興味のある方は本を読んで頂くとして、
最初の前置きと各項目だけ抜粋することにする↓
ゆるしは奇跡を起こす
前章のダイアンの話から、気づいた途端に
心の持ちようが変わると分かります。
私たちは怒りを、他人や自分から隠そうとしがちなので、
このことを自覚するのは大切です。
隠された怒りがあると、なかなかゆるせなくなります。
しかも、ゆるさないでいると、苦しみに苛まれ、
いつもピリピリして、人間関係がギクシャクし、
体調が悪くなります。
この章では、過去の恨みを自覚し、
その恨みを手放した例を取り上げます。
みなさんが、これらの体験にインスピレーションを受けて、
ゆるしによって過去を手放せるように願っています。
宗教による傷を癒す
亡くなった人たちをゆるす
職場でのゆるし
どうにもならない災害をゆるす
国の犯罪をゆるす
組織をゆるす
軍隊をゆるす
自分をゆるす
転載終了

各項目の一部でも取り上げたかったが、
要するにあらゆることを許すということである。
但し、社会は自分の投影なので、それを自覚していれば、
「許す」ではなく「許して下さい」ということになり、
更には「有り難う御座います」「感謝します」となる。
また、真我に目覚めると、この世界は
自分の愛で満ち溢れていることが分かるようになるが、
それが認識できなくても、とりえず、
「愛しています」という言霊波動を放射するのである。
「世界は水で繋がっている」という考え方があるが、
液体としての水だけではなく、
大気中に含む水分も含めて地球は「水の惑星」だが、
水の結晶は「愛・感謝」という文字を見せたものが
最も美しくなることをそう考えると、
ZERO式ホ・オポノポノは強力なマントラだと言える↓
ご免なさい 許して下さい 愛してます 有り難う御座います 感謝します
更に、たった2文字で般若心経より波動が高いとされている
「洗心」という言葉を何度か繰り返すと良いだろう。

続いて、第6章より紹介しておきたい話が
2つあるので、以下に転載しておきたい↓
「過去のよいおこない」を語る儀式
ゆるしについてのエピソードをもう1つ、ご紹介しましょう。
これもアフリカの話です。
南アフリカのバベンバ族では、
部族の誰かが不正を働いたり、無責任な行動をとった時、
村の真ん中に一人で座らなければなりません。
もちろん、逃げられないような手立てが講じられます。
村人はみんな仕事をやめ、集まって輪になり、その人を囲みます。
それから、子どもも含めた全員が一人ひとり、
その人が過去にしたよいことについて話し始めます。
その人について思い出せることすべてが、詳しく語られます。
その人の長所、善行、親切な行為などのすべてを、
輪になった一人ひとりが詳しく語るのです。
村人たちは、これ以上ない誠実さと愛を込めて話します。
誇張もでっちあげもゆるされません。
不誠実な態度や、皮肉な態度をとる人もいません。
その人を共同体のメンバーとしていかに尊敬しているか、
村人全員が話し終えるまで、この儀式は続きます。
それは数日間に及ぶこともあります。
最終的に輪が崩されると、
その人を部族に再び迎え入れるお祝いが始まります。
この儀式が美しく伝えているように、愛を中心に考えれば、
ただ一体感を取り戻すことと、ゆるしがあるだけです。
輪の真ん中に居る人も、輪になっている人々も、
ゆるすことによって、過去や怖れに満ちた未来を
手放せるのだと、思い出すのです。
輪の中心に居る人は、悪人というレッテルを貼られて
部族から追放されたりはしません。
その代わり、一人ひとりが自分の中にある愛を思い出し、
周りのすべての人たちと一体になるのです。
転載終了

今の話は長所伸展法に通じる風習で、
現代の日本の教育とは全く正反対である。
「教育破壊」を提唱してきた私だが、
もちろん、この部族の風習には賛同する。
だが、もし、村人を大量虐殺して、
放火した場合はどうなるのだろうか(笑)
それは冗談だが、真剣な疑問でもある。
どこかに監禁した上で、上記と同じような儀式を行ない、
さらに1年くらいは食事制限と内観をされる必要がある。
また、その者も村人一人ひとりの投影なのだから、
村人全員が自分の潜在意識の浄化を図ることが重要である。

