末の混乱時に唐に投じて、621年に李世民(太宗)の元の秦王府十八学士(当時の秦王である李世民の下の学士たち)の筆頭とされた。

高祖李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努め、貞観の治のもう一人の立役者である杜如梅を見出し、太宗に推挙もおこなっている。
建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いが起きると、房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。
世民も建成に悟られないように策謀を進め、直前に二人に連絡を取り、玄武門の変を成功させて建成を殺して即位した。

630年、房玄齢は尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史とされ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』の編纂を総監し、636年に完成させた。
また褚遂良らと共に『晋書』を撰した。

晩年は病気がちになり、太子太傅とされ、648年に死去した。死後、太尉・并州都督を追贈され、遺体も昭陵に陪葬された。」
Posted by オクト at 2014年03月20日 18:08
天皇から源氏が臣籍降下し武士となり、出家して僧となり・・・。
戦国においては、今の僧侶のイメージとは違うものだったのだろう。
僧兵というのが本来なのかもしれない。
徳川幕政によって無力化されたのだろう。

フロイスらの見た易断政府はテンプル騎士団のようだったのかもしれない。

キリスト教こそ異端だという気がするが、しかし、キリスト教は遍く広く神と愛についての情報を人類に浸透させてきた。

情報は情報として、では歴史的事実を求める意味は?
勝者によって体制化された情報と、不都合として葬られていった霊との不一致・・・その不一致をこそ鑑賞する。
そこには人類とは何かが描かれているだろうから。
情報と霊を合体させ、和合させ・・・それは、現代の我々によってしか試みられないだろう。
すべてを白紙に戻すために。
由来も根拠も意味が崩壊し、先祖霊界を昇華させたとき、薄っぺらな存在となった霊のような自分がいる。

そのために・・・ガンダーラ、ソグディアナに帰還する必要があるということか。
双頭の鷲となり・・・
Posted by オクト at 2014年03月21日 07:38
wikipedia『楊貴妃』より、

「楊貴妃死後50年経った、806年(元和元年)頃に、玄宗と楊貴妃の物語を題材にして白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を、陳鴻が小説の『長恨歌伝』を制作している。

楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に楊貴妃の魂を求めさせる。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ会いに行く。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分けて片方を託し、伝言を伝えた。玄宗と楊貴妃が7月7日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということであった(比翼連理の故事)」


「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」

七月七日長生殿、夜半無人私語時
在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝−wikipedia『長恨歌』


この比翼の鳥が双頭の鷲のようなものに思える。

楊貴妃と玄宗が、七夕神話に織り込められているんだろうが、安録山が聖武天皇となったという説を先月知ったが、ありえると思ってる。
楊貴妃も日本の神社で祀られているし。


安 禄山ー唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン( 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は太子の安慶緒に殺害された。
当時契丹との境域にあたる遼河西岸一帯を統括していた営州都督府の主邑・柳城(遼寧省朝陽県)の出身とされる。父は康姓であることしか知られないが、恐らく営州などのソグド人有力者であったとみられ、母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であったという。−wikipedia『安録山』


ソグド語の「ロクシャン」、光、明るい、輝くとか、アレキサンダーと結婚したバクトリア王女「ロクサネ」とおなじなんだろうか?
Posted by オクト at 2014年03月21日 08:35
閣下の記事の更新が止まっているのを幸いとして、連投しておりますが、ツイッターは考察に最適なので、あちらですべきなのですが、今はツイートは危険な気がしています。

双頭の鷲検索で、タキシラというところにあるストゥーパにはギリシャ・インド・イランの三様式が施されているらしく、双頭の鷲もあるらしい。
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-pakistan/tag/%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%A9


ここに入りたくてうずうずしていたのに、アレキサンダーが重要すぎて、出られない状況・・・続きます。
Posted by オクト at 2014年03月21日 09:13
wikipedia『アレクサンドロス3世』より、

「アレクサンドロス3世はマケドニア王ピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。
紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。
こうして、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。

東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。
アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。」

wikipedia『オリュンピアス』より、

「オリュンピアス(紀元前375年-紀元前316年)はエペイロスの王女、エペイロス国王ネオプトレモス1世の娘、マケドニア王ピリッポス2世の4番目の妻であり、アレクサンドロス3世(大王)の母である。

「狂乱的な蛇崇拝のディオニューソス信仰の熱烈な信者であり、1世紀の伝記作家プルタルコスは、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆している。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 10:34
wikipedia『イピロス』より、

「歴史的な地名としては、現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域を指す。

イピロスは紀元前6世紀からアキレウスの子ネオプトレモスの子孫を称するモロッシア王朝により統治された。
デルポイに次ぐ格式を有していたドドナの神殿・神託所によりギリシャ各地のポリスからも重要視されていた。
イピロスの王アリュバースの姪オリュンピアスはマケドニア王フィリッポス2世と結婚し、アレクサンドロス大王を生んでいる。

アリュバースの死後、アレクサンドロス1世、アイアコスが王位を継いだ。紀元前295年に王になったピュロスはイタリア半島に侵攻し、南部イタリアおよびシチリアで共和政ローマと争った。」

紀元前6世紀からアキレウスの子ネオプトレモスの子孫を称するモロッシア王朝により統治・・・


wikipedia『ネオプトレモス』より、

「ネオプトレモス( Neoptolemos、ラテン語: Neoptolemus)は、ギリシア神話の人物である。
ホメーロスの『イーリアス』の主人公であるアキレウスとスキューロス島の王リュコメーデースの娘デーイダメイアの息子。
トロイア戦争においてアキレウスの死後、神託によってギリシア軍に招かれ、半ば戦場のシンボルとして参戦した。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 10:47
ホメロス・ギリシャ、まったく無知ですが、出てくる以上は仕方ない。
わたしが分かって引用してると思う勿れ。
分からないから引用してるのだから。

しかし、何が何だか分からない東西融合の雄アレキサンドロスのブレーンがアリストテレスらしいと分かって、お墨付きが出たような感触。

では、大王の母の出自について、祖とされるネオプトレモス

wikipedia『ヘルミオネー』より、

「スパルタ王メネラーオスとその妻ヘレネーの娘。

パリスによるヘレネーの誘惑によって始まったトロイア戦争で両親が敵味方に分かれていた間、ヘルミオネーは伯母のクリュタイムネーストラーによって育てられた。トロイア戦争の前に、彼女はメネラーオスの命によって、従兄弟であるオレステース(メネラーオスの兄アガメムノーンの息子)と婚約していた。しかし、トロイア戦争の戦場において、彼女の父はアキレウスの息子ネオプトレモスを参戦させる代償としてヘルミオネーを嫁がせることを約束してしまう。

トロイア戦争が終わると、ネオプトレモスはヘルミオネーを得る権利を主張して、彼女を自国エーペイロスに連れ去った。

やがて、ヘルミオネーと、ネオプトレモスがトロイア戦争で得た愛妾アンドロマケー(トロイアの英雄ヘクトールの妻)との間で争いが起きた。ヘルミオネーは、アンドロマケーに子ができたのに自分にはできないことについて、アンドロマケーが魔法をかけたせいであるとして非難し、ネオプトレモスが不在の間に、父親メネラーオスの手でアンドロマケーを殺そうとした。しかしメネラーオスは殺害に失敗し、そのためヘルミオネーはネオプトレモスのもとから逃亡せざるを得なくなった。
ネオプトレモスがまだ戻る前にかつての婚約者オレステースが現われ、ヘルミオネーをエーペイロスから連れ去った。オレステースはネオプトレモスと戦い、ネオプトレモスはデルポイで死んだ。
ヘルミオネーはオレステースの妻となり、嗣子を生んだ。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 11:05
アレキサンドロスと母、アリストテレスとの関係については、この方の記事が詳しいです。
オルフェウス教って、聞いたことはあるが・・・
http://homepage2.nifty.com/sukecial/rekishi/alexander2.htm

wikipedia『オルペウス教』より、

「オルペウス教(Orphism、Orphicism)は、古代ギリシャ世界における密儀教。

冥界(ハーデース)を往還した伝説的な詩人オルペウスを開祖と見なしている。 また、冬ごとに冥界に降り、春になると地上に戻るペルセポネー、同じく冥界を往還したディオニューソスもしくはバッコスも崇拝された。 その歴史的起源は紀元前6世紀、または、少なくとも紀元前5世紀にまでさかのぼり得るかもしれない。
エレウシスの秘儀と同じく、 オルペウス教は来世における優位を約束した。

一般的な古代ギリシャ宗教と比較して、オルペウス教の特徴とされる点は以下の通りである。

人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。

「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。

生前に犯した特定の罪に対し、死後の罰則を警告した点。

教義が、神と人類の起源に関する神聖な書物に基づいている点。

オルペウス教の教義および儀礼には、 ピュタゴラス教団のものとの類似点が見られる。 しかし、一方がもう一方にどれほどの影響を与えたかを断言するには、史料はいまだ少ない。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 12:00
ひきつづきwikipedia『オルペウス』より、

「トリオイ(テュリ、Thurii)、ヒッポニウム(現在のヴィボ・ヴァレンツィア)、テッサリアおよびクレタ島の墳墓から発見された黄金版(最古のものは紀元前4世紀)には、以下のような死者への教えが記されている。

冥界に降りたとき、レテの水(忘却)ではなく、ムネーモシュネーの泉の水 (記憶)を飲むように気をつけなくてはならない。そして、番人に次のように告げなくてはならない。

「私は大地と星空の息子です。喉が渇いたので、ムネーモシュネーの泉から何か飲むものを私にください。」

さらに、他の黄金版にはこう書かれている。

さあ、今や貴方は死んだ。そして、三度祝福される今日、生誕した。ペルセポネーに告げよ。まさしくバックス自らが、あなたを救済したのだ、と。」

wikipedia『ディオニューソス』より、

「ディオニューソス(Dionȳsos)はギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神である。
この名は「若いゼウス」の意味(ゼウスまたはディオスは本来ギリシア語で「神」を意味する)。
オリュンポス十二神の一柱に数えられることもある。
別名にバッコス( Bakkhos)があり、ローマ神話ではバックス(Bacchus)と呼ばれる。

ゼウスとテーバイの王女セメレーの子。ヘーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎み、彼女をそそのかして、雷電を持つ神本来の姿のゼウスと会わせ、その光輝で焼死させてしまう。なおもヘーラーの怒りは収まらず、まだ胎児だったディオニューソスにも矛先が向けられる。ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニューソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。

生まれてすぐヘーラーに追われる身となったディオニューソスは、ギリシアやエジプト、シリアなど、地上で長い間逃亡生活を送り、その間にブドウ栽培などを身につけてこれを伝え、民衆の支持を得る。また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 12:35
wikipedia『エレウシス』より、

「デメテルの祭儀はエレウシスの祭儀、またはエレウシスの秘儀と呼ばれ、古典古代時代最もよく知られた秘儀のひとつであり、しばしば単に「秘儀」として言及されることもある。エレウシスの秘儀は紀元前1700年頃ミケーネ文明の時代に始まったと言われている。マーティン・P・ニールソンはこの秘儀が「人を現世を超えて神性へと到らせ、業の贖いを保証し、その人を神と成し、その人の不死を確かなものとなす」事を意図されていたと述べている。
その内容を語ることは許されなかったため、断片的な情報のみが伝えられている。参加者の出身地を問わないこと(アリストパネスの断片による)、娘ペルセポネーを探すデーメーテールの放浪およびペルセポネーの黄泉からの帰還の演劇的再現が一連の秘儀の中核をなしていたであろうことが推定されている。秘儀への参加者には事前に身を浄めることが要求され、その秘儀は神の永遠なる浄福を直接見ることといわれた。
キリスト教が広まり、ローマ皇帝テオドシウス1世により多神教的異教の祭儀が禁止されると、エレウシスの祭儀も絶えた。ドイツの哲学者フリードリヒ・シェリングは、その著書の中で、前哲学的思惟の形態としてのエレウシスの秘儀をしばしば論じている。」

このあたりにこだわるのは、キリスト教がそれらを隠蔽する目的で作られたのだと思っているからです。
Posted by オクト at 2014年03月21日 12:48
アレクサンドロス大王の東方遠征の目的について、前に紹介した方の記事にほぼ同意できるので、「最果てのアレキサンドリア エスカテ」にそろそろ入って行こうかと思います。

位置関係も理解しやすいです
http://homepage2.nifty.com/sukecial/rekishi/alexander1.htm

といっても、この方も失われた十支族との関係について考察されているようですので・・・
http://homepage2.nifty.com/sukecial/rekishi/alexander3.htm

ただ、4,5,6,7については、まだ未完成なのか、公開されてないだけなのか、少し気になります。。。

ソクラテスの弟子がプラトンで、そのまた弟子がアリストテレス・・・いろんなところでネックになってきますね・・・
Posted by オクト at 2014年03月21日 22:28
wikipedia『ホジェンド』より、

「ホジェンドータジキスタン共和国ソグド州の州都。トルキスタン支脈とモゴルタウ山脈の間のフェルガナ峡谷への入り口に位置しシルダリヤ川が流れる。タジク語では、フジャンド(Khujand)。ソビエト時代は、レニナバード(Leninabad )と呼ばれた。1996年の人口は18万人。

ホジェンドはイスラム神学のエリートであるホージャの領地である。その規律と互助は、ホジェンド出身者が1980年代に至るまで権力を維持することを助けた。

紀元前6世紀、古代ペルシア人の城砦が築かれ、古代ギリシア人は、これをキロポリ、又はキレスハタと呼んだ(古代ギリシア語で「果て」「最後の」の意味)。

紀元前329年、アレクサンドロス3世がギリシア人の入植地を建設、これをアレクサンドリア・エスハテ(最果てのアレクサンドリア)と呼び、シルダリア川北方のスキタイへの砦とした。

その後はペルシアの版図に組み込まれる時代が続き、8世紀にアラブの領地となる。ホジェンドと呼ばれるようになるのはこの頃からである。
10世紀には中央アジアでも有数の都市となった。
13世紀にはホラズム・シャー朝の将軍ティムール・メリクがホジェンドでモンゴル帝国を迎え撃った。
14世紀にティムール朝の支配を受ける。
その後、ブハラ・ハン国の時代を経て、1866年、ロシアに領有される。1936年、レニナバードに改称され、1991年、ホジェンドの名に戻った。」
Posted by オクト at 2014年03月21日 22:53
アレキサンドロスの軌跡を追っているのですが、それがタリバン支配地域と重なるのは・・・分けて考えていたけど、なぜかそれこそが考察の対象なんだろうかと思えてきたり・・・

もっとも神に近い場所には、サタンが居る・・・

アルカイダとタリバン・・・(これは・・・易断のようなものなのだろうか・・・)


wikipedia『アフガニスタン』より、

「アフガニスタン・イスラム共和国、通称アフガニスタンは、中東・南アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。
パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。

紀元前6世紀、イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール, ラシュカルガー, クエッタ)、バクトリア(バルフ), サッタギディア(ガズニー), ガンダーラ(カーブル, ジャラーラーバード, ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。
カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。
紀元前5世紀頃、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。この民族が10世紀頃までにパシュトゥーン人を形成した。

紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した」

Posted by オクト at 2014年03月22日 23:30
ひきつづきwikipedia『アフガニスタン』より、

「紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配。

紀元前130年頃にはメナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。サカ語は後のパシュトー語に強い影響を与えた。

紀元前126年頃にシルクロードを旅した張騫により、シルクロード交易が既に行われていたことが知られている。

紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。

1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃までバクト商人がシルクロード交易を掌握する。

3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。

5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。
576年頃、突厥と東ローマ帝国とが対サーサーン朝で同盟。

580年頃の突厥内戦で東西に分裂。
第一次ペルソ・テュルク戦争(588年 - 589年)でサーサーン朝を挟撃した。
第二次ペルソ・テュルク戦争(619年)、第三次ペルソ・テュルク戦争(627年)
イスラーム教徒のペルシア征服(633年 - 644年)

8世紀初頭、イスラム帝国・アッバース朝のイスラム教徒軍がハザール・ソグディアナ・トランスオクシアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争、トランスオクシアナ征服)、その支配下へ入る。

751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。

ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。

9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。」
Posted by オクト at 2014年03月22日 23:37
アフガニスタンの歴史、これ以降はついていけないので、20世紀に飛びます。

wikipedia『アフガニスタン』より、

「1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。
1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。」

1989年とは、どういう年なんだ・・・

あと、「サカ族」と「ハザール」が出てきますね・・・
Posted by オクト at 2014年03月22日 23:58
wikipedia『サカ』より、

「サカ(Saka)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。また、中国の史書では塞(さい)と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある。

アケメネス朝の『ベヒストゥン碑文』ではサカ、古代ギリシアの歴史書ではサカイと記された民族は、古代ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族のペルシア側の呼び名であると、ヘロドトスは言う。

