2014年05月15日

すべての望みが叶う方法

次は、第2章から一部抜粋する↓

「ゆるし」ってなに?

愛とスピリットを中心に考えれば、
ゆるしとは過去の傷を喜んで手放すことです。

つまり、これ以上苦しむのをやめ、
心と魂を癒やそうと決めることです。

憎しみや怒りには価値があるという考えを手放すことです。

すべては過ぎ去ったことなのですから、
自分に何かが起こったからといって
人や自分を傷つけるのはやめることです。

人を裁いたり責めたりせず、目を開いて、
その人の中に光を見いだすことです。

ゆるしは、内なる安らぎと、幸せに続く道です。
そう、魂へと続く道なのです。

安らぎは、いつでも手に入れることができ、
どんなときも私たちを迎え入れてくれます。

怒りにこだわっていると、
その歓迎のしるしが見えなくなるのです。

なのに、どういうわけか、私たちの中には、
憎しみや怒りや苦痛にしがみついたままでも、
安らぎを得られると思い込んでいる自分がいます。

自分を守らなければならないと考え、
いつまでも憎み続け、復讐しようとしながらも、
幸せや安らぎを感じたがる自分です。


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引き続き抜粋↓

ゆるしの道を歩む

ゆるしは旅にたとえられます。
怒りが怒りを呼ぶ世界から、平和な世界へと向かう旅です。

この旅の向こうには、スピリチュアルな自分がいます。
神の心が待っているのです。

それは無限で無条件の愛に満ちた、新しい世界です。
ゆるすことで、心にある望みのすべてが叶います。

怖れや怒りや苦痛から解放され、
自分があらゆる生命やスピリチュアルな
源とひとつなのだと、実感できます。

ゆるしは、暗闇を抜けて光にいたる道です。

私たちはゆるすためにこの地上に生まれたのであり、
ゆるすことによって
自分が世界を照らす光なのだとわかります。

ゆるせば、過去の影から自由になれます。
私たちは、怖れや怒りという檻の中に、
心を閉じ込めてきました。

ゆるしはその監獄の扉を開け放ちます。

どうしようもない過去を変えたいという
思い込みや願望からも自由にしてくれます。

恨みという傷は、ゆるすことで浄化され癒されます。
神の愛は実在するのだと、ふいにわかります。

実在するのは愛だけで、ほかには何もありません。
神の愛の中では、ゆるすべきものさえないのです。

『奇跡についてのコース』に、
ゆるしについての美しい文章があります。

ゆるすことでどんな恵みが得られるかを
見事に描写していますから、引用しましょう。

「ゆるせば、すべての望みが叶う」

ゆることで手に入らない望みなどあるだろうか。
あなたは安らぎがほしいか。
ゆるせば、安らげるだろう。
幸せになりたいか。
静かな心でいたいか。
はっきりした目的がほしいか。
この世を超越した価値と美を感じたいか。

護られ、安全でありたいか。
いつも純粋な温かさに包まれていたいか。
乱されることのない静けさ、
絶対に傷つけられることのない優しさ、
深く続く慰め、決して妨げられることのない
完全な休息がほしいか。
ゆるすことで、これらすべて、
いやそれ以上のものが手に入れる。

ゆるせば、目覚めのとき、目はキラキラと輝き、
新しい1日は喜びに満ちたものになる。
ゆるしは、あなたが眠っている間に額を愛撫し、
まぶたにそっと留まって、
悪夢を見ないように護ってくれる。
そして再び目を覚ませば、
幸せと安らぎに満ちた1日が始まるのだ。
こうしたすべて、いやそれ以上のものが、
ゆるすことで可能になる。


●ゆるしとは、後悔をすべて手放すこと。

●愛とゆるしは奇跡をもたらす。

●「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。


転載終了

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ゆるしの道の向こうには、
無限で無条件の愛に満ちた平和な世界があり、
スピリチュアルな自分(神の心)が待っているという。

無限で無条件の愛に満ちた平和な世界は5次元の世界で、
スピリチュアルな自分(神の愛)とは「真我」である。

人間の真我は眠っている状態で、
その真我が見ている夢の世界が「この世」である。

従って、5次元の世界で「待っている」という自分は、
ハイヤーセルフということになる。

ハイヤーセルフは「高次の自己」と説明されているが、
私は「深奥の真我」と呼んでいる。

具体的に言えば、自分の過去世や未来世で
輪廻を解脱した「自分たち」の霊魂のことで、
その集合体がトータルセルフ(大いなる自己)である。

私はトータルセルフという言葉を知らない頃に、
5次元でトータルセルフと邂逅し、
それが自分の「本体の霊魂」であること知り、
現世の自分の霊魂(真我)が
トータルセルフの分身であることを知った。

