2014年05月19日

ゆるしのステップと実践

次は、第7章からの転載である↓

ゆるしの準備――信念を変える

ゆるしのための準備は、まず心を静め、
日々のせわしなさから脱することから始めます。

祈りは役に立つでしょう。
瞑想をする方なら、瞑想から始めるのもいいかもしれません。
瞑想とは、心を安らかにすることにほかなりません。

ハイキングをしていて、水底が見えるほど
澄んだ池に差し掛かった経験はないでしょうか。

安らいだ心の象徴として、そんな池をイメージしましょう。
静かで喜びと愛に満ちた状態は、心の本来の姿です。

せめぎ合う思いも裁く思いもなく、
怖れもないと、心は澄み渡ります。

心を安らかにしたいなら、山の澄んだ池、
あるいは静けさを象徴するものを、イメージすることです。

そして毎日、他人や電話に邪魔されない場所で、
五分から二十分間、そのイメージに心の焦点を合わせます。

自然の中で時間を過ごし、自然との一体感を味わうことも、
素晴らしく助けになるでしょう。

ただ邪魔されずに、静かに過ごすだけでいいのです。
テレビもラジオも消し、おしゃべりもやめます。
電話線も抜いておくといいでしょう。

身の回りを静かにすると、ゆるしに対して、
今までとは異なる見方を受け入れられるようになります。

この章では、これまで話してきたゆるしの原則をリストにしました。
「うわ、こんなにたくさん!」と驚かないで下さい。

どうぞ自分に優しく、寛大に。

くつろいでありのままの自分でいられる方法を見つけ、
それを大切にすることです。

リストの原則を読み返すときは、心を開くよう努めて下さい。

ここに掲げる考えに異議を唱えてもかまわないし、
拒否してもかまわないことを、忘れないで下さい。

ゆるしは選択です。
ゆるさなければならないという決まりはありませんし、
ゆるしの意義を信じる必要もないのです。

ただ、ゆるすゆるさないかは自分の心に決めさせて、
ゆるすと何が起きるか、ゆるさないと何が起きるかを、
じっくり観察して下さい。

・心を開き、「ゆるしについて、
もっと違う見方ができるかもしれない」と考える。

・「人間は単なる肉体ではなくスピリチュアルな存在で、
肉体は仮の宿だ」と考える。

・「生命と愛は同じもので、永遠かもしれない」と思いをめぐらす。

・「自分を哀れんでも無意味だ」と知る。

・「あら探しは無意味だ」と知る。

・「正しさ」より「幸せ」を選ぶ。

・被害者としてふるまうのをやめる。

・心の安らぎだけを目標にする。

・出会う人みんなを、ゆるしを教えてくれる教師と見なす。

・「恨み続けたり、絶対にゆるさないと決めつけると
自分が苦しいだけだ」と考える。

・いま、この瞬間の苦しみは、
自分自身の思いが生み出していると認める。

・「心に浮かべる思いは、自分で選べる」と信じる。

・「怒りにしがみついていると本当の望みは叶わない」と信じる。

・何かを決める時は、怖れではなく愛に基づいて決める。
何よりも自分自身のために。

・「自分を罰するなんて無意味だ」と考える。

・「私は幸せになる権利がある」と信じる。

・「相手は私を攻撃したのではなく、
恐怖に怯えて愛を求めているのだ」と考える。

・出会う人みんなの中に、無邪気な子供の光を見いだす。
見かけがどうあろうと、どんなにひどいことをした人であろうと。

・自分の中に無邪気な子供の光を見いだす。

・過去の傷ではなく、恵みを数える。

・裁きの思いを手放すとどんなに素晴らしいことがあるか探す。

・「愛はこの世で最も素晴らしい特効薬だ」と信じる。

・出会う人すべてを、忍耐を教えてくれる教師と見なす。

・「ゆるしが幸せの鍵だ」と信じる。

・「記憶を消す霊薬」で、愛された記憶以外を消し去れると信じる。

・すべての出会いが神聖だと理解する。
目の前にいる人を、イエス、ブッダ、モハメド、マザー・テレサなど、
賢明でスピリチュアルな教師とみなす。
表面的にはどうあれ、すべての出会いを神聖なものとみなし、
何かを学ぶ機会としてふるまう。

・「他人や自分を傷つけたり罰したりするのは無意味だ」と考える。
ゆるしの目的は他人を変えることではなく、
心の中でせめぎ合う否定的な思いを変えることだと思い出す。