この民族はアケメネス朝の支配を受け、ペルシア戦争に参加するなど、アケメネス朝では強力な部隊として活躍した。また、ストラボン『地理誌』によると、サカと呼ばれる遊牧民のうち、特に有名なのがヤクサルテス川(シル川)のかなたからやって来てギリシア人からバクトリアを奪ったアシイ、パシアニ、トカリ、サカラウリであると記す。

この同じ事件を古代中国でも記しており、匈奴に撃退され、パミールを越えてアム川北に移動し、大夏国を征服した月氏の西遷、あるいは塞族の南遷がそうであるとされるが、塞族の存在については否定的な意見もあるため、慎重的な見方をしなければならない。

11世紀に作られた「シャー・ナーメ」の主人公の一人ロスタムはサカ人だったという説がある。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 00:08
「紀元前5世紀頃、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。この民族が10世紀頃までにパシュトゥーン人を形成した。」・・・

wikipedia『パシュトゥーン人』より、

「パシュトゥーン人は、アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族。パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(アフガーン (Afghān))など様々な名で知られ、アフガニスタン(アフガーニスターン (Afghānistān))は、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味。

北パキスタンのペシャーワルと南アフガニスタンのカンダハールは、パシュトゥーン人の伝統的な主要な中心都市である。 パシュトゥーン人は、パシュトー語またはパフトー語を話し、ダリー語とともにアフガニスタンの公用語の一つである。

紀元前2世紀後半に北方からイラン高原の東部に侵入したと伝えられており、もともとの居住地は、カンダハールの東にあるクーヒ・スライマーン山脈の近くにあったと伝承されている。

10世紀頃にイスラム教を受け入れ、のちにイランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国の支配を受けた。その一派は18世紀初頭にサファヴィー朝に対して反乱を起こし、1722年に首都イスファハーンを陥落させるが、アフシャール朝のナーディル・シャーに敗れた。

ナーディル・シャーの死後、彼に従っていたドゥッラーニー族のパシュトゥーン人アフマド・シャー・アブダーリーはカンダハールでアフシャール朝から自立し、アフガニスタン国家の起源となるドゥッラーニー朝を建国する。
ドゥッラーニー族が支配するアフガニスタンでは、パシュトゥーン人部族の有力者(貴族)が国家のあらゆる側面で力を持ち、国家を支配してきた。

民族の居住地域が大きく分散していないにもかかわらず、2つの国家に分割されているのは、19世紀当時にアフガン戦争によってこの地域を支配下に置いていたイギリスが、保護国アフガニスタンと植民地インドとの境界を民族分布を考慮せずに引いたためである。
1893年の国境線(デュアランド・ライン)の画定に伴い、パシュトゥーン人の居住地域は、アフガニスタンと現在のパキスタン北西部に分かれることとなった。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 10:13
「1978年の社会主義クーデターとそれに続くアフガニスタン内戦はパシュトゥーン人の支配力を減少させたが、依然として同国最大の民族集団であり、20世紀末期に権力を握ったターリバーンはパシュトゥーン人を支持基盤としていた。

ターリバーン政権崩壊後のアフガニスタンの指導者となったハーミド・カルザイもまたパシュトゥーン人である。

現在は、アフガニスタンの中部・南部およびパキスタン北西部のカイバル・パクトゥンクワ州・辺境部族自治区に各1千数百万人が居住し、アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の11%を占める。


インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュトー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてきた。

強固な部族の紐帯を維持しており、パシュトゥーンワリと呼ばれる慣習法を持ち、男子は誇りを重んずる。

部族の中では、カンダハール、ヘラート、ファラー州に居住するドゥッラーニー部族連合とガズニー州等に居住するギルザイ部族連合の2大部族が有力である。

現在、パシュトゥーン人は、パキスタン人口の11%を占めている。
パシュトゥーン人は、ムハンマド・アイユーブ・ハーン大統領、グラーム・イスハーク・ハーン大統領等、多くの政治家を輩出しており、ビジネス界にも進出している。90年代初めのデータによれば、軍将校の20%、警察幹部の16%、高級官僚の10%以上がパシュトゥーン人だった。

パシュトゥーン人政党としては、人民国家党(アバミ・ネイシェネル・パルタ)が存在する。同党やカイバル・パクトゥンクワ州の一部の活動家の中には、統一パシュトゥーン人州(パシュトゥーンフバ・スバ)の創設を主張する者もいるが、多くのパシュトゥーン人は、補助金や特権の喪失を恐れて、これに賛同していない。」ーwikipedia『パシュトゥーン人』
Posted by オクト at 2014年03月23日 10:19
wikipedia『アフガニスタン』より、

「先史時代

紀元前10万年、旧石器の文化があった。
紀元前7000年、新石器の文化があった。

紀元前3000年〜紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。

アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。

紀元前2000年〜紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

紀元前12世紀、リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。」


wikipedia『十王戦争』より、

「十王戦争とは、『リグ・ヴェーダ』に描かれる時代の古代インドにおいて、インド・アーリア人を中心とした諸部族の間で勃発した戦争である。

戦争の様子は、『リグ・ヴェーダ』に描写されている(7.18、7.33、7.83.4-8)。
この戦争は、非アーリア人の諸部族を巻き込んだ、インド・アーリア人の内部抗争の性格が強い。
優秀な司祭長ヴィシュヴァーミトラを軍師としたプール族は、パンジャーブの諸部族と連合し、勢力を伸ばし始めていたトリツ族・バラタ族に対し、戦いを挑んだのである。
しかし、ヴァシシュタを司祭長とするスダース王に率いられたトリツ族・バラタ族は、プール族を中心とした十王の軍に勝利し、インド・アーリア人の諸部族の中での覇権を確立した。

この戦争の記録は、『リグ・ヴェーダ』に述べられていること以外の史料が無く、神話的であるが、実際の歴史的事件であったとする学説が有力である。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 10:32
wikipedia『ヴィシュヴァーミトラ』より、

「ヴィシュヴァーミトラは、インド神話に登場する聖者(リシ)である。ヴェーダ詩人の1人で、『リグ・ヴェーダ』第3巻はヴィシュヴァーミトラの作と伝えられる。

もともとはクシャトリヤの出身で、カニヤクブジャの王ガーディの子として生まれた。しかし聖仙ヴァシシュタと戦って敗北し、武人の無力さを嘆いて聖仙となることを志し、苦行の末にバラモンになったとされる。

叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』にはヴィシュヴァーミトラとヴァシシュタが反目し続けたことが述べられているが、この物語はクシャトリヤとバラモンの対立を物語るとともに、バラモンのクシャトリヤに対する優位性を説くものであるとされる。

なお、カーリダーサの劇で有名な女性シャクンタラーはヴィシュヴァーミトラの娘であるという。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 10:38
神仙組を知った5年前は、人生の総決算のようなつもりで3月中に断捨離のようなことをしました。
三月までの成果で、四月からの霊界が決まる感じで、わたしの配属される霊界によって、先祖の霊界が決まってくるという感じがしていました。


Aファイルと読んでいるものを三段階に分けて作成し、A氏に送ったのでした。
A氏はまったくの善意の第三者なのだけど、知人を介しての縁で。

そして4月に半田氏のヌース理論を知り、5月にシリウス革命を入手し、6月に神仙組を知り、ヘンリー・クライスト夢蛇鬼閣下とコメントにてやりとりし、7月にメールでやり取りを始め、8月に天体現象の奇跡が閣下の予言通りに起こり・・・

今年の月々の来方を見ていると、5年前と非常によく似ている。
4月から関わる霊界が、このタリバン支配地域と呼ばれるところなのだろうと、今、感じます。

70年か80年代のころ、テレビでアラファト議長をよく見ていました。
なぜかその頃は中東情勢がよく放送されていたのです。
アラファト議長といえばすぐに顔が思い出せるくらい、インタビューとかも観ていたし。

「なぜ日本は中東問題に目を向けないのだ」という言葉が印象に残っています。
なぜ日本が向けなければいけないのか?パレスチナ問題と日本が石油以上の何の関りがあるのか?

何の関りがあるのか・・・
Posted by オクト at 2014年03月23日 11:24
あの頃は、石油に依存している時代だった・・・
それでオペックが決める石油価格に右往左往される国際情勢だった。
そこからの脱却のための原子力発電だったか。

それが福島で・・・これは何かの因縁なんだろうか?

1989年、昭和から平成に移行する年、アフガニスタンにタリバン政権が登場する・・・そして今、ウクライナ・・・


アレキサンドロスの事蹟よりもアリストテレスの思惑に興味があるが、アリストテレスとプラトンは違う立場なのか、相補関係なのか・・・

wikipedia『アリストテレス』より、

「紀元前367年、17-18歳にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門

紀元前347年にプラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。

紀元前347年、37歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅となった。アリストテレスは弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。

教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。

アレクサンドロス大王の死後、アテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、61歳頃、母方の故郷であるカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年、62歳で死去している。」


プラトンのアカデメイアにアリストテレスのリュケイオン・・・
Posted by オクト at 2014年03月23日 11:56
wikipedia『リュケイオン』より、

「紀元前335年に、アリストテレス(のパトロンであったアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世))によって、この地に彼らの学園が開設されたので、(プラトンのアカデメイアの場合と同じように)この地名がそのまま彼らの学園名として継承された。」

wikipedia『逍遥学派』より、

「古典古代末期の哲学者たちでアリストテレスに注釈をつけたのは、6世紀のシリアのシンプリキオス(Simplicius of Cilicia)、ボエティウスなどである。それ以降、アリストテレスの著作は西洋ではほとんど失われたが、東洋ではなお保持されて、初期のイスラーム哲学に取り込まれた。イスラーム哲学の逍遙学派の哲学者には、キンディー、ファーラービー、イブン・スィーナー、イブン・ルシュドらがいる。
12世紀になると、アリストテレスの著作がイスラーム経由でラテン語に翻訳され、トマス・アクィナスなどによりスコラ学が興り、イブン・ルシュドの注釈、イブン・スィーナーの『治癒の書』とともにアリストテレスの著作が取り入れられた。」


wikipedia『イスラム哲学』より、

「西洋哲学と比して宗教(イスラム教)と密接に関わっているのが特徴で神秘主義的な要素が強い。起源は、イスラム世界のヨーロッパ方面の拡大と共にイスラム世界にも移入されたプラトンやアリストテレスの古代ギリシア哲学であった。唯一神アッラーフを信奉するイスラムの教えにすれば、これは異文化の考え方であり、イスラム神学(カラーム)としばしば対立したりもした。

5世紀から10世紀にかけて、シリアのキリスト教徒(ネストリウス派のキリスト教徒)はアリストテレスの文献、ポリュフュリオス、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの著作をギリシア語からシリア語に翻訳した。これは主にエデッサのネストリウス派またレサイナとカルキスの単性論派にになわれた」


・・・イスラム哲学の記事を読むと、アリストテレスの影響大だということは分かる・・・

薔薇の名前で、アリストテレスの詩篇の部分が隠されていたとかそんなだったろうか?
あの小説、殆どイメージだけで、実際、何が描かれているのか知らない。
ただ、本当に知りたいことは大体隠されているのだということ、それを知りたいから、人は書物を求めるのだということ、書物への欲求が満たされれば、それを燃やしたくなるのだということ・・・
Posted by オクト at 2014年03月23日 13:02
ひきつづきwikipedia『イスラム哲学』より、

「イブン・トファイルの後を受けて登場するのが、アヴェロエスことイブン・ルシュドである。

彼の名は、イスラム屈指の大哲学者として西洋哲学史においてはイブン・スィーナーと並んで、必出の思想家である。イブン・ルシュドは1126年に、コルドバで生まれ、法学・哲学・医学で名をとどろかしていた。彼は、イブン・トファイルが引退したのを受け、王朝の主侍医として仕えた。カリフは、イブン・ルシュドの哲学に対する知識の優秀さを認め、カリフの保護の下、アリストテレスを註釈するように言われた。このアリストテレスの注釈の業績は非常に優れたものとして、後の西洋哲学に多大な影響を与えた。

イブン・ルシュドは、イブン・スィーナーのネオプラトニズム的なアリストテレスを批判し、あくまで純粋な姿のアリストテレスの哲学を見つめようと努めた。
この姿勢は後の世にイブン・ルシュドは、「アリストテレスを神格化した人物」とさえ評されるほどでもあった。無論、アリストテレスの注釈のみならず、彼の独自の思想は、多くが後の西洋哲学史に論争を惹き起こした宇宙無始論や、神の個物知の問題、知性単一説、二重真理説などか有名である。

項目の性質上いずれも詳細は割愛するが、西洋哲学者で後の世で彼の反駁者でもあるトマス・アクィナスまで持ち越されたこの宇宙無始論は、宇宙創造の永遠性は認めるものの、時間的な始まりを否定したものである。この思想は神学上では、矛盾した考えであるが、イブン・ルシュドによると神学者たちは世界の創造をある一点でのみ考えているが、そこが誤謬であり、世界は常に創造されているものであると、イブン・ルシュドは宇宙(世界)が絶え間なく変動する中に一つの本源的な秩序(つまり真理)を見ていた。これが、イブン・ルシュドの思想のバックボーンにもなっている。

これにより、独特の知性論、即ち知性単一説を説く。すなわち、知性とは個々人により別の知性を持ち合わせているのではなく、あるのはただ一つ同一で普遍的知性というものであり、これが個々人の間で顕現化したものである。という考え方である。個々人に対する顕現の差はあるが、この知性が向かっていくものは一であるという。

人は、個々人の知性が完全に最高度の知性(イスラーム哲学用語で言えば「能動的知性」)と合一したとき、現世において最高の幸福が訪れるという。イブン・ルシュドのこの独特な思想は、アリストテレスの解釈によるものとされているが、ネオプラトニズム的な流出論もみて取れる。」


プラトン、ネオプラトン、アリストテレスの違いは分からないが、知性の合一というのは信じてる。だからこそ、この活動をしているんだ。

個々人の知性が現代人の知性、能動的知性が霊界だ。

Posted by オクト at 2014年03月23日 13:16
それでは、あのハザールへ。

wikipedia『ハザール』より、

「ハザールは謎の多い遊牧民であり、起源はもとより系統もはっきりしないが、おそらくテュルク系と考えられている。
中国の歴史書である『旧唐書』,『新唐書』に出てくる波斯(ペルシア)国(サーサーン朝)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている。

8世紀 - 9世紀の年代記作者テオファネスによれば、ハザールの故郷はベルシリア(アルメニア史料のバルシリ)であるという。

10世紀のペルシア語の地理書『世界境域誌』に書かれているハザール人たちの諸都市の項目(首都イティル(アーティル)の条)によれば、ハザールのハーカーンは「アンサーの子孫に属す」と書かれており、この「アンサー」とは突厥王家である阿史那氏の訛音ではないかとも言われている。

ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸およびカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていた。
626年、東ローマ帝国のヘラクレイオス1世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュルク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻め(ビザンチン・サーサーン戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)、大きな戦果をあげた。

7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カガン国を形成し、独立を果たす。

一方、南ロシアのステップでは、オノグル・ブルガールの部族連合「古き大ブルガリア」が成立した(635年)。
アラブ・ハザール戦争(642年 - 799年)が始まる。

ハザールが西進すると古き大ブルガリアは崩壊し(653年)、一部はハザールにとりこまれ(黒ブルガール)、残りは各地に散らばってヴォルガ・ブルガール,ドナウ・ブルガールを形成した。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 13:36
ひきつづきwikipedia『ハザール』より、

「以前、ハザールはカフカスをめぐってサーサーン朝ペルシアと対立していたが、サーサーン朝が新興のイスラーム共同体(ウンマ)によって滅ぼされると(651年)、代わってイスラーム共同体とカフカスをめぐって争うようになった。

イスラーム共同体は654年に南カフカスのアルメニア,グルジア,アルバニアを占領し、カフカス山脈を越えてハザールの領有する北カフカスに侵入、カスピ海沿岸の要塞デルベントを陥落させ、ハザールの中心都市ベレンジェルに迫った。

ハザールはベレンジェルでイスラーム軍を追い返したが、しばらく一進一退の攻防が続いた。
イスラーム共同体で内紛が起こったため、一時はその侵攻が止んだが、661年にウマイヤ朝が成立すると、再びハザールに攻撃をかけてきた。

735年、ウマイヤ朝のカリフであるヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクは従兄弟のマルワーン・イブン・ムハンマド(のちのマルワーン2世)を派遣し、麾下のウマイヤ朝軍1万5千が逆にヴォルガ河畔まで進撃した。