本質的には親も含めて全ては自分の投影で、
自分の世界に於いては親も自分が生んだものだが、
3次元的には親は自分を生んだ縦の繋がりの直である。
従って、自分の次に親が最も大切ということになるが、
横の繋がりの直である兄弟姉妹との調和も重要となる。
そこで、第6章のラストである以下の記事を転載しておく↓
(漢字で書けよと思うのだが、原文通りに転記する)
きょうだいのゆるし
最も厄介な争いや恨みは、しばしば家族の間にもあるものです。
数年前、ホノルルで講演した時、一人の中年男性が、
「ちょっとお話したいのですが」、と、私に近づいてきました。
部屋に居た人はみんなカジュアルなシャツを着ていたのに、
彼だけは背広姿だったので、
何となく医者だろうと思っていたところ、実際そうでした。
彼は「私は弟と口論して六年間、絶交していました」と言いました。
ところが、私の本『愛と怖れ』を読んでゆるしの大切さに気づき、
弟に電話する決心をしたというのです。
そして、電話に出た弟に、
「過ぎたことは水に流そうじゃないか」と言って、
次の週に会う約束をしました。
その日、昼食をともにした人は、
過去の出来事については何も語らず、
和やかな話に終始したそうです。
2人はお互いへの愛だけを深く感じたのでした。
彼は私に、「もしあなたの本を読まなかったら、あの日、
弟と再会して昼食をとることはなかったでしょう」
といい、心から感謝してくれたのでした。
この和解には、とりわけ重要な意味がありました。
2人が昼食をともにした1週間後、
弟さんは交通事故で亡くなってしまったからです。
この話を聞いておよそ十年経った頃、
私は体調を崩し、専門医を紹介されました。
診療室に入ると、その医者は自己紹介して、
「私を覚えていますか」と尋ねました。
すみません、覚えていませんと白状すると、
「弟をゆるした体験を話した者です」
と、明かしてくれたのです。
私はワークショップや講演で、
何千人もの人たちに彼の体験談を話していました。
そこで、彼に再会し、改めて感謝できることに、
とても感動したのでした。
この章では、いろいろなゆるしの実話を紹介しました。
こうした実話が、読者のみなさんが
実際にゆるすための道しるべになれば幸いです。
●神へのいちばんの近道は、ゆるすこと。
●ゆるしは過去の傷を消す消しゴム。
●死につつある人にとってだけでなく、
遺される人にとっても
最も大切なプロセスはゆるしかもしれない。
転載終了
「ゆるさなければ体調を崩す」と説いている者が、
専門医を紹介されるほど体調を崩したとは一体……(笑)

にほんブログ村
いつも、ブログの更新有難う御座います!
キリストの死の直前の言葉ですが、この記事について、どう思われますか?
http://ameblo.jp/eyeofgod/entry-11851900537.html
らしからぬ内容ですね^^;
イエスはアセンションした程の覚醒者です。
これに書かれているような傲慢さや死の恐怖とは無縁だったはずです。
イエスは贖罪神スサノオの顕現であり、その自覚もあったはずです。
イエスはヒマラヤで修行しているので、ヒマラヤ聖者でもあります。
『あるヨギの自叙伝』によると、イエスが人類の罪を背負って自ら処刑されたのは事実で、特に弟子たちのカルマを背負っていたそうです。
聖書を読めば、イエスは自ら処刑されるような言動をしています。
同じく、スサノオの御魂を持っていた王仁三郎も、自ら政府に教団を弾圧させるように仕向けていました。
イエスは使徒ユダに裏切られて処刑されましたが、「ユダの福音書」によると、ユダの裏切りはイエスの指示だったことが記されていたそうです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
これはイエスの言葉ではなく、誤訳の可能性も十分にあります。
普通に考えて、覚醒者がこのようことを言うはずがありません。
万一、思ったとしても、弟子たちの目の前で口が裂けても言葉に出して言わないでしょう。
もし本当にイエスがそう言ったのであれば、何らかの意図があったと考えるべきです。
それは、私に聞かれても知りません(笑)
あくまでも人類の贖罪なので、それは人々の心の悲痛を代弁したものかも知れません。
イエスの「変容の奇跡」というのがあり、これは半アセンションです。
ヒマラヤ聖者のババジは、崖から飛び降りて死んだ人間も蘇生させています。
イエスはアセンションやテレポーテーションで処刑を免れることは可能だったと思いますが、型示しとして自分の処刑が必要だと自覚していたから、自らの意志で十字架に架かったはずです。
そして、死後復活してアセンションすることも分かっていたはずです。
私はイエスの信者ではないので、決してイエスを神格化したいわけではないですが、非常に高度なヒマラヤ聖者だったと思っています。
また、イエスは非常に優れた予言者でもあったので、目先の自分の運命くらいは分かっていたはずです。
自慢ではありませんが、私なんて明日のことすら分かりません(笑)
少なくとも、水の上を歩ける程の聖者を甘く見ない方がいいですね。
「信じれば山をも動かせる」と言いながら実演しなかったのはハッタリだったと言えますけど(笑)
以下のような記事を発見しました↓
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/072wagakami.htm
私の見解と似ていますが、より的確に真相を突いているように思います。