2014年03月04日

愛と自己という錯覚

引き続き、カルキ・バガヴァンの話だが、
冒頭の「自己(self)」は「自我」のことである。

心理学では「自己(self)」は「真我」のことだが、
以下に書かれているのは「自我」のことである。

『愛と自己という錯覚』

自己(self)は錯覚を生じさせます。
自己は本当には存在しません。

単に感覚器官の協調により発生したものです。
いろいろな心理的要素がそれを創り出しています。

それ自身の存在はありません。
常に、あなたはあなたがいると推測しているでしょう。

あなたはあなたがいると強く感じています。
それは、誰かがあなたを愛するときに起こります。

あたかも、あなたはあなたが居るように感じています。
そうすると、あなたは必要とされているように思います。

それは、大きな安心感と心地良さをあなたに与えます。
だから、あなたは愛を渇望するのです。

『あなた自身が愛だ』ということを発見しさえすれば、
あなたは、もう愛を乞うことはなくなります。

あなたがこれまで話してきた愛は、ただ愛を乞うているだけです。
ただ、愛を乞い続けていただけです。
もう、愛を乞うことはなくなります。

でも、この本当の愛を発見すると、
あなたはただ愛を与えるようになります。

本当の愛を持つと言うことは、ほとんど悟ることと同じです。
あなたが悟るとあなたはそこにいません。
あなたがそこに居なく、あるのはただ愛だけです。
こうなると、あなたは愛を乞いません。

でも、まだそれが起こっていないうちは、不安や恐怖があります。
しかし、瞬間毎に自己は壊れ続けています。
そのため、それは何かを所有しなければなりません。

この土地は私のだ。
私はこの学位を持っている。
私はこの仕事を持っている。
私はこの事業を持っている。
私はこの名前を持っている。
私はこの名声を持っている。

これらのすべてがあなたを強化します。
だから、あなたは、これらをほしがっています。
これらの中で、一番強い強化は愛です。

誰かがあなたを愛している。
誰かがあなたのことを思ってくれている。
それが、あなたの存在の維持を助けます。
だから、あなたは常にそれらを追い求めます。

その人があなたより良い人を見つけた瞬間、あなたは終わりです。
それは、あなたがもう必要とされていなく、
それによりあなたの崩壊が始まるということです。

最近新聞にハーバードの学生が恋に落ちたとか、
それで相手の女性がそれに応じなかったので
殺してしまったとか書いてありましたね。

私の信望者の中にさえも、以前にこのダルマを見つける前に、
そういう人たちがたくさんいました。

ある人を好きになり、相手がそれに応じないと殺してしまいます。
または、悪態をつきます。それって、どんな愛なのでしょう。

あなたは、『彼女は世界で一番すばらしい人です。
彼女を愛しています。』と言っていたのに、

彼女が他の人が好きだと言った瞬間に殺してしまいます。

あなたは彼女が自分より良い相手を見つけたことをお祝いするのではなく…
あなたはそんな風にはしませんね。

『あなたが誰かを愛している』というとき、
それは『あなたがあなた自身を愛している』ということです。
じゃあ、このような愛とはいったいなんでしょう。

『あなたが誰かを愛している』というとき、それは
『あなたがあなた自身を愛している』ということです。
ただそれだけなのです。

あなたは決して誰をも愛することはできません。
そんなことがどうしてできますか。
あなたはあなた自身を愛することしかできません。

それで、あなたは『私はあなたをとても愛しています。』と言います。
また、『私は彼らをとても愛しています。』と言います。

これは、『私は私自身をとっても愛しています。』ということです。
『私が生存するのにたくさんの愛が必要です。』ということです。

そうしなければ、私は消えてしまいます。
私はそれを非難しているわけではありません。
ただ、状況を説明しているだけです。

私は皆さんに『恋に落ちてはいけない』とか、
『無になって完全に安心しなさい。』とか
そんなことを言っているわけではまったくありません。

私は、『それが人生の真実です。だから、どうぞ、おやりください。』
と言っているのです。

それは別に害ではありません。

私自身『私はこの人と結婚したい。』とか
『私はあの人と結婚したい。』とか言う人に、
いつも完全に祝福を与えて帰します。

このように、その人のレベルに合わせて
私たちは機能しなくてはなりません。


転載終了

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最近、「他人は存在しない」という話ばかりしてきたが、
本当は「自分も存在しない」のである。