これに窮したカガンは司令官マルワーンに和睦を申し入れ、イスラーム改宗を約束した。
この遠征を受けてハザールはウマイヤ朝カリフの宗主権を一時的に認めさせられるが、属国にはならなかった。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 13:40
「一方、東ローマ帝国とは共通の敵がペルシア(サーサーン朝)とアラブ(イスラーム)と一緒であったため、利害が一致していたが、クリミア半島の領有に関しては争いが生じた。

西進を続けるハザールはまずボスポロス(ケルチ海峡)を占領すると、クリミア半島南端のヘルソン(ケルソネソス)に迫った。

東ローマ帝国にとっては古来のギリシア植民都市であったヘルソンを黒海における橋頭堡として死守すべきであったため、皇帝ユスティニアノス2世は自治都市であったヘルソンに遠征軍を差し向けた。しかし遠征は失敗に終わり、ヘルソンはハザールに占領されてしまうが(705年)、まもなくしてヘルソンは帝国の手に戻り、クリミア南部は帝国領、それ以外はハザール領ということで、両国の友好関係が約200年にわたって続いた。

比較的友好な関係にあったハザールと東ローマ帝国は婚戚関係も結んでいる。ユスティニアノス2世は軍人のレオンティオスによって帝位を奪われ、クリミア半島のヘルソンに逃れ、ハザール・カガン国に亡命した。
その際、カガンの姉妹と結婚し、ユスティニアヌス1世の妃にちなんでテオドラと改名させた。

また、イコノクラスム最盛期の皇帝コンスタンティノス5世の妻もビハール・カガンの娘イレーネーであり、その子レオーン4世は「ハザロス(ハザール人)」と仇名された。その他、帝国で活躍した官吏や知識人のなかにもハザール出身者が少なくなかった。」ーwikipedia『ハザール』
Posted by オクト at 2014年03月23日 13:45
カガンについては興味深いのですが、

wikipedia『ハーン』より、

「カガン( 可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン→ハーンとなった。


wikipedia『チンギス統原理』より、

「チンギス統原理Chingisid principle)とは、主に14世紀以降の中央ユーラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会において広くみられた王権の正統性に関する思想で、民衆の支配者たるカアン(ハーン)の地位は、ボルジギン氏であるチンギス・カンとその男系子孫によってのみ継承されるべきとする血統原理のことである。
そもそも中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか君主になることができないとする血統原理を有することが古代の匈奴の頃から一般的であって、チンギス・カンの建てたモンゴル帝国もその例外ではなかった。」

wikipedia『ハーン』より、

「東アジアでは、17世紀初頭に女真のヌルハチが満州(女真)のハンに即位して後金を建てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジのときモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満州だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。
こうしてモンゴルのハーンとなった満州のハーンは、自らを元の大ハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を清と改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、爵位の一種としても使われた。」
Posted by オクト at 2014年03月23日 22:55
マレーシア航空機がどこに行ったのか、タリバン支配地域に入ったのではないかという説もあるらしく、奇妙なことが起こるようになりました。
地球の上空の国際宇宙ステーションの若田さんから送られてくる画像なんか見てたら、一日に何周もしているのだから、何か見えるのじゃないかと思ったりするけど、見つかったとしても、何が起きたのかは分からないのでしょうね。

調べていて、夕方、福岡の直方市出身の香田証生さんの記事とか出てきました。
ユーチューブにはまだ画像があるのかな。

彼についてもなぜイラクに入ったのか、その理由がよく分からないままですね。
日本では報道されてないけど、ル・モンド紙には「みんな嘘ばかりついてる」と言ってイラクに向かったとかいう記事もありましたが、真偽のほどはわかりません。

考察でタリバン支配地域に入ろうとするわたしも、彼とおなじ無防備なのかもしれません。
「みんな嘘ばかり言ってる」とは、わたしの持論でもあるし・・・

ハーンの称号は、日本の天皇にも関係してると思っているのですが、そのあたりの勘が全く働かない。
日本の歴史を知るためには、近隣諸国の歴史書を原文で読めるほどでなければ、専門家のいうことを信じるしかないので。

5年まえ、とてもできないと思ったことも、今は目途がついている気がします。
アジア史、道のりは遠いけど、来年度に向けて精進したいと思います。
Posted by オクト at 2014年03月23日 23:56
安重根がニュースに出てるのは、26日が刑死した日だからなんですね。
中韓の東方には日本くらいしかないのだから、まるで中韓の敵のように歴史認識歴史認識と言われてますが・・・

それでも伊藤博文を首相在籍中に殺されているのですから、安氏は歴史的にかなりの重要人物であるのでしょう。wikipediaで記事を読みましたが、あまり彼個人についての情報がなくて、印象に残ったのは、

「カトリック教会のパリ外国宣教会から派遣されていたジョゼフ・ウィレム(Nicolas Joseph Marie Wilhelm, 빌렘, 韓国名: 洪錫九)司祭に匿われた際に、洗礼を受けて17歳でキリスト教に改宗し、洗礼名を「トマス」とした。

彼は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書いたという。

留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。
私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという。

大韓帝国のカトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。」

という信仰における逸話と、「一日不讀書口中生荊棘」安重根が獄中で書いた遺墨の一つ・・・の書と言葉。

一日不讀書口中生荊棘・・・一日でも書を読まなければ口中に荊や棘が生ずる・・・

この書を聖書だとする解釈もあるようです。
なるほどと思いました。
聖書を信じている人間に神道を強要したのですから。したのですよね?

安重根ー1910年3月26日没・・・もう104年経つのですね。
Posted by オクト at 2014年03月24日 17:44
wikipedia『安重根』より、

「初代韓国統監を務めた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を1909年10月26日に満州のロシア権益のハルビン駅構内で襲撃して殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、死刑となった。

伊藤の死により韓国併合の流れは加速され、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もあるが、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動にもつながる抗日義士であったとして安重根は英雄視されている。」

wikipedia『関東都督府』より、

「日露戦争後、ロシアより譲り受けた関東州と長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)を防衛するため、1905年9月26日に公布された「関東総督府勤務令」により天皇直属の機関である関東総督府が設置された。

本部は遼陽に置かれた。関東総督は満州北部に依然として勢力を保持するロシアの脅威に備えるため排他的な軍政を断行したが、市場の門戸開放を主張するイギリスやアメリカ合衆国の対日感情を悪化させる結果を招き、第1次西園寺内閣の外務大臣の加藤高明が辞任する事態となった。

外相を引き継いだ西園寺公望や文治派の巨頭である伊藤博文(当時は朝鮮統監)は関東総督府の軍政を民政に移行するため動き、1906年5月22日より伊藤主導で元老や内閣、軍上層部を集めて開催された「満州問題に関する協議会」において伊藤ら文治派の主張が児玉源太郎ら武断派の抵抗を退け、軍政から民政への移行の方針が決定された。

同年9月1日、関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組された関東都督府になった。
関東都督府は関東州の統治と防備を受け持ったが、天皇直属であった関東総督府時代とは異なり、政務や軍事の各権能について外務大臣・陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監らの監督を受けることとされた。また、南満州鉄道株式会社(満鉄)の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。

これ以降、満州統治は関東都督府と領事館(外務省)と満鉄によって担われることとなったが、それぞれが権限を主張し、行政の一元化を妨げることとなる。」
Posted by オクト at 2014年03月24日 17:55
なりゆきでプラトンについても検索することになり、なにを調べているのか分からなくなっていく・・・検索はグルグル回っているのだけど。

wikipedia『聖杯伝説』より、

バロック時代のフランスの画家ニコラ・プッサンの代表作『アルカディアの牧人たち』では、墓石にラテン語で"Et In Arcadia Ego"(我はアルカディアにもある)と書かれているのを牧人たちが覗き込んで想いにふける様子を描いている。"Et In Arcadia Ego"(我はアルカディアにもある)は、並び替えると"I Tego Arcana Dei"(立ち去れ!私は神の秘密を隠した!)となるとして、リンカーンらは、これをイエス・キリストの血脈に関する秘密と解釈した。 リチャード・アンドルーズとポール・シェレンバーガーは多くの単語がレンヌ=ル=シャトー地域の目印になっていて、彼らはその目印の場所を特定することができたと述べた。例えば"LA CROIX"はアレ・レ・バン北部で交差する鉄道である。これらの場所を羊皮紙文書の通りに訪ねると、正方形を横切る形になる。これを受け、問題の絵はイエスの墓の位置を示しているとして、南フランスの山中『Rennes-le-Chateau(レンヌ=ル=シャトー)』にその位置を推定した。 (→キリストの墓)


テンプル騎士団がスコットランドに逃れて100年後に、テンプル騎士団の子孫『ヘンリー・シンクレア』が大西洋を西に向かって謎の航海をしたという記録がある。サン・ベルナールの調査によるとテンプル騎士団は財産をカナダの東海岸(大西洋側)に位置するノバスコシアなどに隠したとされ、一部はアメリカにも渡ったともされている。また、『聖杯はヘラクレスの柱の向こうに眠っている』という記述もあり、カナダ説を裏付けているとされるが、『ヘラクレスの柱』の位置問題はアトランティスの研究過程でも問題となっている。


トレヴァ・レヴンズクロフトは1962年に20年の研究の末に、スコットランドのミドロシアン州ロズリンにある『ロズリン・チャペル』の螺旋柱の中にあると発表した。しかし柱という柱、建物内のすべてが金属探知機で調べられたが、結果は得られなかった。つまり、その情報は誤っていたか、『ロズリン・チャペル』に一時的に保管され、その後に『ロズリン・チャペル』以外の場所に移動された可能性もある


イングランド、スタンフォードシアにあるリッチフィールド家の庭園にあった記念石碑にも、その鍵があるという。ニコラ・プッサンの『アルカディアの牧人たち』をもとにした鏡像である。また、この石碑には
D.O.V.O.S.V.A.V.V.M"と、刻まれている。
イギリスのブレッチリー・パークの政府暗号学校の元解読班員であり、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に開発した暗号機『エニグマ』を破った男、オリヴァー・ローンが、2004年この暗号解読を試み、「Jesus (As Deity) Defy」(イエスの神性を受け入れない)という異端の立場を示したものと発表した」


たかがコップ一個にこんなに妄想拡がるものだと思うけど、三種の神器もそうだから・・・

プラトンを知るにはアトランティスを知らなくてはならない。それがいろんなものを巻き込んでくるのだ。。。
Posted by オクト at 2014年03月28日 16:23
wikipedia『ヘラクレスの柱』

「ヘラクレスに課せられた12の功業の1つに、スペインのゲーリュオーンの牛をエウリュステウス王のところに連れ帰る仕事があった。ヘスペリデスの島へ向かう途中、アトラス山を一度横断しなければならなかったが、ヘラクレスは山を登る代わりに、近道しようと考えた。それで、かつては巨人だった巨大な山をその怪力で砕くことにした。ヘラクレスは不滅の鎚矛または棍棒(神話によってさまざま)を使って、山を真っ二つにした。その結果、大西洋と地中海がジブラルタル海峡で繋がった。以降、分かれた2つの山をひとまとめにして、ヘラクレスの柱と呼ぶようになった。

プラトンによると、失われた王国アトランティスはヘラクレスの柱の向こうにあったという。」

wikipedia『アルカディア』より、

「アルカディアは、ギリシャのペロポネソス半島にある古代からの地域名で、後世に牧人の楽園として伝承され、理想郷の代名詞となった。名称はギリシア神話に登場するアルカス(アルカディア人の祖)に由来する。

ラテン語の名言である、Et in Arcadia ego とは、「私(死神)はアルカディアにおいてでさえも、存在している」という意味であり、生のはかなさと死の不可避性を説いたメメント・モリの一例である。」
Posted by オクト at 2014年03月28日 16:36
wikipedia『ニコラ・プッサン』より、

「17世紀のフランスを代表する画家であるが、画家としての生涯の大半をローマで過ごした。1624年、29歳の時、プッサンはローマに出ている。 このローマ行きには当時の高名な詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・マリーニ(1569-1625)の助力があった。また、ローマでは教皇ウルバヌス8世の甥にあたるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿(1597-1679)や、その秘書で自由思想家であったカッシアーノ・ダル・ポッツォ(1584-1657)の知己を得た。特にポッツォの思想はプッサンの制作に大きな影響を及ぼした。

アルカディアの牧人たちーこの絵は20世紀末から21世紀初頭にかけて流行したミステリー『ダ・ヴィンチ・コード』のモチーフとなったレンヌ・ル・シャトーを巡る謎にも、アイテムの一つとして登場している。」


ウルバヌス8世・・・
Posted by オクト at 2014年03月28日 16:46
wikipedia『ウルバヌス8世』より、

「彼は、ローマの学院で学んだが、そこはイエズス会によって質の高い教育がほどこされていた。

グレゴリウス15世死後の、マッフェオ・バルベリーニが教皇ウルバヌス8世として選出された教皇選挙会議は混乱をきわめた。枢機卿10人が熱病に倒れ、有力な候補者のひとりボルケーゼ卿は重病の床にあって立候補を断念せざるをえなくなった。さらに、24人いる枢機卿に対し、20枚の用紙しか配られないなど、投票手続きにも不備があった。しかし、最終的には、それまで順調に出世してきたマッフェオしかないという妥協的な雰囲気のなかで、55歳のマッフェオ・バルベリーニが必要な得票数を得て教皇の座についた。1623年8月6日のことである。

サン・ピエトロ大聖堂内の彼の墓の彫像の左肩、彫像の土台、石棺の上にはそれぞれバルベリーニ家の紋章であるミツバチが彫られている。ウルバヌスは親族登用によって自己の勢力拡大を図ったのである。
彼は縁故主義を壮大なスケールで展開し、彼の親族には彼によって莫大な富がもたらされたので、それはあたかも「バルベリーニ王朝」の様相を呈した。

1638年の教皇勅書は、伝道組織に加わった南アメリカ大陸先住民の奴隷化の禁止により、南米でのイエズス会の宣教とそのあり方を保護した。また、同時に中国と日本の宣教師の業務のイエズス会による独占を撤廃し、すべての修道会の宣教師に対し、これらの国々の伝道の道をひらいた。

ウルバヌス8世はガリレオ裁判と縁が深い。ガリレオはパウルス8世(在位:1605年-1621年)によって批判され、ウルバヌス8世の時代になって再び異端者として糾弾された。ガリレオは個人的にはウルバヌスの友人であり、ローマの学院の後輩でもあった。1623年のガリレオの著作『贋金鑑識官』はウルバヌス8世の支援で出版され、同書は教皇に献呈されたものであったにもかかわらず、ガリレオは自説を放棄させられた。ウルバヌスはガリレオに対する裁判とその判決に反対することができなかったのである。


猜疑心の強いウルバヌス8世は、占星術師にローマ在住の枢機卿の死期を占わせるようなことをしている。しかし、巷間では自分の詳細な運勢図が流れていることを知り、天界から悪意を受けないようにするため、ドミニコ会の修道士であったトマーゾ・カンパネッラの力を借りて、間近にせまった月食の悪影響を除去する儀式をおこなった。カンパネッラは、1589年から異端として長いあいだ投獄されていたが、1628年に釈放され、ウルバヌスの前に引き渡されたのである。カンパネッラの儀式はラテラーノ宮殿の教皇の間でおこなわれた。それは、密室の壁に白い絹がかけられ、薬草が焚かれ、太陽と月を意味する2つのランプと十二宮が用意されて占星音楽が奏でられるというものであり、キリスト教の教義からは著しく逸脱した魔術的な儀式であった。」
Posted by オクト at 2014年03月28日 16:57
預言者エリヤ=孔子の鹿島昇説に興味を持っているというか、信じている。

パウロが破戒しようとしたのが、大地母神アスタロテ的な神なんだろうと思っているのだけど、これがアメンと習合しているようだからややこしい。

預言者エリヤは熱烈なアテン信仰とされていて、アメンの預言者集団にひとりで勝ったとされている。

モーセに現れたエホバは砂漠の民の神として突然変異したとどこかで読んだから、松岡正剛氏のこの記事を読んでいて、パストラル・ノマドを調べていて、アルカディアから聖杯へ飛んだ。

「そうだね。キンメリア人を撃破したのがスキタイ王のマドイェスであるということはわかっています。馬を駆り、竈の女神タビディを信奉し、柳の枝を束ねて占う占術師を連れ、エナレエスと呼ばれる生殖能力のない司祭たちを伴っていた。宦官かもしれないし、オカマだったのかもしれない。変わってるよね。
このような特徴は東アジアの遊牧騎馬民族にも大きな影響を与えている。白川静さんが『詩経』と『万葉』に柳の枝が川上から流れてくる呪能を書いているのは、ずっとさかのぼればスキタイからの共鳴だったわけですよ。」
http://blurrier.rssing.com/chan-1511338/latest.php