そして、現世の自分と直接関係するハイヤーセルフが、
「臨時の自己(真我)」として守護神や指導霊の働きをし、
現世の自分の霊魂(真我)の覚醒をサポートしているのだ。

「守護霊や守護神がいない人も多い」という霊能者もいるが、
ハイヤーセルフは必ず1人に1体はついていて、
低級な霊能者には5次元の霊体が知覚できないだけである。

また、肉体の背後や周辺に直接ついているわけではなく、
胸を入口とする5次元の世界に存在しているのである。

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「自分があらゆる生命やスピリチュアルな源と
ひとつなのだと実感できます」

「自分が世界を照らす光なのだとわかります」


これらは真我の覚醒によって認識できるようになり、
イエスも「わたしは世の光である」と言っている。

「ゆるしはその監獄の扉を開け放ちます」

監獄の扉は心の扉である「天の岩戸」であり、
それが開くことによって世の光である太陽神
「天照大神」が現れるのである。

太陽神で象徴されるイエスが、
「わたしは汝の手や足よりも近くにいて、
心のドアをノックする者である」
と言った意味がお分かりだろう。

「私たちはゆるすためにこの地上に生まれた」

これについては、否定も肯定もしない。

生まれた目的は人それぞれだからだが、
許すこともほぼ万人共通の目的の1つではあるだろう。

但し、「他者を許すこと」の本質は、
あくまでも「自分を許す」ということであり、
それが「許して下さい」という言葉の真意なのだ。

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他者が自分の投影であることを理解すれば分かると思うが、
キリスト教の教義でも、
「アダムとイブの原罪によって、人間はみな悪人だが、
キリストを信じて懺悔することで救われる」とされている。

これは親鸞が説いた「悪人正機」と「他力本願」と一致する。

一言で説明すると、全ての人間は悪人であり、
自分が悪人であることを自覚した者こそ、
阿弥陀仏の本願力(他力本願)で救済されるという。

浄土真宗とキリスト教の教義と信仰形態は同じで、
私もよく理解していて同感ではあるが、
私は「性善説」を支持する立場でもある。

全ての人間が悪人というのは、
あくまでも動物としての人間のことであり、
実相である真我(魂)は神の子である。

神の子とされているイエスが、
本当は何を象徴しているかと言えば、
万人の胸に内在する救い主(キリスト)である真我。

キリストを信じて許しを乞うというのは、
外在神としてのイエスという特定の個人ではなく、
内なる神である真我を信じて
「ご免なさい、許して下さい」と唱えることである。

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私がよく言う皮肉だが、2000年経った今も
十字架に磔にしたままのイエスの偶像を崇めるのは、
イエスの教えに背いた反キリスト教である。

私が「反キリスト」を名乗っているのは、
それとは逆の意味であり、
体主霊従主義を流布して人類の真我覚醒を妨げてきた、
キリスト教に反対する者という意味である。

但し、私は立場上、そのように主張しているだけで、
キリスト教が果たしてきた
「御用の悪」としての役割も十分に理解している。

真我は宗教的に「神性」や「仏性」と呼ばれているが、
それが人間の本質であり、本来信仰するべき
唯一の内在神(阿弥陀仏=キリスト)なのだ。

日蓮は「他力本願」を批判し、
全く正反対の「自力」を説きながらも、
浄土真宗やキリスト教と同じことを説いていたことになる。

日蓮が説いた自力とは、人間としての自分の力を超えた、
内在神(阿弥陀仏=キリスト)の本願力のことだからである。

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ついでなので書いておくが、イエスは処刑される前、
「彼らをお許し下さい」と神に祈ったそうだが、
それが事実だったかどうかは疑問に思う。

覚醒していたイエスの世界観からすれば、
死刑執行人も自分の投影だとが分かっていたはずで、
ホ・オポノポノの原理である「全責任は自分にある」
ということを分かっていたから人類の罪を背負い、
自ら処刑されるように仕向けて処刑されたのだから、
「私をお許し下さい」と語ったはずだと思うのである。

だが、そのイエスの言葉の意味が
理解できない者たちが集まった宗教会議で、
「イエスの言葉はおかしい」ということになり、
聖書が改竄されたのだと考えられる。

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それでは、抜粋記事の解説の続きに戻そう。

「過去を変えたいという願望からも自由にしてくれます」

未来を変えたいという人も多いが、
自分の未来がどのようなものかも知らないのに、
変えたいと思うのはおかしいと思う。

おそらく、不満な現状のままか、
もっと悪くなるという勝手な思い込みによる予測を
前提にしているのだと思うが、時系列で話をすると、
未来は原因である「今」の想念や潜在意識の投影である。