肉体も実在ではなく、
自我(人間としての自分の意識)も実在ではない。

自分という人間が存在し、
自分の意識(心)が存在すると思っているのは、
錯覚であり幻想なのだ。

この世が「真我が見ている夢」であることを思えば、
理解できるのではないだろうか。

信じられないのも無理はないが、
最先端科学である量子力学でも認められている事である。

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また、真我に目覚めるというのは、
文字通り、真我が夢から覚めることであり、
「この世は夢だった」と気づくことである。

当然ながら、
「人間としての自分の意識は本当の自分ではなかった」
という認識が伴うことになる。

故に、自我を「偽我」とも呼ぶのだが、
人間として生きている間は自我は完全には消えない。

真我が完全に覚醒していないうちは、
「この世は夢だ」という自覚はあっても、
まだその夢を見ている状態なので自我も残っているのだ。

人間として生きているということは、
「自我が覚醒している」ということなので当然である。

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従って、真我に目覚めた者の最大の特徴は、
「真我」と「自我」の2つの意識があることである。

自我の意識が2つあれば精神分裂だが、そうではない。
また、自我は真我の投影なので二重人格というわけでもない。

真我が目覚めていないというのは、
自我が100%覚醒している状態である。

逆に、真我が覚醒し始めると自我は希薄化し、
世界認識が反転して自我の感情を支配する立場となり、
あらゆることが人間の意識(自我)とは正反対になる。

『般若心経』に書かれている「観自在菩薩の悟り」も、
「自分は存在しない」という気づきであり、
それによって「救われた」ということが記されている。

即ち、真我に目覚めて輪廻を解脱したということで、
それが前回も書いた通り「真の救済」なのである。

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真我に目覚めると「真の愛」を知り、
自我の感情も希薄になるので、
恋愛感情というものも消えていくことになる。

実際に私は覚醒が始まってから恋愛感情を持ったことがないが、
もし全人類がそうなると、家庭を持ったり子孫繁栄の問題は、
一体どうなるのかという疑問があると思うが、
その話は長くなるので別の機会に詳述したいと思う。

カルキによると、自我(自分が存在するという意識)
を強く感じるのは、誰かが自分を愛するときに起こるという。

そして、自分が必要とされているように思い、
大きな安心感と心地良さを感じ、愛を渇望するようになるという。

真我に目覚めれば、誰かに愛されたり必要とされても、
それによって大きな安心感や心地良さを感じたり、
愛を渇望するようになることはないが、
自我で生きている間はカルキの言う通りだと思う。

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真我は「スーパーラブ」である為、
真我に目覚めると愛を乞うこともなくなる。

カルキも「ただ愛を与えるようになる」と表現しているが、
それは「見返りを求める愛ではない」という意味である。

私から言わせれば、「愛は循環するエネルギー」であり、
よく言われているように「与える一方」ということはない。

例えば、5次元の世界では人類は愛を与え合っているが、
「与え合っている」ということは
「受け取ってもいる」ということである。

真我に目覚めると5次元のスーパーラブが流れ込んでくる為、
つまり、無限の愛を受け取っているから、3次元の世界では
「見返りを求めずに与えるだけ」で良くなるのだ。

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と言っても、愛を与えようと意識しているわけではなく、
流れ込んでくる愛を自動的に放射しているだけであり、
コップに水を注ぎ続けて常に溢れ出ているようなものである。

この世は自分の真我の愛に包まれ、満ち溢れているが、
それを感じるということは、
愛のフィードバックが起きているということになる。

つまり、3次元の世界では「見返りを求めずに与えるだけ」
とは言っても、実際には「愛が自分の内外を循環している」
と言えるだろう。

即ち、人類愛を持つということは、
同時に人類から愛を受け取っていることになる。

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要するに、スーパーラブが自分の肉体(胸)を媒介して、
5次元と3次元を循環していると表現しても良いと思う。

それによって、愛に満たされているから
「求める」という気持ちがないだけで、
実際には供給されているから
「与えるだけ」という表現になるのだが、
「与えよう」という意志があるわけでもない。

「太陽は真我の投影」だという話を度々しているが、
太陽も「人類に光と熱を与えよう」
と意識しているわけではないと思う。

もちろん、生命の生育を前提とした初期設定によって、
太陽系が創造されたことは疑う余地はないが、
太陽もエネルギーを放射しているだけではなく、
シリウスからエネルギーを受け取っている。

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そして、「ブラックプラズマ」と言って
エネルギーを吸収する現象があるが、
イエスが処刑された時、
太陽が6時間も輝きを失ったことが記録されている。