「舞台はやっぱりウクライナ平原なんだけれど、前3世紀ころ、ここに東方のサルマタイ人が出現して覇権をとるんです。この交代が大きくて、中央アジアのサカ人の一派がイラン高原のほうへ動いていったんだね。これがパルティア人です。で、中央アジアに残ったサカ人のほうは中国から塞族と呼ばれていたのだが、そこへ大月氏が入って勢力を奪っていった。そしてインド亜大陸に動いていった。」
http://blurrier.rssing.com/chan-1511338/latest.php
Posted by オクト at 2014年03月28日 17:34
アテンとアメンて、男性神と女性神てことにはならないのだろうか・・・

アレクサンドロスの東方遠征は、その前にアケメネス朝ペルシアが西征してきてるかららしい・・・

ややこい・・・アタマ痛い・・・

あ、数日前から思っているのだけど、2ちゃん、以前、ま〜クンのブログで遭遇した人と似ている・・・
Posted by オクト at 2014年03月28日 17:57
アリストテレスに考察が遷ってから、半田氏をふたたび見出しているというか・・・

半田氏といえば、閣下とおなじくらいわたしには重要人物というか、神なのだけど、変に騒げないのが立場のある人だからでもあるが、そういう神ではないから。
もっとも昨年一年間、どっぷりシンパ活動をツイッターでしてきた。
ふりかえれば2013年とは、氏自身が預言した年なので、おそらくハーベスト・プログラム通りに進行しているだろうし、峠は越えたと思っている。

霊との出会いは、氏のいう「反転」のようなものと思っているので、わたしの目指すものはヌーソロジーとおなじものになるだろうが、アリストテレスとプラトンの違いというのがネックであるらしいと、氏とのシンクロが示しているのか・・・

氏によると、円を正方形に返還するというのがピタゴラス教団の秘儀らしいので、プラトンの奥の院にはピタゴラスがいるようだ。
Posted by オクト at 2014年03月29日 07:31
wikipedia『ピタゴラス教団』より、

「古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有していた。また原始共産制を敷いており、ティマイオスによると、ピタゴラスは財産を共有することを結社に入る第一の条件にしていた。
この時代の宗教結社に共通することではあるが、結社外に教えを伝えることは禁じられていた。このため、ピタゴラス教団に関する資料は少なく、実態が明らかでない。

古代の証言からは、数学の研究を重んじた派と、宗教儀礼を重んじた派のふたつがあったことが知られている。宗教儀礼を重んじた派の風習として、ソラマメを食べないなどの禁忌があったことが知られている。この派に属していた者として医学者のアルクマイオンが挙げられる。」

wikipedia『ティマイオス』より、

「『ティマイオス』は、古代ギリシアの哲学者プラトンの後期対話篇の1つであり、また、そこに登場する人物の名称。副題は「自然[1]について」。
アトランティス伝説、世界の創造、リゾーマタ(古典的元素)、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。

プラトンは、『ティマイオス』と未完の『クリティアス』、未筆の『ヘルモクラテス』を三部作として構想していたという。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 07:55
wikipedia『ティマイオス』より、

「登場人物
ソクラテス
ティマイオス - ロクリスの哲学者。架空の人物か[2]。
クリティアス - プラトンの曽祖父であり、三十人僭主のクリティアス(4世)の祖父でもあるクリティアス(3世)か。
ヘルモクラテス - シケリア島シュラクサイの政治家、軍人。

年代・場面設定
年代不詳。アテナイにあるクリティアスの家にて。
アテナイを訪れ、クリティアスの家に滞在しているティマイオス、ヘルモクラテスらの元に、ソクラテスが訪れるところから話は始まる。前日、ソクラテスは彼らをもてなしており、今日は代わりに彼らがソクラテスにご馳走してくれる約束があったらしい。
ソクラテスは前日話してくれるよう頼んだ話に言及する。皆で前日に話した国家論についておさらいした後、クリティアスがアトランティス話に軽く言及しつつも、彼らの打ち合わせ通り、順番を譲ってまずはティマイオスが話を始める。

政治体制を論じた『国家』の一部の内容を受ける形で、対話が始まる。
冒頭にクリティアスという人物がアトランティス伝説について語る。
次いで、ティマイオスという人物が宇宙の創造、宇宙は無限か否か、四元素について、人間の身体についてなどを説いてゆく。

アトランティスの伝説については、『ティマイオス』の続編である『クリティアス』でさらに説明が続く(ただし、『クリティアス』は中断している)。
創造者「デミウルゴス」について説明されている。デミウルゴスのギリシア語の原義は工匠、建築家である。

イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスの名を挙げている(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿(エイコーン)である。
「範型」としてのイデアという思想はプラトン中期のイデア論とは異なっているとされる。

地(土)・水・火・風(空気)の4つのリゾーマタ(「根本」の意)が説かれる(後世にいう四元素説)。

それぞれのリゾーマタは正多面体であり、その形状によって運動の性質や他のリゾーマタとの親和性が決まる。たとえば火は正四面体であり、最も軽く、鋭い。水は正二十面体、空気は正八面体である。これに対して土は正六面体であり、運動することが最も遅い。自然の諸物はリゾーマタがまざりあうことによって形成されているとした。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 08:45
wikipedia『ティマイオス』より、

影響

フィロン
アレクサンドリアのフィロンはギリシア思想に由来するロゴスやイデア論の概念をユダヤ教思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンはプラトンの著作とくに『ティマイオス』に影響を受け、「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換え、旧約聖書とプラトン哲学が調和的であると考えた。フィロンはプラトンを「ギリシアのモーセ」と呼んで、プラトンの思想にモーセが影響を与えたと考えた。 フィロンの著作は、初期キリスト教と教父たちの思想、いわゆるアレクサンドリア学派にも大きな影響を与えている。


オリゲネス

オリゲネスは初期キリスト教の神学者、いわゆるギリシア教父でアレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム)の影響を強く受けたものであった。プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。死後異端の疑惑をかけられた。


グノーシス主義

グノーシス主義はヘレニズムの思想的・宗教的シュンクレティズムのなかから生まれた「精神の姿勢」としての世界観的な宗教であるが、悪であるこの世と善である永遠の世界を対立させて考える二元論宗教である。悪の世界すなわちこの世は物質の世界であり、善である超越的世界はプラトーンの概念ではイデアーの世界に当たる。 グノーシス主義は、何故、悪である物質世界が存在するのかを説明するため、『ティマイオス』の創造神話を援用し、愚かで傲慢な下級の神であるデーミウルゴスが不完全な世界を創造した為であるとした。イデアー界に当たる超越的な世界は、アイオーンから構成されるプレーローマ世界というが、人間はプレーローマに起源のある「霊(プネウマ)」をうちに持つ存在であるが故に、グノーシス(智慧)の認識を通じて、永遠の世界へと帰還し救済されるとした。
シモーヌ・ペトルマンによれば、プラトーンの哲学がそもそも二元論で、グノーシス主義に通じた思想である(また「グノーシス主義とは何か」という定義からすると、広義のグノーシス主義となる)。


カルキディウス

カルキディウス(Calcidius 4世紀後半-5世紀初)は『ティマイオス』の一部をラテン語訳し、注釈書を著した。『ティマイオス』はプラトンの著作のうち、中世の西ヨーロッパに知られていた数少ない著作の一つである。


シャルトル学派

12世紀フランスのシャルトル学派の中で『ティマイオス』(カルキディウス訳)が再評価され、注釈書が作られている。
Posted by オクト at 2014年03月29日 08:48
「アレクサンドリアのフィロン(紀元前20/30年? - 紀元後40/45年?)は、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝時期にアレクサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて適用した。ギリシア哲学を援用したフィロンの業績はユダヤ人には受け入れられず、むしろ初期キリスト教徒に受け入れられ、キリスト教思想のルーツの1つとなった。

生涯についてはほとんど知られていないが、アレクサンドリアのユダヤ人共同体(ディアスポラ)の指導グループに属していたらしい。そのことはフィロンがアレクサンドリアのユダヤ人とギリシア人の間で紛争が起こったことに際して、ユダヤ人の代表団の一人として皇帝カリグラへの陳情のため、ローマへ旅行したことからわかっている。」−wikipedia『アレクサンドリアのフィロン』より


wikipedia『オリゲネス』より、

「オリゲネス(Origenes Adamantius, 182年? - 251年)は、古代キリスト教最大の神学者。いわゆるギリシア教父とよばれる神学者群の一人で、アレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。『諸原理について』(De Principiis)など膨大な著作を著したが、死後異端の疑惑をかけられたため、多くの著作が処分された。キリスト教の教義学を初めて確立し、その後の西欧思想史に大きな影響を与えたと評される。


オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム)の影響を強く受けたものであった。プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。

『諸原理について』が現存する代表的著作だが、そこでは神、世界、人間、人間の神への回帰などが論じられている。オリゲネスの思想の特徴として、聖書の記述を字義通りでなく、なんらかの比喩として解釈する比喩的聖書解釈の手法があげられる。

オリゲネスは膨大な著作を残したが、死後300年たった553年に異端の宣告を受けたため、著作の多くが失われた。オリゲネスが異端の疑惑をうけたのは以下のような理由からであった。

人間の救いについての「すべてのものが完全に救われる」という思想が人間の自由意志の問題と矛盾すると考えられたため。

魂が先在するという思想が「人間ははじめから魂と肉体を持つ」という考え方と矛盾すると考えられたため。

三位一体理解において父なる神が子なる神より役割的に上にあるという従属説的理解が問題とされたため。

死後300年を経た6世紀にもなって異端宣告が出されたのは、オリゲネス本人に対するというよりは、彼の追随者を称する者への影響力を考慮したからと考えられる。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 09:17
「ティトゥス・フラウィウス・クレメンス(Titus Flavius Clemens,150年?-215年?)、あるいはアレクサンドリアのクレメンスは2世紀の人物で、初期キリスト教を代表する神学者の一人。エジプトのアレクサンドリアで活躍したため、この名で呼ばれるがエジプト出身ではなく、ギリシアのアテナイの出身と考えられている。ギリシア教父と呼ばれる一群の神学者の一人で、オリゲネスとならんでアレクサンドリア学派の代表的な神学者である。

没年を含めてクレメンスの生涯についてはほとんど知られていない。クレメンス自身によれば、ギリシアを出て諸国を遍歴していてクレメンスはアレクサンドリアでキリスト教の教師パンタイノスに出会い、彼に学んだ。パンタイノスの死後、ディダスカレイオンといわれるキリスト教を教える学校を開いてそこで教えた。カイサレイアのエウセビオスは著書『教会史』の中で「オリゲネスもクレメンスに学んだ」と記している。セプティミウス・セウェルス帝の迫害のさなかにアレクサンドリアを離れ、カッパドキアに逃れたといわれている。

クレメンスの思想の特徴は、ギリシア哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その思想的な遺産をキリスト教へ継承しようとしたことにある。これはプラトンとギリシア思想に精通したクレメンスならではの発想であり、特にロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけ、以降のキリスト教神学の発展に大きな貢献をするものとなった。」−wikipedia『アレクサドリアのクレメンス』
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:10
ティマイオス・・・クリティアス・・・ヘルモクラテス・・・
プラトン三部作・・・未完、未筆・・・

wikipedia『クリティアス』より、

「『クリティアスは、プラトンの後期対話篇の1つであり、『ティマイオス』の続編。未完。副題は「アトランティスの物語」。

『ティマイオス』におけるティマイオスの話が終わった直後から、話が始まる。次にクリティアスが、『ティマイオス』でも触れたアトランティスの話について、詳細を述べていくことになる。が、中断、未完となっている。

作中、クリティアスが話をはじめる前のやり取りの中で、クリティアスの次にはヘルモクラテスにも話をしてもらうことが予告されているので、本篇の続編として、『ヘルモクラテス』という対話篇が予定されていたことが分かる。」


わたしは未完、未筆ではなかったと疑ってるのですが・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:18
wikipedia『ヘルモクラティス』より、

「ヘルモクラテス(紀元前450年頃 – 紀元前408/407年)は、シケリア島の都市国家シュラクサイの軍人で、ペロポネソス戦争において反アテナイ陣営で活躍した。

ヘルモクラテスは、ヘルメスの子孫を称するシュラクサイの名門貴族ヘルモンの子供として生まれた。若い頃から戦争に参加し、軍功を立てたとされるが、ゲラの会談(紀元前424年)より前の詳細な記録は残っていない。」

ヘルモクラテス・・・シュラクサイ・・・ヘルメスの子孫ヘルモン・・・ヘルメス・・・よく知らない・・・

が、ここに来るかという感じです。
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:34
wikipedia『ヘルモクラテス』より、

「紀元前425年、アテナイの同盟都市レオンティノイとシュラクサイが戦った時、レオンティノイの要請によりアテナイは、エウリュメドンとソフォクレスを総指揮管とする遠征艦隊をシケリアへ派遣し、シケリアの諸都市にアテナイへの同盟を呼びかけた。

紀元前424年、ヘルモクラテスはシュラクサイの外交官としてゲラの会談で演説を行い、シケリアの和平を実現するとともに、シケリア全土を反アテナイ陣営へ引き込むことに成功した。アテナイの艦隊が到着した時、シケリアのどの国家も協力せず、結局艦隊は何もせずに引き返した。

紀元前421年、アテナイは和平推進派のニキアスにより、スパルタとの間に和平を締結したが、コリントス、テーバイの問題や、主戦派のアルキビアデスの画策により、わずか2年で戦争が再開した。

紀元前415年、アテナイはシチリアにおけるアテナイ同盟国であるエゲスタ(現セジェスタ)とレオンティノイを救うため、アルキビアデス、ニキアス、ラマコス三名を総指揮官とする大軍をシケリアへ派遣した。

アテナイ派兵の噂がシケリアに届くと、ヘルモクラテスは防衛体制の拡充を訴えた。アテナイ軍がイタリア南端のレギオン(現レッジョ・ディ・カラブリア)に集結すると、ヘルモクラテスはシケリアの諸都市に共闘を訴えた。

アテナイ軍が武力を背景にシケリアのカタネ(現カターニア)を拠点とした直後、ヘルメス神の石柱像の破壊事件の首謀者の疑いをかけられたアルキビアデスは、アテナイ本国への送還命令を受け、スパルタに亡命した。秋になってニキアスの率いるアテナイ軍とシュラクサイ軍は、シュラクサイ近郊のオリュンペイオンで最初の戦闘を交え、シュラクサイ軍は敗走した。
ヘルモクラテスがシュラクサイ軍の指揮系統の効率化を演説で訴えたところ、ヘラクレイデス、シカノスらとともにシュラクサイの最高司令官に選ばれ、全権を任された。アテナイ軍がメッセネ(現メッシーナ)で冬を越している間、シュラクサイは町を取り囲む城壁を建築し、ヘルモクラテスはシケリアの都市カマリナへ出向いて中立を約束させた。

紀元前414年、ニキアスはシュラクサイの近くにアテナイ艦隊を密かに集結させ、一気にシュラクサイの北に広がるエピポライの台地を奪った。続いてシュラクサイを包囲する壁を築き、シュラクサイは降伏寸前の状態に陥った。その頃スパルタは、亡命したアルキビアデスの提言に従い、ギュリッポスを最高司令官とする援軍をシケリアに派遣した。ギュリッポスはヒメラに上陸して軍を整え、シュラクサイ軍と共にシュラクサイを包囲していたアテナイ軍を破り、ラマコスは戦死した。エピポライの台地はシュラクサイに奪還され、以降ペロポネソス同盟軍側が息を吹き返し、ニキアスは祖国へ援軍を要請した。

紀元前413年、アテナイはアレイステネスの子デモステネスを総指揮官とする追加の遠征艦隊をシュラクサイへ派遣し、シュラクサイを再び包囲した。しかし大軍到着後の最初のアテナイ側によるエピポライへの夜襲は、ヘルモクラテスの奮闘により失敗し、その後も緒戦でヘルモクラテス・ギュリッポス側が勝利を収めた。アテナイ陣営は月食(紀元前413年8月27日)により撤退の期を逸したことにより、艦隊が全滅するなど壊滅的敗北を喫した。捕虜となったニキアス、デモステネス両名は、ヘルモクラテスとギュリッポスの助命嘆願にも拘わらず、民衆派ディオクレスの主張により処刑された。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:45
ひきつづき『ヘルモクラテス』より、

「紀元前412年、ヘルモクラテスはスパルタとの同盟の重要さを訴え、シュラクサイの艦隊を率いてスパルタのアステュオコスの指揮下に入り、以降東エーゲ海でアテナイ側と戦った。その間艦隊長として優れた手腕を見せたが、祖国ではディオクレスが政治の実権を握った。