転載終了

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私の解説は入れないつもりだったが、少し口を挟んでおきたい。

「ゆるしのための準備は、まず心を静め、
日々のせわしなさから脱することから始めます」


これは基本的なことであり、瞑想状態である必要がある。

自我を沈静化させて感情を外し、
客観的に観ることが内観の基本だからである。

この「ゆるす」ということも内観の一部であり、
自我(エゴ)でゆるしは成し得ない。

だからと言って、超越的な瞑想状態になる必要はなく、
目を閉じて簡易腹式呼吸(吐7秒・吸7秒・止7秒)を
3回程度するだけでアルファ波が出てくる。

ホ・オポノポノも同じで、潜在意識に働きかけるわけだから、
脳波がベータ波で自我全開の状態では効果は小さくなるだろう。

「テレビもラジオも消し、おしゃべりもやめます。
電話線も抜いておくといいでしょう」


テレビは脳を破壊する周波数を出しているので、
普段からあまり見ない方が良いが、
CD「つきを呼ぶ音楽」シリーズは右左脳のバランスをとり、
アルファ波を発生させるので瞑想にも最適である。

今まで何十人かの知人や読者にプレゼントしてきたが、少し前に
「反抗的だった息子に笑顔が多くなった」という報告があった。

電話については、私は携帯しか持っていないが、
日常的に着信音を消していて、バイブにもしていない。

さて、リストについてだが、
「うわ、こんなにたくさん!」と驚いた(笑)

「ここに掲げる考えに異議を唱えてもかまわないし、
拒否してもかまわないことを、忘れないで下さい」


とのことだが、それはその通りで、自分で納得して
賛同できることだけをピックアップすればいいと思う。

だが、共感できない項目に対しても一応は考えて、
理解するように努めてみるのが良いだろう。

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リストの一部について、私の解説や異論を唱えておきたい。

・「生命と愛は同じもので、永遠かもしれない」と思いをめぐらす。

愛は永遠の生命エネルギーなので同一のものだと思って良いが、
科学的に言えば、愛は「陽子」であるらしい。

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・「自分を哀れんでも無意味だ」と知る。

同様に、自分の投影である他者を哀れむのも無意味である。
では、なぜ他者救済するのかというと「慈悲」である。

一般的にいう愛と「真の愛」が異なるように、
一般的にいう哀れみと「慈悲」も異なる。

全く異質のものとも言えないが、一般的にいう愛は
「真の愛」の断片に自我が結びついたものである。

簡単に言えば、3次元の愛と5次元の愛、
または人間の愛と神の愛の違いだと言えるだろう。

慈悲についても同じことが言えるが、
釈迦が説いた「慈悲」とイエスが説いた「愛」が
同一とは言えないかも知れない。

同一性のものではあるが、愛が生命エネルギーであるなら、
慈悲は万物に愛を与える真心のようなものだと言えると思う。

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・出会う人みんなを、ゆるしを教えてくれる教師と見なす。

これは、「人を許してはいけない」
と教える教師も含めた話である(笑)

捉え方の問題だが、ジェリーのように
「ゆるし」を説いている者のことではない。

いきなりナイフで切りつけてきた通り魔も、
「ゆるしを教えてくれている教師」である。

自分の家を全焼させる放火魔など、
自分に大きな被害を与える者ほど
「ゆるしを教えてくれる教師」なのだ。

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・いま、この瞬間の苦しみは、
自分自身の思いが生み出していると認める。


その通りで、苦しいと思うか思わないかは自分次第である。

例えば、facebookで小学校の時の友人に、
なぜグレたのか聞かれて「イジメられたから」と答えると、
「みんなに愛されて人気者やったやんか!」と言われた。

確かにその通りで、
私が些細なことで勝手に傷ついていただけなのだ。

先輩たちからは実際にリアルなイジメに遭っていて、
恐怖と悲しみと怒りを感じていたが、
先輩たちも私の投影に過ぎないのだから、
恐怖や悲しみや怒りを感じるのは愚かしい。

いや、その時はそのような感情が出るのは仕方ないが、
それは自分の潜在意識が引き起こした出来事であり、
自分を知る為に体験する感情なのだ。

ネガティブな地獄想念は自我(悪魔)であり、先輩たちは、
私の中に悪魔が住んでいることを見せてくれた鏡だったので、
私には先輩たちが悪魔のように見えていただけなのである。