6時間も続く日食などないので、その時、
太陽はブラックプラズマとなって
周辺の宇宙空間からエネルギーを吸収していた可能性がある。

もちろん、それとイエスの死は無関係ではなく、
イエスが太陽神のアバターだったことを示している。

イエスが言う「天の父」とは「ハイヤーセルフ」のことだが、
イエスを「太陽」とすると天の父は「シリウス」に対応する。

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「本当の愛を持つと言うことは悟ることと同じ」とのことだが、
真我の覚醒と悟りが同義語であるなら、その通りである。

従って、「真我に目覚めない限り真の愛を知ることはない」
ということを、今まで主張してきたのである。

真我の覚醒を妨げる愛菌を一掃する為には、
それくらい言っておく必要があると思ってのことである。

真の愛に目覚めるまでは、不安や恐怖があるため、
土地や学位、仕事、事業、名声などの所有欲を持ち、
それが自我を強化しているという。

その中で一番強い強化が「愛」で、
自分のアイデンティティの維持の為に、
他者の愛を追い求めてしまうのだという。

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真我に目覚めていないことを「無明」というが、
Wikipediaには次のように説明されている↓

「無明とは、仏教用語で、迷いのこと。
また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である」


つまり、輪廻を繰り返すということは、
無明(闇)の煩悩世界を迷い続けているということである。

そして、真我に目覚めた時に智慧の光で真理を悟り、
我というものが存在するという見解(我見)と共に
一切の苦が消滅するのである。

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仏教では「六道輪廻」が説かれているが、
1つは人間道(人間界)で、残りの5つが霊界である。

霊界には無限の種類の世界が存在するが、
大別すると5つの世界「餓鬼道」「修羅道」「畜生道」
「地獄道」「天上道」ということになるだろう。

で、天上道(天国)の天人も煩悩が残っている為に
人間道に転生するとされているが、モンロー研究所でも
その世界(フォーカス27)は「輪廻転生地点」と定義されている。

要するに、煩悩が輪廻を繰り返す原因だということだが、
釈迦は煩悩の根源は「渇愛」であると説いた。

渇愛とは「欲しい」という求める気持ち、
即ち「欲望」のことだが、
その根本的なものを「生存欲」だと説いている。

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だからと言って、「死にたい」と思って自殺しても
輪廻を解脱できるというわけではない。

何故なら、苦しみから逃れたい一心で肉体生命を断つだけで、
生前と同じ「苦の世界」に移行するからであり、
再び転生した時も前世と同じ苦の人生を体験することになる。

つまり、無明ゆえに輪廻を解脱することができないのだが、
苦は意識進化の為には絶対に不可欠な前提要素でもある。

話を戻すが、人間の根源的な本能である
渇愛(生存欲)を克服しようとして不可能である。

では、どうすれば渇愛を克服することが出来るのか……。

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先のWikipediaの説明では、
「すべての苦は無明(迷い)を原因とする煩悩から発生する」
と書かれていた。

つまり、真我に目覚めれば、
「生死解決」によって「生命の永遠性」を悟り、
「生に対する執着」から解放されるということなのだ。

しかし、なぜ生存欲を「渇愛」と呼ぶのか謎だったのだが、
先ほどのカルキの説明で氷解した↓

「あなたはあなたがいると強く感じています。
それは、誰かがあなたを愛するときに起こります。
あたかも、あなたはあなたが居るように感じています。
そうすると、あなたは必要とされているように思います。
それは、大きな安心感と心地良さをあなたに与えます。
だから、あなたは愛を渇望するのです。
『あなた自身が愛だ』ということを発見しさえすれば、
あなたは、もう愛を乞うことはなくなります」


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また、カルキはこう言っている↓

「『あなたが誰かを愛している』というとき、
それは『あなたがあなた自身を愛している』ということです」


他者は自分の投影なので当たり前の話だが、
もりけん氏も「誰かに恋をするのは自惚れだ」と言っている(笑)

前々回の記事でも転載したが、
バシャールは次のように語っている↓

「殆どの人があと一歩のところまで来て、もうちょっとで
完全に自分自身を無条件に愛せるところまで来ながら、
本当にあとホンの一押しの所で
自分自身を信じるところに持っていけないんです。
でも、大丈夫なんだよ・・・ 大丈夫なんだよ・・・
自分に惚れ込んじゃっていいんだよ。
惚れ込むだけの価値があるんだから」


もちろん、一般的に言う「自惚れ」とは質の異なるもので、
「自己肯定感」の話に繋がるものである。

自己肯定と自己実現
http://new-mu.seesaa.net/article/389954492.html


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posted by ZERO at 21:01| Comment(0) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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