紀元前411年、キュノスセマの海戦で、ヘルモクラテス率いるシュラクサイ艦隊はスパルタ艦隊の右翼を任され、トラシュロスのアテナイ左翼戦隊と対戦した。ヘルモクラテス率いるシュラクサイ艦隊は、各戦局で活躍したものの、トラシュブロス率いるアテナイ右翼戦隊にミンダロス率いるスパルタ本隊は敗北を喫してしまった。シュラクサイ艦隊は三橈漕船を一艘失うだけであった。

紀元前410年、キュジコスの海戦において、アルキビアデス、テラメネス、及びトラシュブロス率いるアテナイ軍にスパルタ連合艦隊は壊滅的敗北を喫した。その際ヘルモクラテスは全艦を焼却して逃走することで、シュラクサイ軍を捕虜になることから救った。しかしながら本国ではその敗走の責任を問われ、紀元前409年シュラクサイ艦隊長の解任と国外追放を宣告される。ヘルモクラテスはスパルタ、続いてアケメネス朝ペルシアへ亡命し、ペルシアの援助のもと艦隊と軍隊を整えた。」


ヘルモクラテスはスパルタ、続いてアケメネス朝ペルシアへ亡命し、ペルシアの援助のもと艦隊と軍隊を整えた・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:52
wikipedia『ヘルモクラテス』より、

「紀元前409年、ギスコの子ハンニバル率いるカルタゴ軍がシチリアへ侵攻し、セリヌス、ヒメラ、アクラガス(現アグリジェント)の町を蹂躙した。ディオクレスはシュラクサイを含むシチリア連合軍を指揮したが、ヒメラを解放することができず、住民を連れて撤退した。ヘルモクラテスは私軍を連れてメッサナへ上陸し、セリヌスの町を再建し、カルタゴの支配下に落ちたいくつかの土地の解放に成功する。

紀元前408年、ヒメラの地へ赴き、そこで拾ったシュラクサイ人の遺骨を本国へ送還した。その結果ディオクレスは失脚した。紀元前408年から407年にかけての冬に、ヘルモクラテスは3,000人の軍を率いてシュラクサイへの入国を強行しようとした。

その際ヘルモクラテスは軍の大部分をアルカディネに留め、友人たちとシュラクサイの町へ入ろうとしたが、そこでシュラクサイ軍と衝突し、戦死した。

後にヘルモクラテスの私兵を束ねることに成功したディオニュシオス1世は、ヘルモクラテスの娘を娶り、カルタゴとの戦争に勝利し、シュラクサイの僭主として全シケリアの支配者となった。

ディオニュシオス1世の別の妻アリストマケの弟ディオンは、プラトンがシュラクサイを訪問した際(紀元前388年)にプラトンの弟子となる。」

・・・こう繋がっているわけね・・・覚えられないけど・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 10:56
ヘルメスはオリンポス十二神の一神で、オリンポス十二神とはギリシア神話の神々・・・

ギリシア神話ってなに?
ヘルメスは道祖神らしい・・・

wikipedia『ヘルメース』より、

「古代ギリシアにはヘルマもしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた。トゥーキュディデースの『戦史』によると、紀元前415年ペロポネソス戦争を戦っていたアテーナイのヘルマが一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件はアルキビアデースの一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースがラケダイモーン側に寝返る原因となった。アルキビアーデスがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。

ヘルマ(ヘルメース柱像)は、アッティカやエーゲ海のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある。

ヘルマは日本でいう道祖神のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメース神は旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 12:49
境界は境で、堺はま〜クン・・・
思えば鬼将軍との対話がまだ稚拙な頃のオクトを優しく導いてくれた。

wikipedia『ヘルメース』より、

「死者、特に英雄の魂を冥界に導くプシューコポンポス(魂の導者)としての一面も持ち、その反面冥界から死者の魂を地上に戻す役割も担っており、オルペウスが妻エウリュディケーを冥界から連れ出そうとした際に同行した。この点からタキトゥスはゲルマン人の主神であったウォーダン(北欧神話のオーディン)とローマのヘルメースたるメルクリウスを同一視している。また、アポローンの竪琴の発明者とされ、」


閣下の大好きな閻魔さまだが、冥府の入り口といえば小野篁・・・
そんなに冥府の入り口とは重大なものなのだろうか・・・?
塞やサカ・・・

松岡正剛の千夜千冊 より
http://blurrier.rssing.com/chan-1511338/latest.php

「右筆 キンメリア、スキタイ、サカ‥‥。何が違うんですか。

校長 みんなパストラル・ノマドだけれど、これらがまったく別々の民族や部族かどうかは、実はまだはっきりしない。似たような民族の部族ちがいが戦ったのかもしれません。というのも、キンメリア人やスキタイ人を観察したのがギリシア人で、サカ人を観察したのがペルシア人であるからです。お互いに表現がちがうんでね。でもキンメリア人はホメロスの『オデッセイ』にも言及されている。その後のギリシア語文献でも「冥界(ハデス)の入口を守護する民」とみなされた。ギリシア人にはかなり怖がられていたんでしょう。ひょっとするとアッシリア帝国の周辺にいたのかもしれません。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 13:09
だいたい堺って、易断政府との関係、濃いのじゃ・・・
あそこは冥府紀伊の入り口にあたるんだろうか?

ギリシア神話・・・

wikipedia『ギリシア神話』より、

「ギリシア神話はローマ神話の体系化と発展を促進し、両者のあいだには対応関係が生み出された。さらにプラトーンを初めとして、古代ギリシアの哲学や思想、そしてヘレニズム時代の宗教や世界観に影響を与えた。

古代末期から神話の神々への信仰は希薄となり、やがて西欧文明においては、古代人の想像の産物とされるようにもなった。しかし、この神話は古代の哲学思想だけでなく、キリスト教神学の成立にも大きな影響を与えており、西欧の精神的な脊柱の一つであったといえる。中世を通じて神話は伝承されつづけ、ルネサンス期、そして近世や近代の思想や芸術においても、ギリシア神話はインスピレーションの源泉であった。


今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。

物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。

当時のヘレネス(古代ギリシア人の一部は、自分たちをこう呼んだ)の世界には、神話としての基本的骨格を備えた物語の原型が存在していた。

しかし当時の人々のなかで、特に、どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを語り広めたのは吟遊詩人たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する真実の知識を人間に解き明かす存在であった。

神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった。この故に、ホメーロスにおいては、ムーサ女神への祈りの言葉が、朗誦の最初に置かれた」
Posted by オクト at 2014年03月29日 13:20
古代ギリシアの線文字bとフェニキア文字の関係とか、検索したいけど、ギリシア神話に入ってからヘシオドスの名が頻繁に登場する・・・

ヘシオドス・・・「いずれの伝承が伝えるところが真実であるにしろ、へーシオドスが吟遊詩人としての訓練を積んでいたことは確かである。なぜなら当時の詩吟には高度に発達した専門的な様式が存在し、へーシオドスの作品もその様式に則ったものであるためである。」ーwikipedia『ヘーシオドス』


ギリシア名ってややこしくて、始皇帝のディオドトスもよく間違える。
始皇帝=ディオドトス説は、この方のブログで知ったのだけど、ある日、それが鹿島昇氏の説であることを知った。
いまだにブログ管理者と鹿島氏の関係は不明だけど・・・

セレンディピティさまブログより、
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/200712280000/

「BC334年、マケドニアの王アレキサンダーの東征が始まります。

アレキサンダーは、ダリウス3世を殺害し、マラカンダでクレイトス、スピタメンも暗殺しました。

BC324年、アレキサンダー大王は、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り、洛陽を建設しました。大王の軍は、さらにインド西部まで征服しましたが、アレキサンダーがバビロンで病死したので、大帝国も分裂しました。その結果、セレコウスがバクトリア王になりました。

BC256年、バクトリア知事ディオドトスが、クーデターによって政権を奪い、
グレコバクトリア(大秦国・大夏国)を建て、ディオドトス1世と称しました。

BC246年、ディオドトスは、バクトリアの統治を2世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシア軍団を率いて中国に至り、名前を秦王政として諸国制覇に乗り出しました。

始皇帝が、わずか10年で中国大陸を支配できたのは、彼の軍隊がアレキサンダーがバクトリアに残置したギリシャ軍団で、当時としては世界最強の戦力だったからです。」
Posted by オクト at 2014年03月29日 14:29
アレキサンドロスが洛陽に至ったとは、この記事を初めて知ったときも、その意味の重大さを理解できず、今あらためて衝撃を受けている。

九州にはギリシア人がたくさん居たらしいが、金髪碧眼は黒髪黒目より劣性遺伝らしいので、繰り返す交配のうちに消滅していくというのは理解できなくもない。

バクトリア大公ディオドトス説を知ったころは、まさか検索がギリシア神話まで遡るとまでは思っていなかった。
そこまで知の系譜が続くとは、なぜか思っていなかった。

旧約聖書とネオプラトニズムがイエス・キリストを生み出したのだろうか?
では旧約とは・・・?になってくるが、今現在、どの地点にいるのかよく分からない。

司馬遷についてもセレンディピティさんは記事に書いていたが、検索機能を消されてしまった(おそらくわたしのせいだろうが)ので、それまでは読み込んでいたのだけど、ここを離れていった。
たしかユダヤ十二支族に属する者で、ユダヤの歴史を史記に書いたか書かされたかだったような・・・

イスラエル十二支族はオリンポス十二神と関連あるのだろうか?
Posted by オクト at 2014年03月29日 14:42
秦王 政 ディオドトス一世・・・

http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/200712280000/

「BC246年、ディオドトスは、バクトリアの統治を2世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシア軍団を率いて中国に至り、名前を秦王政として諸国制覇に乗り出しました。

BC239年、その余波を受けて、申国(大夫餘)にいたウガヤ42代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)へ逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となりました。

同じ頃、マレー海峡のヤーヴァ・ドヴィーバの移民たちが沖縄から移って建てていた中山国が滅び、国王・綽(しゃく)が蜀へ移されたため、遺民たちは遼東へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮(智淮氏燕ちえしえん)を再興しました。

BC230年、ギリシア人の将軍エウチデムスがクーデターを起こし、ディオドトス2世を追放してバクトリア王となり、ソグディアナから南進してヒンドゥクシュ山脈一帯を支配しました。そのため、ディオドトス2世は父の秦王政を頼って中国へ逃れました。

BC228年、秦王政(ディオドトス1世)が趙国を滅ぼしました。

BC221年、ディオドトス1世、秦王政が中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝と称します。

始皇帝ディオドトス1世は、すでに造られていた燕と趙の長城を繋ぎ合わせ、さらにオルドス地帯の黄河沿いに新しい長城を築かせました。(万里の長城)

BC213年、秦始皇帝(ディオドトス1世)による焚書坑儒事件が起こります。

この時、対象にされた孔子・孟子系のユダヤ人はガド族の人々であり、それ以来、始皇帝(ディオドトス)のシメオン族と製鉄基地南陽(ナンヤン宛)の支配者であったガド族とは敵対関係に入りました。

その結果、ガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになったのです。

そうすると、後々、AC163年の糸島半島に於ける平原王墓(神殿遺跡)破壊事件は東夷諸族が東アジアの覇権を競い合う『倭の大乱』の最中に北朝系シメオン族が東表国エビス王家と連合して、高句麗と同盟する南朝系勢力となった(旧伊勢国の)ガド族を攻撃し九州文化圏から追い払った・・・・・と、いうことになります。」

アレキサンドロスからディオドトスの間のどこにイスラエル十二支族が流れ込んできたのだ・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 15:00
ギリシア人エウチデムス・・・

セレンディピティさんブログより、

「BC213年、秦始皇帝による『焚書坑儒』事件以来、ユダヤ北朝系(イスラエル10部族系)から南朝系(エルサレムのユダ王朝2部族系)となったガド族(孔子・孟子の子孫たち/河南省南陽宛の製鉄族)の山東半島から渡海して遼東へ逃れていましたが、やがて燕王 公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して移動を開始しました。

BC210年、始皇帝ディオドトス1世死す。BC209年、ディオドトス2世(胡亥)即位。

BC208年、エウチデムス(項羽)、シリア王アンティオコスを破り、バクトリア王国を承認させる。

BC207年、エウチデムス(項羽)がバクトリアから追撃してきて、ディオドトス2世(胡亥)を討つ。

余談ですが『馬鹿』という言葉について。

秦始皇帝の子、胡亥に趙高が馬を鹿と教えたという説話が『唐書元しん伝』に記されていますが、本来は騎馬民族である秦(アケメネス・ペルシア)の歴史を扶余史と取り換えたことを意味し、この場合『鹿』によって、インザク神をトーテムとする扶余系を示すのです。

すると説話の意義は、西域から中国大陸を支配した扶余(および、箕子国と辰国)史を中国大陸の歴史として書くべきであるのに、ペルシア史を中国史として書いたことを、この言葉に秘して伝えたことにあるそうです。

BC206年、ディオドトス3世(子嬰)もエウチデムス(項羽)に殺され宮廷も焼かれて秦国、滅亡。

秦の王族たちは遼東へ逃れ、箕子朝鮮を頼って亡命しました。

このあと、エウチデムスも、ひどい蛮地であり、法と秩序を守らない人々の治め難さを知って中国大陸を見捨ててインドへ転進しました。

従って、項羽と劉邦の戦いという史実はなく『史記』は、歴史捏造であったようです。

それを証明するかのように始皇帝の地下宮殿も20世紀の発掘によって焼けてないことが判明しました。」

エウチデムス・・・あ、項羽だったの?あ、そう・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 15:07
上記の記事は
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/20071228/からです。

セレンディピティさんの記事と松岡正剛氏の記事と、そんな話題が普通にできるような楽しい歴史認識をしたい・・・

さくら咲いてるかな。
公園に出かけよう・・・
Posted by オクト at 2014年03月29日 15:18
徳山暉純先生著の梵字の本を購入したのは第2弾が起こる前年とかだったろうか。
仏教を信仰してはなかったけど、先祖が仏教で祀られているなら、キリストの言葉では法要はできないのだと、熊野に帰ってから墓参を重ねるうちに気づいた。
それで般若心経を上げるようになったのだけど、そのうち、ふわふわした不思議な空気の塊を感じるようになった。
どうしてもそれは自分の詠む般若心経から派生しているようなのだ。
真言宗なので空海が宗祖であり、彼はカリグラファーであると知った。

その頃だったか、梵字の本を数冊手に入れた。

梵字の由来はフェニキア文字であると書いてあって、それ以来、フェニキアという地名だけがこころの中に島のように浮かんでいるのだった。

wikipedia『ギリシア神話』より、

「古代ギリシアには文字がなかった訳ではなく、ミュケーナイ時代にすでに線文字Bが存在していたが、暗黒時代にあってこの文字の記憶は失われた。しかし紀元前8世紀頃より、フェニキア文字を元に古代ギリシア文字が生まれる。ギリシア神話は基本的にはこの文字で記録された。また後にはローマの詩人・文学者がラテン語によってギリシア神話を記述した。」


wikipedia『暗黒時代』より、

「暗黒時代とは古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のこと。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる。また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれる事がある。
また、暗黒時代と呼ぶ事が不適切として初期鉄器時代と呼ばれる事が普及しつつある。

古代ギリシャではミケーネ文化が繁栄していたが、『前1200年のカタストロフ(前1200年の破局とも)』をきっかけに崩壊、それまで使用されていた線文字Bも使用されなくなり文字資料が乏しくなった。この状況はギリシャ人とフェニキア人が接触することによりアルファベットが成立してエーゲ海地帯に普及するまで続く。

このカタストロフの内容については各種異論が存在するが、このカタストロフが古代ギリシャ史における分水嶺と化しており、カタストロフ以前を研究する学者は考古学者、カタストロフ以後を研究する学者は歴史学者と分け隔てられていた。そのため、暗黒時代は考古学者、歴史学者の両者から敬遠される時代であった。」
Posted by オクト at 2014年03月30日 22:33
「紀元前1200年頃、環東地中海を『前1200年のカタストロフ』が襲いかかった。このカタストロフによりヒッタイトは崩壊しエジプト新王国は衰退へと向かうことになるが、古代ギリシャにおいてもミケーネ文化が崩壊することとなった。

このカタストロフが到来したことにより、ミケーネでは巨石を使用した巨大な宮殿は姿を消し、金銀で作られた器、象牙細工など豊かさの尺度となるものも姿を消した。この後、ミケーネでは粗末な集落のみが存在しており、それまでに形成された陶器の技術も失われることになった。

ミケーネ文化における再分配システムの中心であった各地の宮殿は焼壊したことにより経済システムは崩壊、この再分配システムに使用されていた線文字Bも不要の長物と化し、物資の貯蔵に用いられていた大規模な建築物も消滅することになった。このカタストロフは様々な解釈が存在しておりギリシャ人の一派であるドーリア人の侵入によるもの、地震による崩壊などがあるが、中には暗黒時代の存在を疑問視する声もある。