望む未来を選択する為には、
何が重要であるかは説明する必要もないだろう。

望まない現在の状況さえも、
過去の想念が望んで選択したことであり、
過去の潜在意識の投影なのである。

こんな現在は望んでいなかったという人もいるが、
『神との対話』にも説かれていた潜在意識の法則、
「SOS(そう思ったらそう)」を理解すれば、
人生は全て思い通りに展開していることが分かる。

「過去を変えたい」という話だったが、
本質的には、過去・現在・未来は同時に存在している為、
現在の意識や認識を変えることにより過去も変わることになる。

人間の意識が過去を変化させることは、
量子力学の実験でも証明されているが、
実際に過去に対する認識を変えれば、
その通りのパラレルワールドに移行すると考えられる。

まずは、過去と現在を肯定して謝罪と感謝をし、
全てが必然・必要・ベストで最善であると思うことだが、
具体的に理解する為には内観をするしかないだろう。

「現在を祝福することは過去を、未来を、総てを祝福することぞ。
たとへ如何なる現在も、その現在を祝福せねばならん。
喜びせねばならん。喜びもとと申してあろうがな」


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作用・反作用の法則があるなら、宇宙が出来た瞬間に
宇宙の終わりまでの運命が決定すると同時に、
宇宙の終わりから宇宙の始まり(未来から過去)に
流れる時間軸も存在するはずである。

故に、運命は一応決まってても、
「今」の意識によって変更も可能で、
未来だけではなく過去も変えられることになる。

また、前世・現世・来世があったとしても、
全ては「今」という瞬間の中に畳み込まれてるからこそ、
自分の過去世や未来世のハイヤーセルフが存在するのだ。

6次元の天人合一の体験では、
永遠の今を体感していたような気がする。

宇宙の初めから最後までの時間は、
今この一瞬にしか存在してないような……。

自分は宇宙の初めから終わりまで存在するけど、
それは今この瞬間であるような……。

言語では説明困難だが、無限の時間を
「無時間の今」という空間と融合していた……
というような、奇妙な表現しか出来ない。

最近は日常的にそのような領域に入ってしまって、
色々と戸惑うことが多くなって来たが、
そういう人が増えることによって、
新しい世界であるミロクの世
(第8太陽系次元)が創造されていくのだろう。

『日月神示』には次のように示されている↓

「過去もなければ、現在もなく、未来もない。
只存在するものが生れに生れつつある」

「一切の未来も一切の過去も、総てが現在ぞ。
中今ぞ。このこと判るが善ぢゃ。
神は総てを知っているのぞ。現在は永遠ぞ」

「過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、
生前も死後の世界もまた神の中にあり、
地上人としては地上人の中に、霊界人にありては
霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している」


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話を次に進めよう。

「実在するのは愛だけで、ほかには何もありません」

SOS(そう思ったらそう)なので、
そう思う人はそれで良いと思うが、
そのような信念を持っている限り、
それ以上の意識進化は望めないだろう。

愛とは何かを理解していない段階で、
「愛が全てである」と決めつけることは出来ないはずだ。

私は私なりに「真の愛」をいつも感じているので、
人々がいう愛とは人間のエゴ的な愛情や恋心は、
スマナサーラ長老がいう「愛菌」という言葉が相応しい。

私は「真の愛」こそが全てだという認識があるが、
それは今のレベルの私がそのように感じているだけで、
それが絶対だと断言できる証拠もない。

『日月神示』によると、
宇宙は神の中に生み出されたそうだが、
それを前提とするしないに関わらず、
とりあえず神がすべてのすべてだとすると、
愛が神の働き・エネルギーの一面だとしても、
「神=愛」かどうかなど私には分からない。

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『新約聖書』には次のように記されている↓

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、
この三つである、しかし、その内、最も大いなるものは愛である」


前にも紹介したが、この後に続く文章が消されていた事が判り、
1945年に発見された、ナグ・ハマディ文書の中の
「ピリポによる福音書」に全文が載っていて、
キリスト教の根幹を揺るがす資料として注目されているという↓

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、
この三つである、しかし、その内、最も大いなるものは愛である。
しかし、信仰と希望と愛より大いなるものは知識である。
愛は、むしろ知識の結果なのである」


『波動の法則』によると「愛は陽子」らしいが、
全部で12まである意識次元の中で、
愛(陽子)は下から7番目に位置し、
その上の8番目に「知識」が位置するという。

愛(陽子)の働きは「自他の区別を無くす」ことらしいが、
半田氏の著書『シリウス革命』にも、
愛より知識が上の次元であることが詳述されているという。

その「知識」とは何かというと、
全ての二元性を統合するために必要な知識(智慧と力)で、
それは「観察精神」によってもたらされるそうだが、
内観によって生死解決(認識の完全化)が進むことを思えば、
理解して納得ができるように思う。

『神との対話3』でも「知識の重要性」が強調されていて、
内容的には共通するものだと言われている。

愛を超越する知識と自我の確立@
http://new-mu.seesaa.net/article/385153807.html

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それでは続きの解説を進めよう。

「神の愛の中では、ゆるすべきものさえないのです」

それはその通りだろう。

3次元の世界はあくまでも因果律に基づく結果であり、
投影の世界に過ぎないからである。

従って、神の分身である人間は、
シナリオ通りに動かされている役者であり、
神の愛に包まれた世界の中で「善悪の御用」を演じている為、
初めから許すも許さないもないのは道理である。

だからと言って、反省や謝罪が必要ないということではない。

『日月神示』には次のように示されている↓

「浄化、弥栄することにより、
善悪美醜のことごとくは歓喜となる。
故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。
悉くの行為が批判され、
賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、
以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。
歓喜に審判なく、神に戒律はない。
戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。
このことは神自らを切断することである。
裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべてはこれ
湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない」

「行為は結果である。思念は原因である。
原因は結果となり、結果は只、
結果のみとして終らず、新しい原因を生む。
地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ」


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また、愛について、次のように示されている↓

「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、
更に常に神と共に永遠に生れつつある。
その用は愛と現われ、真と見ゆるも、
愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない」


私は度々、太陽神界に訪れて、
想像を絶する大歓喜を感じていていて、
そのエネルギーの呼吸・循環こそが、
真の愛(スーパーラブ)だと感じた。

そのエネルギーは普段でも多少は感じていて、
自分の内外を循環している喜びによって、
無条件に至福でいられるのである。

内外というのはあくまでも真我の視点では、
人間の外側の世界が内側であり、
この世界が自分の光と愛で満ちていることが分かるが、
人類を平等に愛しているというのはそういう意味で、
イエスが説いた愛も同じものであることが分かる。

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太陽と歓喜と愛というキーワードで、
『日月神示』には次のように示されている↓

「大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる」

「天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、
その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、
現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。
太陽の内奥は大歓喜が存在する。
故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、
遥かにそれらを超越した歓喜の・が感じられるのみである。
この歓喜の・が、真、善、美、愛となって、
多くの天人、天使たちには感じられるのである。
歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、
地上人たちのもつ内質の如何によって千変万化し、
また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ」


また、次のようなことも書かれている↓

『神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、
これを日の霊人と云う。
神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、
これを月の霊人と云う。

月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。
日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、
そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、
直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。

月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。
故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。
地上人はこの月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。

日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、
何等それについて疑いをもたない。
月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、
歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、
批判的となるために二義的の歓喜となる。

以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、
本質的なものではなく、二義的なものである』


私は明らかに「日の霊人」だと思うが、
「地上人として生れ出ることは極めてまれ」という通り、
青木白木上が極めて少ないということとも一致している。

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次でラストである↓

「ゆるすことで、心にある望みのすべてが叶います」

『奇跡についてのコース』に書かれていたことは、
すべて叶うと言ってよいと思うが、
望みのすべてが叶うことはありえないだろう。

不平不満ではなく、あくまでも現状感謝だが、
今のところは望むような生活とは程遠い(笑)

もちろん、全てを完全にを許すことなど
4年以上前に完了している。

「望むから叶わない」ということを繰り返し書いてきたが、
私は何か願望ががあれば、どのような内容のことでも、
「ブレインダンプ」のノートに書き出し(掻き出し)て、
過去完了形で叶ったことを決定し、
その願望を手放して忘れるようにしている。

あとは天流れにお任せで、叶ってよいことは叶うし、
叶うべきことでなければ叶わないと思っている。

それによって実現していることも多く、
時間が掛かることでも実現方向に進んでいたりはする。

また、今は叶う気配が全くなくても、
見通しの神の計らいによって、
ベストタイミングで実現することもあると思う。

そして、4月22日のグランドクロスによる磔の後から、
ようやく徐々に自由性の発揮を感じつつある。

一緒に次の言葉を唱えて頂きたい↓

「私は自由自在です!次!」

「すべての望みが叶いました!次」



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posted by ZERO at 02:31| Comment(2) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
分かりました。全てを許します。許せないと思ってた数十年間なんか馬鹿らしくなりました。許す方が気が楽です。それは前から言われてましたが、耳を傾けなかったからです。もう耳を傾けます。私をいじめた人もひどい事を言った人も許します。どうしても許せなかったら紙に書くかるしふぁー様に相談します。ありがとうございます。
Posted by ルキュエル at 2014年05月15日 23:28
ルキュエルさん、こんにちは。

それは素晴らしいですね!よかったです^^

ありがとうございます。
Posted by ZERO at 2014年05月18日 00:17
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