ミケーネ文化の崩壊には人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震、技術の衰退などが考えられているが、現在主流であるのは海から到来してテッサリアを拠点とした略奪者の為に崩壊したとする説である。しかし、これも確定に至っておらず崩壊の原因については論争が続いている。

また、宮殿は破壊された上に火を放たれており、これらの破壊活動は北から南へと進んでいる。しかし、これらの破壊を予測していたと考えられる跡も残っており、ミケーネ、ティリュンス、アテナイでは給水設備が設置されていたが、これらは包囲攻撃を予想していたとも考えられている。」ーwikipedia『暗黒時代』
Posted by オクト at 2014年03月30日 22:38
ひきつづきwikipedia『暗黒時代』より、

「このように一時期は低調に陥った人間活動も次第に回復しており、結局、この時代は文字資料が存在しないためにその時代背景が不明なために暗黒時代と呼ばれている側面がある。この期間はそれまで王や貴族が政治、経済の中心、いわゆる官僚主義で行なわれていた宮殿を中心とするシステムが崩壊して分散した農業集落に変わったとする可能性が指摘されている。そのため、経済システムが崩壊したことにより線文字Bも不必要なものとして廃れたと考えられている。

さらにそれまで定住して農耕を生業としていたものが牧畜を中心とした生活に変化したために定住地が減少したために、ミケーネ時代には石造りの建物であったのが朽ちやすい木造の建物と化した可能性が存在している。そのため、大規模な集落跡が発見されない可能性も存在する。


前12世紀まで鉄の製造方法はヒッタイトのみが所有していた。そのため、ヒッタイトと一部の人々(ペリシテ人など)しか鉄器を所有することはできなかったのだが、前1200年のカタストロフによってヒッタイトが崩壊すると鉄器が世界へ広がることになった


ギリシャに鉄器と思われる「黒い金属」が登場したのは前13世紀末であり、溶接はエーゲ海のコス島で始まったと言う伝説があるが、これもすぐさま普及したわけではなく、溶接で製作された三脚架はデルフォイの捧げ物として奉納されており、これはローマ時代まで宝物として扱われていた。そして前8世紀のパトロクロスの弔い合戦の恩賞としてアキレスが得たものは鉄の玉であった」


この「前1200年のカタストロフ」を読んでいると、現代にも起こりそうに思える・・・
Posted by オクト at 2014年03月30日 22:51
wikipedia『前1200年のカタストロフ』

「製鉄技術の拡散は各地に技術革新をもたらした。手工業、鉱山業、農業技術、灌漑技術の発達など社会、経済に大きな影響を与えた。しかし、一方で鉄器は武器の「改良」も進めることになった。そして鉄の精錬を行うには燃料が必要であったが、これは局地的な生態系の破壊を引き起こすこともあった。

カタストロフによりエジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが共に崩壊したために、近東では小国家が乱立した。小アジアではウラルトゥが勃興、アッシリアと激しく戦い、アナトリア高原ではフリュギア人らが勢力を拡大した。そしてアナトリア半島西部ではリュディアが勢力を広げ、シリアではアラム人らが勢力を広げた。そしてパレスチナの地域ではイスラエル人らの王国も築かれ、ソロモン王の栄光を迎える。


これらの激動的変化の要因については答えが未だに確定していない。しかし、東地中海周辺諸国の内外の様々な要因が複雑に絡み合った上で発生したことは間違いない。地質学的には気温と海面の上昇が指摘されており、各地の青銅器時代の「宮廷」社会が崩壊して地域全体の生活、交易、交通の大変化が見られる。それまで宮殿や宮廷を中心に活動していた人々は町を離れたために村落的な社会へと変化、パレスティナ、シリア、ギリシャなどでは牧畜が生業と化した事が考えられている

「海の民」らの侵入はエジプトに留まらず、シリアの諸都市、ウガリット、エマルも破壊された。そしてこの中でもパレスチナには「海の民」の一派であるペリシテ人らが定住することになった。旧約聖書上では否定的に描かれた彼らは実際には優れた都市建築者で鉄器の製造者であり、移住先に先進的物質文化を齎すことになった。」
Posted by オクト at 2014年03月30日 23:03
ギリシアの歴史を読んでいたら、ピュロス王国という国の遺跡から線文字bで描かれた粘土板が多数出土し、その解読により様子が解明されていってるらしい。

ピュロス王国では、「公有地や私有地が存在しており、外国から連れてこられた女奴隷が働き、ポセイドンやポトニア神へ祭祀を行っていたことが記載されている」−wikipedia『ギリシアの歴史』

ポトニア神はキュベレーというらしく、「アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である」
「この女神が旧石器時代に遡る歴史をもつことをほのめかしている。この女神は死と再生の神の一柱である」「キュベレーは小アジアのイーデー山で生まれた」ーwikipedia『キュベレー』
Posted by オクト at 2014年03月31日 00:20
イーデー山・・・

wikipedia『カズ山』より、

「古代には、イダ山はキュベレー崇拝の地で、ローマでは「Idaea Mater(イデーア・マーテル)」という添え名を与えていた」

「ローマ人によると、シビュラ(巫女)の言葉を集めた『シビュラの書』は、大キュロスの時代、イダ山のゲルギスで生まれたと言われる。この書はヘレスポントのシビラの作とされ、ゲルギスのアポローン神殿に収められていた。その後、ゲルギスからエリュトライに渡り、そこでエリュトライのシビュラの神託として有名になった。」

「イーデー山はホメーロスの叙事詩にも登場する。オリュンポス十二神は、戦争の進展を見守るために山頂に集う。イーデー山は女神たちの聖地だったので、力が拡大し、ヘーラーは誘惑してゼウスの気を散らすことができ、」

「ヘロドトスの『歴史』に、クセルクセス1世がイーデー山に行進したと書かれてある」
Posted by オクト at 2014年03月31日 00:26
このキュベレー、大地母神の信仰・・・これは・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%99%E3%83%AC%E3%83%BC

今日は3月31日。
午前4時が新月らしい。
Posted by オクト at 2014年03月31日 00:34
アッティスーwikipediaより、

「アッティスはローマで大地母神として知られたフリギアの女神キュベレーの息子かつ愛人である。同時に去勢された付き人であり、ライオンが牽引するキュベレーの戦車の御者でもある。彼はキュベレーの手で正気を失い、自ら去勢した。

本来はフリギアの大商業都市Pessinosに関連のある半神であった。その都市の風上にはアグディスティス(Agdistis)山があり、その山はデーモン(daemon、守護神)の体現と考えられていた。また外国人はそれを大いなる母キュベレーと関連づけた。」

ダイモーン(daemon)ーwikipediaより、

「ヘーシオドス『神統記』では、パエトーンはダイモーンに変じて目に見えない存在となるが、パンドーラーが解き放った人類の災いはダイモーンではなくケールであるとされている。またヘーシオドスは、ゼウスの思し召しによって黄金時代の人々がダイモーンに変えられ、善意をもって死すべき人間たちに役立つべく守護神の役割を果たすようになった様を描いている

プラトンの『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスは、自分には「ダイモニオン」(字義的には「神的な何か」)というものがあり、間違いを犯さないように「声」の形でしばしばソクラテスに警告したが、何をすべきかを教えてくれることはなかったと主張した。ただし、プラトンの描くソクラテスはダイモニオンがダイモーンだとは全く述べていない。それは常に非人格的な「何か」であり「しるし」であった。

プラトンの時代以降、アレクサンドロス3世が自ら始めた君主崇拝の中で、君主自身ではなく君主の守護神であるダイモーンをあがめるようになり、ヘレニズム期にはダイモーンは守護している人物の外にあり、本人に霊感を吹き込み、導くものとされていた。

ダイモーンはネオプラトニズム哲学では重要な存在であった。ネオプラトニズムにおいては、エロースが神々と人間の中間的存在とされたように、ダイモーンは悪霊というよりもむしろ半神に近いものであった。キリスト教がプラトニズムを受容する際に、エウダイモーンは天使と同一視された。

ヘルメス・トリスメギストスの教義は、異教とキリスト教の双方のダイモーン/デーモン概念のひとつの源泉となっている。というのも『ヘルメス選集』においては、ダイモーンたちは「至高天」(en:Empyrean)に向かって魂が昇っていく途上の諸天球の門番の役を務めているとされているからである。」


至高天に向かって魂が昇っていく・・・これが霊界とおなじという気がするが・・・ソクラテスのダイモニオンとはわたしの思っているエホバに似ている・・・
Posted by オクト at 2014年03月31日 08:11
キュベレー・・・マリアとの関係・・・

「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂がキュベレーの神殿があった場所に築かれた時、キュベレー信仰は地下に潜伏した。これは偶然の一致ではない」−wikipedia『キュベレー』


「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂はイタリア、ローマにあるカトリック教会の聖堂。「偉大なる聖母マリアにささげられた聖堂」の意で、教皇が建築させたローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つに数えられる。四大バシリカとはこのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。
古代キュベレ神の神殿があった場所に築かれた。

「サンタ・マリア・マッジョーレ」(聖母マリアの聖堂)という名称には二つの意味がある。一つは世界の聖堂の中でも特に重要な教会、まさに母なる教会であるということ。

第二にカトリック信仰において古代より尊重されてきた聖母マリアへの崇敬を表す聖堂であるということである。世界中に聖母マリアにささげられた聖堂があるが、その中で最大のものがサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂である。
」ーwikipedia『サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂』
Posted by オクト at 2014年04月01日 01:18
「アガトダイモーンまたはアガトス・ダイモーンは、ギリシア神話において、ブドウ畑と穀物畑そして幸運と健康と知識の神であった。名はギリシア語で「善き霊」を意味する。彼を讃えるために毎食の度に純粋なワインを注ぎ飲む風習があった。幸運の女神テュケーとは夫婦である。芸術の中では蛇の姿や、片手に豊饒の角と鉢を1つずつ持ちもう片方にケシと麦穂を1つずつ持った若者の姿で表される。後に幸運(特に家族によい飲食物)を司る一般的な「ダイモーン」として作り替えられた。」ーwikipedia『アガトダイモーン』


「ギリシア神話においてテュケーは都市の財産と繁栄、そしてその運命を司る中心的な女神であった。その名は「運」を意味するギリシャ語で、ローマ神話のフォルトゥナに対応する。

中世美術では彼女はコルヌコピアや舵を持ち、運命の輪と共に描かれ、運命の輪の全てを統括していた。

また、ガンダーラのギリシャ仏教芸術ではハーリティー(鬼子母神)と密接に関連する」−wikipedia『テュケー』
Posted by オクト at 2014年04月01日 01:27
「運命の輪(Wheel of Fortune)は、タロットの大アルカナに属するカードの1枚。カード番号は「10」

タイトル通り「運命対自由意志」を提示している。輪は周期性・永続性の象徴とされる。マルセイユ版タロットでは輪に絡まるようにして2匹の動物が、輪から独立した台座の上に1体の生物が確認できる。通説として、輪の右側(上を向いている方)の動物はアヌビスとされ、転じて善玉と解釈される。

対して輪の左側(下を向いている方)の動物はテュポンとされ、転じて悪玉とされる。2体の動物の向きから輪は左回転を行っているものと思われ、吉と凶は変則的でありながらも規則的に訪れることを暗示している。

かつて海王星までしか発見されていなかったがその外側の惑星の存在が予測されていた時代、「輪」のカードを未発見の新惑星(海王星の外側をめぐる惑星)にあてる説があった。」−wikipedia『運命の輪』
Posted by オクト at 2014年04月01日 01:34
「ヘロドトスの『歴史』に、クセルクセス1世がイーデー山に行進したと書かれてある」ーwikipedia『カズ山』

キュベレー信仰を女性神信仰の原型への門と考えて、クセルクセスを検索してみたが、アケメネス朝、ダリウス王・・・とか、ここでもセレンディピティさんの記事で知ったイシン・ラサ王朝に繋がっていきそうなので、ひとまず止まっている。

鹿島氏説は殷はイシン・ラサの祭祀国家だったとあるらしいが、そうなんだろうと感じてきた。
ただ、中国の歴史上、西との接点って、その殷虚と秦の始皇帝=ディオドトスという鹿島説、東西を繋ぐシルクロード、それらによってしか空想できなかった。
アレキサンドロスが洛陽まで東征し、建設したというのは、根本的に中国のバックボーンとしてのギリシャという視点に立つ必要を感じてる。

ギリシアって何から何までを指すのかさえ・・・知らない・・・ホメロスのイーリアスがギリシア神話のこと?
発掘したのがシュリーマンだからドイツの話かと勘違いしてしまう・・・
Posted by オクト at 2014年04月03日 10:44
wikipedia『イリオス』より、

「イリオスは、ギリシア神話に登場する都市。イリオン(イーリオン)、トロイア、トロイ、トロヤなどとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。遺跡の入り口には、あの有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。

一般的に、ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。ギリシア神話においては、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましはホメロスの『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。」


「オリンポス山は、ギリシア神話ではオリュンポス十二神の居所とされる山である。」ーwikipedia『オリンポス山』

wikipedia『ハインリッヒ・シュリーマン』より、

「プロイセン王国のメクレンブルク・シュヴェリン州生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。

貧困から脱するため1841年にベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。この時期に成功し、30歳(1852年)の時にロシア女性と結婚したが、その後になって離婚してしまった。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 10:53
ひきつづきwikipedia『ハインリッヒ・シュリーマン』より、

「自身の著作では、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしているが、これは功名心の高かった彼による後付けの創作である可能性が高い。

発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの創作」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた、というのもシュリーマンの著作に見られる記述であるが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われており、シュリーマンの「トロイア実在説」は当時からして決して荒唐無稽なものではなかった。


彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。

実際には発掘調査に必要な費用が用意できたので事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。

また彼は世界旅行に出て清(当時の中国)に続き、幕末・慶応元年(1865年)には日本を訪れ、自著 (石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)にて、鋭い観察眼で当時の東アジアを描写している。

その後ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、トルコに発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。


彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルク(ヒサルルック)の丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。

「プリアモスの財宝」はオスマン帝国政府に無断でシュリーマンによってギリシアのアテネに持ちだされ、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦争中にモスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 11:00
wikipedia『クリミア戦争』より、

「クリミア戦争は、1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。

フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャとロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。日本では汎スラヴ主義を掲げるロシアのイデオロギーや南下政策がもたらした対立の一環であるとの見方が定着している。


1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキア(現在のモルドヴァとルーマニアの一部)に進軍した。

あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。


この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。

プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。


クリミア戦争は、直接的ではないが日本にも大きな影響を及ぼした。

アメリカだけがこの時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったからである。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 11:11
半村良の『石の血脈』という本が検索で上がってくるが・・・

「古代イスラムから脈々と伝わる血の秘密にたどりつく。アトランティス、巨石信仰、吸血鬼伝説、狼男、永遠の命・・・」

シュリーマン、ロスチャイルドも登場するらしい。

イスラム異端の暗殺教団って、アルカイダか思うが・・・
Posted by オクト at 2014年04月03日 11:24
現代の作家にはあまり馴染みがない。
半村良・・・検索したらセイゴーちゃんが・・・


「ヒの一族だと思っていたら、ヒ一族だった。日とも卑とも非とも綴られる一族である。山野を跳梁し、神に仕え、皇室の存続だけを意図して動く。ずっとヒの一族と思っていたので、あえてそう書くことにするが、このヒの一族の正体が奇想天外なのである。
 はるか30年ほど前の読後感なのに、いまだ鮮明に蘇るのだが、冒頭に参った。
 永禄11年の初夏、醍醐三宝院の茶席に、亭主役の門跡義演僧正が3人の客を招いている。奈良の蜂屋紹佐、松屋久政、堺の天王寺屋今井宗久である。いずれ劣らぬ数寄者のコレクター。
 3人は床に掛かった圓悟克勤の墨跡に息を呑んでいる。利休が所蔵しているはずの逸品の二つ目が出たからだ。3人は値を張り合って、二千貫文で天王寺屋が落とした。墨跡の出所はあかされなかったが、実は山科言継だった。
 この山科家がヒの司を秘密裡に任されていた。禁中では異(こと)の者とも呼ぶならわしらしい。その起源は遠い昔にさかのぼり、一説には皇室より上に位するほどだったのが、時代がくだるにしたがって体制の一部にくみこまれ、元応・元亨のころは日野家の管轄になっていた。しかしつねに皇室の危機を救ってきたとも噂されてきた。
 その後、ヒは南北朝とともに分裂し、滅んだとも伝えられていたのが、どうやら山科家に移管されていたらしい。
 醍醐はもとは日野家の名字領であり、醍醐寺と山科言継がつながっているのも何かの機縁なのである。二千貫文はそのヒが動き出すための資金のようだった‥‥。」
『産霊山秘録』松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0989.html


ヒの一族・・・これにインスパイアーされてはいるのだが・・・
Posted by オクト at 2014年04月03日 11:40
「そのころである。やっと一部の者たちに、日本にはかつてヒの一族というものたちがいて、人知れず日本を守っていたということを知りはじめたのは。
 真田一族の末裔が戦時中の本営にかかわっていたかもしれないこと、国会議事堂と山王ホテルのあいだに何かの連絡があったこと、神仏分離令がどうしておこったかということ、実は世界各地にも産霊山にあたるシステムが作動していただろうこと‥‥。

 しかし、半村良はもはやこうした暗合を整理もせず、あえて脈絡もつけずに、日本という社会を放置して、この物語を了える――。」
『産霊山秘録』松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0989.html


ここまで来て、また日野家・・・しかも産霊山システム・・・起動。
Posted by オクト at 2014年04月03日 11:49
『産霊山秘録』松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0989.html

「ここから物語はかなり怪しくなってくる。龍馬は臨終の父親から自分がヒの傍流にあたることを知らされ、関東のヒの者と衝突をおこさないように告げられる。
 関東のヒには土方歳三がいて、この連中が京都にまわるという。

龍馬はヒの分裂を感じて焦るのだが、さて「玉」を守るために何を排除し、誰を封殺していいかがわからない。むしろこのまま日本という食卓をひっくりかえして、日本の本来を世界に晒したほうがいいのではないか。」

この頃はご登場でないけど、ある方のコメントに「閣下もたくさん人を殺されていますね」というのがあって、それを読んだ時に、なぜわたしがあの時、閣下によって救われたのかを納得した。

死にたいと本当に考えている人間は、殺人のプロを待ち望むのではないか?
スーッと鮮やかにあの世へ飛ばしてくれる人間。
送り出された人間が納得するような。
閣下との会話でよく前世が土方歳三だったという話が出ますが・・・
Posted by オクト at 2014年04月03日 12:00
ヒの一族・・・

「ヒの一族は天地開闢を司ったタカミムスビの直系ということになっている。ムスビ(産霊)はむろん「ムス・ヒ」で、ヒはスピリチュアル・エネルギーをあらわしている。鏡・依玉・伊吹を神器として尊守してきた。

ヒの者は男ばかりで、女はいない。妻問いであり、ケガレを避けた。一つ胤の者のうち、年少の者が代々継ぐことにもなっている。日の民であり、非の民なのだ。ヒから見れば、ほかのすべての人間たちは里者になる。

 そのヒの者はテレポーテーションの技能を身につけている。SFなら念力移動というところだが、ここではワタリとよばれる。神籬(ひもろぎ)から神籬へと飛んでいく。

それゆえ各地の忍びはどこかでヒの者とつながって、比叡、日の岡、百済寺、諏訪、鹿島、大国魂神社、そのほか意外なところに産霊山(ムスビノヤマ)を秘守し、そのネットワークを広げている。そこは「芯の山」ともよばれた。」


ヒの裏側にネがあるらしい・・

「随風は信長には光秀を送り、藤堂与右衛門(高虎)や猿飛や山内一豊らには家康・信玄を見張らせる。衆議のうえ、信玄は呪殺することにした。家康も牽制した。しかし信長の猛威はそのようなヒの努力とは関係なく拡張し、暴走しているようにも見える。随風や光秀はこれはヒの裏側のネが動いたのだと見る。
 このネについては明確な説明がないのだが、ヒとは裏腹の関係にある動向らしい(ネの説明がないのはこの作品の欠陥になるが、これはのちに大作『妖星伝』のほうにいかされた。ネは根の国のネ、常や峰や杵のネなのである)。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 12:10
wikipedia『アステュアゲス』より、

「古代ギリシアのヘロドトスによれば、アステュアゲスはリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスと結婚し、娘マンダネをもうけた。ある日アステュアゲスはマンダネがメディアの都エクバタナを水で溢れさせる夢を見た。王位を脅かされることを恐れたアステュアゲスは、マンダネをメディア人ではなく、あえて格下のペルシア貴族カンビュセス1世に嫁がせた。

その後アステュアゲスは再び夢を見た。それはマンダネから葡萄の木が生えてアジア全体を覆ってしまうというものだった。マンダネが身ごもっていると聞いたアステュアゲスは、忠実な部下であるメディア人貴族ハルパゴスに、マンダネの胎内にあったキュロス2世を生まれてすぐに殺すよう命じた。ハルパゴスは幼子を殺すに忍びず、牛飼いに赤子を渡した。

こうして生まれたキュロスは成長し、メディアの属国ペルシアの支配者になり、やがてアステュアゲスに反旗を翻した。アステュアゲスはハルパゴスを大将に討伐軍を差し向けたが、残忍なアステュアゲスを嫌ったハルパゴスは部隊ごとペルシア方に寝返った。ついでアステュアゲス自らが討伐に向かったが、パサルガダエ近くの戦いでキュロスに敗北し、捕虜になったという。こうしてメディア王国は滅亡した。

クテシアスによれば、その後アステュアゲスはオイバレスの入れ知恵でキュロスの宦官ペティサカスによって飢え死にさせられた。」


wikipedia『アケメネス朝』より、

「ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。

しかし後年マケドニア王アレクサンドロス3世のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。」

wikipedia『パサルカダエ』より、

「パサルガダエ考古遺跡で最も重要な部分は、キュロス2世のものと伝えられている墳墓である。

6段の階段が墳墓へとつながり、墓室は、高さ2.11メートル、幅2.11メートル、奥行き3.17メートルの大きさであり、低くて狭い入り口を持つ。キュロス2世の墳墓という確証はまったく無いわけだが、ギリシャの歴史学者がアレクサンドロス大王がキュロスの墓であると信じていたということを今日に教えてくれている。アレクサンドロスは、ペルセポリスを破壊したときに、キュロス2世の墓を訪問したとされる。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 20:15
ひきつづきwikipedia『パサルカダエ』より、

「パサルガダエ考古遺跡の建築様式は、同時代のアナトリアの墳墓と強い結びつきがあるという。特にパサルガダエの墳墓は、リディア王クロイソスの父であるアリュアッテス2世の墓とほぼ同じである」

wikipedia『アリュアッテス』より、

「アリュアッテスの墓はリュディアの都サルディスの近郊にあり、直径355m、高さ35mと近辺では最大の墳丘墓である。ヘロドトスの記述によれば、この古墳の頂上には男根のシンボルが立てられていたといい、エトルリアの墳丘墓を連想させるものである。」


wikipedia『エトルリア』より、

「エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシャ語ではティレニア

各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。

古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていた。当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である。

鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。
夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えを持つ稀な民族だった。

ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアのリディアからこの地にやってきたと言う。一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア人はイタリア古来の民族だと述べている。現在の調査では正式には、エトルリア人が小アジアの出自である事を直接結び付ける証拠はない。しかしながら、ある調査ではエーゲ海のレムノス島では紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ている事が指摘されている。

また、エトルリア人は海を往来する民族でもあり、古代地中海世界の至るところからその存在が記述されている。一説には古代エジプト第20王朝に記述のある「海の民」はエトルリア人ではなかったかとも言われている。」
Posted by オクト at 2014年04月03日 21:16
アケメネス朝を調べているが、キュロス2世はバビロン虜囚を解放した人物らしく、旧約聖書の言葉と連動してくる・・・

wikipedia『汎バビロニア主義』より、

「汎バビロニア主義(Panbabylonism)は、ヘブライ聖書、ユダヤ教の起源をバビロニア文化及びバビロニア神話とするアッシリア学、宗教学の学説。19世紀提唱され、アレフレッド・ジェレマイアスの貢献もあり20世紀に普及。聖書は、メソポタミアの創世神話『エヌマ・エリシュ』に由来していると考えられる。」

wikipedia『アッシリア学』より、

「アッシリア学は19世紀半ばのボッタ(仏)によるニネヴェ発掘、レヤード(英)によるニムルド発掘などにより考古学的調査が始まり、1849年にはレヤードによってアッシュールバニパル王の王宮附属図書館(書庫)と22,000の粘土板が発掘され、大英博物館へ移管された。

アッシリア学の発展は、それまで西洋古代史の研究が依拠していた古典古代の文献や旧約聖書に現れた不十分・不完全な知識・情報を補正するのに大きく貢献した。」


旧約はこのあたり読んだのだろうけど、理解していない。
登場人物の所属がよく分からなくて難しい。
ここが分からないと聖書を分かっていないということなんだろう・・・

ペルシア帝国と帰還の民http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/apoca/21persia.htm


アケメネス朝の何代目かの王、アルタクセルクセス一世・・・

wikipedia『アルタクセルクセス一世』より、

「ギリシアでは寛容な王として知られ、故国を追われたサラミスの海戦の英雄テミストクレスの亡命を受け入れ、これを手厚く保護したという。また宗教政策も寛容であり、旧約聖書のエズラ記、ネヘミヤ記にその名が登場し、特に預言者ネヘミヤはアルタクセルクセスの側近からユダヤ総督になったとされる。建築や碑文を残すことにも熱心で、首都ペルセポリスには「百柱の間」を建設した。」


アルタクセルクセス1世・・・アルタクセルクセス・ロンギマヌス・・・

ロンギマヌスって、ロンギヌスなんだろうかと思って検索していたが、ロンギヌスの槍のロンギヌスはイエスの脇腹を突き刺したローマ兵の名前となっているだけで、アルタクセルクセスとの関連は見つからない・・・
Posted by オクト at 2014年04月04日 00:05
4日は皇居の桜が一般公開とテレビで知って、隅田川に行く予定を急遽、皇居に変更したのだけど、2時過ぎには既に拝観締め切りになっていて、わたしのように3時まで並べば入場できますとの情報を信じた人たちが、警官に説明を求めていた。

仕方ないので、将門の首塚に回った。
朝に皇居行きを決めたとき、すぐに首塚のことが頭に浮かんだのだが、結局は首塚に行けということなのだと思った。

将門=ヤジロウという視点でみる首塚は親しみやすかった。
「蓮阿弥陀仏」の字を眺めていると、蓮は蓮如の蓮、阿弥陀の弥はヤジロウの弥だと思ったりした。
皇居は本願寺の東国布教本部・・・

真偽は分からないが、そういう解釈でクリアーな気分で。

その後、浅草へ。
浅草寺は占宗寺・・・易断は卜を行っていたという。

なにもかもが今までとは違う近しい距離感で、皇居、首塚、浅草寺・・・
スカイツリーから浅草寺に向かう言問橋を渡る間、降り始めた豪雨と風で足が濡れた。
隅田川を渡りながら、占宗寺に入るまえの禊のようだと感じた。
浅草神社の前に立つころ、雨は小降りになり、そしてまた豪雨と雷を宝蔵門の下でやり過ごした。

Kと関り始めたのが2004年の4月・・・10年。
閣下と出会って5年。
この10年、天国と地獄を味わった。
意識は霊界に、肉体は現実に、引き裂かれたような苦しみだったけど、今は普通。
普通・・・

終わりに近づいてる感じがすると閣下に伝えた。
歴史認識の脊椎らしきものは出来上がりつつあると感じる。
バビロニア・メソポタニア、ウバイド・・・

閣下が東遷して5年。
関係を清算して10年という・・・

オクトの終焉も近いという感じがしています。
Posted by オクト at 2014年04月05日 00:26
それでは、イシン・ラルサへ。

wikipedia『イシン・ラルサ時代』より、

「イシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃 - 紀元前1750年頃)は、古代オリエント史における時代区分である。ウル第3王朝滅亡から始まる古バビロニア時代の前半、すなわちウル第3王朝滅亡からバビロン第1王朝のハンムラビ王によるメソポタミア統一までの時代を指す。厳密な年代は学者によって異なる。

メソポタミアの統一勢力であったウル第3王朝は紀元前21世紀後半には弱体化し、同王朝からイシン第1王朝が独立した。その後間もなくウル第3王朝はエラムによって滅ぼされ、イシン・ラルサ時代が幕を開けた。

この時代メソポタミアの政治的な主導権を握ったのはアムル人であった。アムル人はすでにウル第3王朝末期からメソポタミア各地に移住・侵入しており、イシン第1王朝を皮切りに次々とアムル系王朝が成立していった。」

ウル第3王朝最後の王イビ・シンの治世において、王朝は西からのアムル人の侵入と東からのエラムの攻撃に曝され、その対応に追われた。さらに紀元前2022年頃、シュメール地方で大規模な飢饉が発生すると、王朝の弱体化は如何ともしがたい様相となった。

紀元前2004年、エラム人がシュメールに侵入し、イビ・シン王は敗れエラムに連れ去られた。エラム人は南部メソポタミアの都市を破壊して支配下に置いた。このウル第3王朝の滅亡は『ウル市滅亡哀歌』などの文学作品を通して語り継がれた。」


ウル市滅亡哀歌・・・

wikipedia『』より、

The Lament for Ur, or Lamentation over the city of Ur is a Sumerian lament composed around the time of the fall of Ur to the Elamites and the end of the city's third dynasty (c. 2000 BC).

It contains one of five known Mesopotamian "city laments"―dirges for ruined cities in the voice of the city's tutelary goddess.

The other city laments are:

The Lament for Sumer and Ur
The Lament for Nippur
The Lament for Eridu
The Lament for Uruk

The Book of Lamentations of the Old Testament, which bewails the destruction of Jerusalem by Nebuchadnezzar II of Babylon in the sixth century B.C., is similar in style and theme to these earlier Mesopotamian laments. Similar laments can be found in the Book of Jeremiah, the Book of Ezekiel and the Book of Psalms, Psalm 137 (Psalms 137:1-9), a song covered by Boney M in 1978 as Rivers of Babylon.
Posted by オクト at 2014年04月06日 07:42
「エレミヤ哀歌は、「ウル市減亡哀歌」と、ほぼ同じ内容・形式である。」
http://judaist33.seesaa.net/


神仙組に入る頃、その頃はゲーム理論として現実が起こっていると感じていたので、ゲーム音楽を聞いていた。
YOKO SHIMOMURA DRAMMATICAを購入して、車で熊野山中を迷走していたのだけど、そのうちの一曲だけを繰り返すようになっていった。

City of Flickering Destructionー滅びし煌きの都市ー聖剣伝説レジェンドオブマナ

滅びし都市というのが機関の警告と似ていて、それが未来に起こることかと思っていたけど、過去にも起こったような気がしていた。

5年前は、この曲が鳴りつづける世界にいた。
それらをすべて閣下に捧げて。

記録がないということはどういうことなのか?
文字として残ったことだけが現実を決定していくのであれば、霊の苦しみや、魂の嘆きなど起こらないはずではないか?

宇宙とは記録なんだ。
それが何の文字かは知らないが、人間は生まれながらそれを読むことができる。しかし、教育によってその能力は消されていく。

起こったことは言葉では説明できないことだった。
現実が壊れた、世界が機能しなくなった・・・その理由や発生の時期も分からない。
いつから始まったのかは、現実が反応しなくなって気づいた。
それはおそらく神と切り離されたということなのだと考え、そして第一弾でもそうしたように、新たな信仰を構築してきたのだった。
閣下の背後にその神々はいるのだと、それだけは信じてられた。

DNAの中に始まりからの情報が格納されているのだろう。
読めるか読めないかが、最後の審判なのかもしれない。


『第二ウル市滅亡の哀歌』では、
 「アン神、エンリル神、
  エンキ神およびニンフルサグ女神がその運命を決定した」と

 ウル市の滅亡が
 「運命を定める大神たちの定め」であると人々は悟りながらも、

 過酷な運命を嘆かざるをえない心情が述べられている。
http://judaist33.seesaa.net/さんより。
Posted by オクト at 2014年04月06日 08:13
セレンディピティさんより、

「"Ur"という言葉は、【非常に古い根源的なもの】を意味します。

Urbefolkning  ;原住民、先住民族
Urkraft     ;根源力、底知れぬ力
Urkristendem  ;原始キリスト教
Urkund     ;原本、原典
Urminnes    ;太古(以来)の
Urtid       ;原始時代、先史時代

「ウルの牛(Uroxe)」という形が、原牛(古代に住んでいた牛)を意味することも興味深い。
ウルは、アナトリアのチャタルフュイックの牛頭信仰に繋がっていると考えられます。
アッカド人が現われる前のメソポタミアは、シュメール人とウル人が住んでいました。
シュメール人は蛇を、ウル人は牛をトーテムとする人たちでした。
そしてウル人がシュメール人を支配していたらしい。」
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201008240002/

4日は閣下とお花見だったのだけど、2年前の桜を見た隅田川をまた訪れた。
吾妻橋を渡り、スカイツリーを眼前にしながら勝海舟の銅像、そして牛島神社と歩いた。
牛島は、沖縄戦の牛島中将を想起させて感慨深い。
狛犬のように拝殿の左右に牛があり、牡牛と牝牛だろうかと話した。
牛は考察においてもいろいろと重要で、聖である。

ウルって・・・
Posted by オクト at 2014年04月06日 08:26
ひきつづきセレンディピティさんより、

「牛の頭に対する信仰、【牛頭信仰】は、その後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。
日本国のスサノオのミコトも牛頭大王という別名をもっていますし、牛頭天王というのは古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の守護神だったといいます。
牛頭神は、ヨーロッパにも見られ、世界文明の主なる流れの最高神だった可能性があります。

BC3000年頃から、インダス河口が人々の移住を許すようになると、セム族に圧迫されながらエラム、ドラヴィダ系の人々が南下し、前2350年頃から、アッカドのサルゴン王家は河口のロートルに上陸し、筏に乗せて牛を揚陸させました。

インダスに於いては牛が貴重品であったため、支配者のアッカド人とウル人は、ドラヴィダ人に聖牛思想を教え、牛首のバァル神の崇拝を強制しました。それまで、ドラヴィダ人の祭神は【ヤオロチ】即ち蛇神であり、シュメールではサルゴン時代から、バァル神とディルムン説話が生まれていたのです。したがって、これ以降インダスでは、聖蛇信仰と聖牛信仰が併存しました。

アッカド人とウル人は、グート人に圧迫され、前2000年以前に、チベットから黄河沿いに下降して彩陶文化を残すのですが、ウル人は、チベットのホータンを中心として月氏となります。

月氏の前身はカッシート人といわれます。そのカッシートの前身がウル人だったのではと考えます。

文明の起源、アナトリアで自然銅を加工する技術を発見した人々が牛頭信仰のウル人であり、銅、後には錫や金・銀・鉄を探鉱するために世界に散り、あらゆる民族の基になったのではないか

なぜなら、彼らウル人の痕跡が北方ヨーロッパ各地にも残っているからです。」
Posted by オクト at 2014年04月06日 08:30
セレンディピティさんの記事は、内容が衝撃的過ぎて、アタマが混乱するのでまともに読めません。
読んでもおなじ景色を頭の中に描けないのです。
少しずつ小出しにします。

「シベリアや東アジア、アメリカ大陸にも鉱山を探しに移動しています。彼らの鉱物を需要していたのが、メソポタミアの広大な農場であり、エジプト王朝だったらしい。
インドは、それらを円滑に行うためのコンビナートであり、精神性を高め、民族の宇宙観を極めていったスピリチュアルな聖地だったのではないかと思うのです。

ウル人は、月氏であり、サカ族になり、倭人の中心的存在であったと考えます。

サルゴンの後、リムシュ→マニシュトス→ナラムシンが継承します。

【ウル第三王朝】BC 2190〜2005 【前期イシン王朝】BC 2017〜1794

ダミクイリシュ王の時、イシン王朝は一旦滅び、一族(イシンの人々)は、ラルサのリムシンに征服された後、エジプトに逃れ、ヒクソス国家をたてた後、再びカナンの地に逃れ、エブス人となり、その地でユダヤ人に出会いました。

メソポタミアでアラム族のイシン本国が亡び、アッシリアが栄え、中国大陸に支配が及ぶと中国のアラム族も圧迫され、南湾の凌河流域に後退して箕子朝鮮を建てました。」


エジプトに逃れ、ヒクソス国家をたてた後、再びカナンの地に逃れ、エブス人となり、その地でユダヤ人に出会い・・・
Posted by オクト at 2014年04月06日 08:39
wikipedia『エジプト第15王朝』より、

「エジプト第15王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1555年頃)は第2中間期時代の古代エジプト王朝。いわゆるヒクソス(ヘカ・カスウト「異国の支配者達」の意)と呼ばれる異民族によって立てられた王朝である。

通常「ヒクソス」、「ヒクソス政権」などといった場合には第15王朝を指すが、第15王朝を「大ヒクソス」、第16王朝を「小ヒクソス」というように呼ぶ場合もある。

この王朝に対する後世のエジプト人の記録は敵意に満ちており、圧制を敷いてエジプト人を苦しめたとされているが、考古学的な調査はこのエジプト人の記録が酷く誇張されたものであることを明らかにしている。

少なくとも第15王朝の支配領域に居住したエジプト人達が「異民族支配」を強く意識したのかどうかはかなり疑わしい。ヒクソスと呼ばれた人々は建物の建築様式やいくつかの新しい兵器を導入した事などを除けば、エジプトの伝統的な文化をほとんど引き継いでいたからである。

第15王朝はやがて異民族の追放を掲げたテーベ(古代エジプト語:ネウト 現在のルクソール)の政権(第17、第18王朝)によって放逐された。


ナイル川デルタ地方におけるアジア人の移住は第1中間期から中王国時代には既に始まっており、第15王朝が成立するよりも前に、高い地位と権力を持つアジア系の人物が登場していた。またヒクソスによって建設されたという記録の残るアヴァリス市は、既に第12王朝時代には存在していたことが確認されている

アヴァリス市の調査結果はアジア系の集団が権力を握る過程を考える上で重要である。

アヴァリス市で発見された中王国時代初期(第12王朝時代)の居住区は、センウセルト2世のピラミッド建設労働者達の都市カフン(ヘテプ・センウセルト)の居住区と構造が酷似しており、極めてエジプト的な都市であった。

この居住区は第12王朝2代目のセンウセルト1世時代には放棄されており、第12王朝後期頃に南西に新しい居住区が形成された。この新しい居住区は旧来の居住区と異なり、住居の配置・構造が北シリアのそれと類似していることが明らかとなっており、シリア・パレスチナ地方の文化的影響を受けているのは確実である。」


ピラミッド建設労働者達の都市カフン・・・
Posted by オクト at 2014年04月06日 08:48
セレンディピティさんの記事の引用、続きます。

「イリのアルタイは、シルクロードで一番の金山でしたので、アラム人たちは此処を根拠に決めました。この人々の金姓は、ここから始ります。

タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンにかけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。

砂漠の南部、ホータンからチェルチェンを経てロプ湖畔の楼蘭に至る地帯が辰国=ウガヤ王朝の故地になります。

この後、アッシリアに抵抗して亡命した海の国カルデラ人(サカ族)が、西方のアラル海とアム河・シル河、両河に挟まれた原野地帯に扶余を建国し、王家は昔姓でサカ族の王を称し、王号を【シウスサカ】といいました。

月氏族で朴姓のアメニギ氏が辰国をたてて三国が擁立しました。


C239年、秦始皇帝の余波を受けて、申国(大夫餘)にいたウガヤ42代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)へ逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となりました。

同じ頃、マレー海峡のヤーヴァ・ドヴィーバの移民たちが沖縄から移って建てていた中山国が滅び、国王・綽(しゃく)が蜀へ移されたため、遺民たちは遼東へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮(智淮氏燕ちえしえん)を再興しました。

BC221年、ディオドトス1世、秦王政が中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝と称します。

BC213年、秦始皇帝(ディオドトス1世)による焚書坑儒事件が起こります。」
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201008240002/
Posted by オクト at 2014年04月06日 23:04
「箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者は、慶州に馬韓の分国をたて、辰韓と称しました。この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。

北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地、吉野ヶ里を譲られ倭奴国(秦王国)としますが、後に神武と公孫氏に敗れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。

馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。

このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になり、新羅史では金氏の祖の首留、日本史では孝元天皇になっています。」
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201008240002/


孝元天皇・・・ツイッターで考察したが、何だっただろう?
吉備の国でだったろうか・・・
Posted by オクト at 2014年04月06日 23:13
「タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンにかけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。」

wikipedia『イシク・クル湖』より、

「イシク・クルの湖底には、多数の遺跡が水没している事が確認されている。湖畔の砂浜には陶器など、湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せることが有る。なぜ遺跡が存在するかは未だに謎である。この件に関しては何度か潜水調査が行われ、遺跡は1つではなく、様々な時代の遺跡が水没している事が判明した。その内の1つに、曾て湖畔に存在したという烏孫の赤谷城が有る。」

2月22日のツイッターでソグディアナを考察していて、イシク・クルを通った。
昭武九姓、ソグド人・・・焦点が定まらないが、定まってきているのか・・・
Posted by オクト at 2014年04月06日 23:40
ギルガメッシュ・・・

「ギルガメシュまたはビルガメシュは、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王(在位:紀元前2600年頃?)。数多くの神話や叙事詩に登場するこの王は実在の人物であったと考えられている。

シュメール王名表によれば彼はリラの息子であり127年間在位した。彼は数多くの神話に登場するが、その実際の姿は殆ど分かっていない。後世の伝承にはギルガメシュが偉大な征服王であったかのような記述やキシュと戦いこれを征服したという記述もあり、シュメールで覇権的地位を得た人物の一人であると考えられている。他に彼の業績としてウルクの城壁を建造したことが重要視され、バビロン第1王朝時代にも引き合いに出されている。

後にギルガメシュは冥界の王として崇められ、畏れられるようになった。

時代が下ってもギルガメシュの名前は知られていたが、その神的性格は失われた。たとえばマニ教の聖典『巨人たちの書』にはギルガメシュが登場するが、ここでは単なる巨人の一人であるとされている。

また15世紀のアラビア語呪術文書には悪霊の一種ジルジャメシュという名称がみられるが、これもまたギルガメシュの零落したものだろうと考えられている。」-wikipedia『ギルガメッシュ』より


「ウルク第一王朝の王であるギルガメッシュは、在位一二六年間に及ぶ長命な人物で、その体格も残されている彫像を見る限り、信じ難い高さである」
http://www.gaiawave.net/nature/kima-4.html

ギルガメッシュ・・・今朝、思索中にこの王に出会い、その笑顔が閣下に替わっていった・・・

wikipedia『ウルク』より、

「ウルク(ウヌグ、アッカド語: Uruk)は古代メソポタミアの都市、又はそこに起こった国家。古代メソポタミアの都市の中でも屈指の重要性を持つ都市である。都市神はイナンナ。イラクという国名の由来ともいわれている。

イラク南部のサマーワにあるワルカ遺跡がウルクである。
旧約聖書にはエレクとして登場する。


シュメール初期王朝時代に入ると、ウルク市は大々的に拡張された。シュメール王名表によれば、大洪水の後成立したキシュ第1王朝に代わってウルク第1王朝が成立した。実際には、これらの王朝の存在した期間はある程度重複していると考えられる。この王朝はウルク市の神殿区域の名であるエアンナの名を取ってエアンナ王朝とも呼ばれる。

ウルク第1王朝の王たちの記録は非常に神話的・伝説的である。その創始者メスキアッガシェルは太陽神ウトゥの子とされ、2310年間統治したという。
彼の子孫たちも何らかの神性を持った王として語られる。

「ウルクを建設したる者」エンメルカル、
「牧夫」ルガルバンダ、
「漁夫」ドゥムジ、
そして「ウルクの城壁を建設したる者」ギルガメシュと、シュメール神話における著名な王が続く。ギルガメシュ以降のウルク第1王朝の王については説話がほとんど残されていない。」
Posted by オクト at 2014年04月07日 09:34
wikipedia『ギルガメシュ叙事詩』より、

「ウルクの王ギルガメシュは、ウルク王ルガルバンダと女神リマト・ニンスンの間に生まれ、3分の2が神で3分の1が人間と言う人物であった。

ギルガメシュは暴君であったため、神はその競争相手として粘土から野人のエンキドを造った(写本そのものが粘土板から作られていることにも注意)。

ギルガメシュがエンキドに娼婦(シャムハト w:Shamhat、女神イシュタルに仕える女神官兼神聖娼婦という版もあり、彼女の役割に付随するニュアンスが少々異なる)を遣わせると、エンキドはこの女と6夜7日を一緒に過ごし、力が弱くなったかわりに思慮を身につける。

その後、ギルガメシュとエンキドは力比べをするが決着がつかず、やがて二人は友人となり、さまざまな冒険を繰り広げることとなる。

二人はメソポタミアにはない杉を求めて旅に出る。杉はフンババ(フワワ)という怪物により守られていたが、二人は神に背いてこれを殺し杉をウルクに持ち帰った。

このギルガメシュの姿を見た美の女神イシュタルは求婚したが、ギルガメシュはそれを断った。

怒った女神は「天の雄牛」をウルクに送り、この牛は大暴れし、人を殺した。

ギルガメシュとエンキドは協力して天の雄牛を倒すが、怪物を殺したこととイシュタルへの侮辱に神は怒り、エンキドは神に作られた存在ゆえに神の意向に逆らえず死んでしまった。」
Posted by オクト at 2014年04月07日 09:43
wikipedia『ギルガメシュ叙事詩』より、

「ギルガメシュは大いに悲しむが、自分と同等の力を持つエンキドすら死んだことから自分もまた死すべき存在であることを悟り、死の恐怖に怯えるようになる。

そこでギルガメシュは永遠の命を求める旅に出て、さまざまな冒険を繰り広げる。多くの冒険の最後に、神が起こした大洪水から箱舟を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティム(『アトラ・ハシース』)に会う。

大洪水に関する長い説話ののちに、ウトナピシュティムから不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまう(これにより蛇は脱皮を繰り返すことによる永遠の命を得た)。ギルガメシュは失意のままウルクに戻った。」
Posted by オクト at 2014年04月07日 09:45
wikipedia『アトラ・ハシース』より、

「アトラ・ハシース(Atra-Hasis、「非常に賢い」、英: Utnapishtim - 「ウトナピシュティム)」とも)は、紀元前18世紀にアッカド語、粘土版3枚で記された叙事詩の主人公の名前。 シュルッパクの王名表に名前が見つけられる。

粘土版1
アヌ(天)、エンリル(風)、エンキ(水)による宇宙の創造(創造神話 )
エンリルは、下位の神々に農業、治水を命じる。
40年後、下位の神々は反乱を起こす。
エンキは、人間をつくって農業と治水を行わせることを提案。
 
母神ニンフルサグ(マミ)は、死んだ知恵の神ゲシュトウーエ(Geshtu-e)の肉と血を混ぜた粘土で人間をつくる。
神々は粘土につばを混ぜる。10か月後、人間が誕生。
 
人間の過剰人口、疫病、アトラ・ハシース

粘土版2

人間の過剰人口、エンリルは人口を減らすために飢餓と旱魃を1200年毎にもたらす。
エンリルは、人間を破壊するために洪水を起すことを決める。

粘土版3

洪水物語(ギルガメシュ叙事詩粘土版11に改めて記される)
エンキは、シュルッパクのアトラ・ハシースに、家を解体して船を造り、エンリルが起そうとしている洪水から避難する術を話す。

アトラ・ハシースは、彼と彼の家族、動物と船に乗り扉を閉める。 嵐と洪水が起こる。
7日後、アトラ・ハシースは神々に生け贄を捧げる。

エンリルは、エンキが計画を漏らしたことを怒る。
エンキとエンリルは和解。」
Posted by オクト at 2014年04月07日 09:52
4日の朝のテレビで、皇居の乾通りの一般公開のニュースを見て、見どころは道灌濠と知った。
初日は締め切りに間に合わなくて、帰ってきてから、閣下に再度、今日チャンスをいただけるようにお願いした。

今日は11時前くらいには大手町駅に着き、信号のところから行列に合流した。
坂下門を入る前に手荷物検査とボディチェックがあるのだけど、そこに辿りつくまで2時間くらい、大行列の中に居た。
検問の手前はひどく混み合っていて、離れないように閣下の腕にしがみついていた。
道灌濠も見逃さず撮影することができた。
神楽坂で食事して、とても疲れを感じたので、帰宅した。

終わりに近づいているのは感じていたけど、いつになるかは分からなかった。
電車を降りて、閣下に手を振って、過ぎ行く車内の閣下を見送った後、悲しくなって、終わりが来たのだと分かった。

今、ずっと組んでいた閣下の腕を感じてる。
出逢ってからずっと、ずっと、とても礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で、エスコートも上手で、どんな場面でも苛立ちを見せず、「オクトさん」と微笑みながら応えてくれた。
どんなに怯えて、無意味に錯乱しても、「大丈夫です」と返信してくれた。


今日、やっと皇居に一緒に入れた。
これが時だと感じる。
2時間、行列の波のうねりに身を任せて、ぴったりと寄り添って閣下と歩いて、そして、おそらくこれが機関への帰命の証なんだと。

ギルガメッシュまで来て、オクトは終了です。
みなさま、ありがとうございました。

閣下を、なにとぞよろしくお願いいたしますm(._.)m
Posted by オクト at 2014年04月07日 17:54
ぜろさん 愛されてるのね光るハート大人気者なのね光るハート
最近忙しそうで人気者で大変だけどあたしのものだからね光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハートヤキモチ光るハート



Posted by あ at 2014年04月08日 13:29
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