その後の人生でも私は人並みに沢山傷ついて生きてきたが、
相手に悪意があろうとなかろうと私が勝手に傷ついたに過ぎない。

もし、相手に傷つける意図があったとしても、
相手は自分の投影で、自分が傷つく体験をする必要があって、
自ら設定したドラマに過ぎないのである。

傷つくのは自我(エゴ)であり、
すべては真我に目指る為の体験なのだが、
それを理解しない限りは輪廻から抜け出すことは出来ない。

この世の人生は「夢」であって、
「他者は実在しない」ということを思えば、
自分(自我)も実在ではなく、自分が現実だと思っている
全てが幻想に過ぎないことが理解できるだろう。

それを実感として知覚・認識し始めるのが、
現実という夢から覚め始めた状態、
即ち、真我の半覚醒(悟り)である。

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・「心に浮かべる思いは、自分で選べる」と信じる。

どのような思いを選ぶかも、
ある程度は決まっているから
運命もある程度まで決まっているのだが、
変更の鍵は潜在意識の浄化である。

また、内海康満氏が説いているように、
「理解」と「悪い想念も良い想念も出さないこと」であろう。

ただ、想念も潜在意識の結果なので、
出てくるものは出てくるものであり、
潜在意識を浄化することによって自我(想念)が希薄になり、
日常的に瞑想状態になっていくのである。

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・「相手は私を攻撃したのではなく、
恐怖に怯えて愛を求めているのだ」と考える。


そのようなケースも多く見られるが、
被害妄想に過ぎないケースも多いと言える。

しかし、どのような捉え方をしようとも、
SOS(そう思ったらそう)で自分にとっては事実である。

そこで、「相手が自分の投影」だと考えることによって
「理解」に繋がり、反省と感謝で潜在意識が浄化されるのだ。

もちろん、必然的に「相手を許す」ことも含まれている。

というより、自分を許す結果として、
自分の投影である相手のことも意識せず自動的に許すことになる。

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・出会う人みんなの中に、無邪気な子供の光を見いだす。
見かけがどうあろうと、どんなにひどいことをした人であろうと。


見かけがどうあろうと……って(笑)

麻原も屋根裏なんかに隠れてバカだと思うが、
見方によっては無邪気な子供の隠れんぼのようである(笑)

いや、そのような行動のことではなく、
人生で身に付けてきた様々な観念や汚れを落とせば、
本質的には誰もが純粋無垢な赤子であり、
それが真の自己(真我)である魂なのだ。

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・「記憶を消す霊薬」で、
愛された記憶以外を消し去れると信じる。


これは解説の必要はないと思ったが、
文字通りに解釈するのは問題なので少し解説する。

「記憶の消去」はホ・オポノポノでも使われている言葉だが、
記憶そのものを消去するという意味ではなく、
「記憶のクリーニング」という意味である。

ただ、ホ・オポノポノでいう「記憶」とは、
頭にインプットされている記憶のことではなく、
潜在意識に記録されているデータのことを意味する。

従って、自分が覚えていないこと(忘れてしまったこと)
や、無数の過去世の情報も含まれている。

更に、人類の集合的無意識の情報
(アカシック・レコード)をも含むものである。

それ故に、ニュースで事件などを見ても、
自分が見た以上は自分の潜在意識の投影なので、
「自分に原因と責任がある」ということなのだ。

それで、「この事件は私の記憶の何が原因だろうか」
と問いを発するのである。

9・11のテロは自作自演だったことが暴露されているが、
それも本質的には自分の自作自演であり、
自分に原因と責任があることになる。

もちろん、人類1人1人に原因と責任があるのだが、
自分の世界においては他者は投影であり、
あくまでも自分に原因と責任があるのだ。

だが、自分に原因があると言われても、
人間としての個人的な自分に起きた(自分が起こした)
出来事ではないので、いくら内観しても原因は分からない。

それで「原因は何か」と問いを発するのだが、
その回答を知る必要はなく、「ごめんなさい」
「許して下さい」「愛しています」「ありがとう」の
4つの言葉を唱えることでクリーニングできるという。

ヒューレン博士はこの方法によって、
患者と一度も対面することなく、
重度の精神病患者を5年間で全員退院させ、
精神病棟を閉館させた実績を持っている。

精神障害も霊障だが、
隈本確の神霊治療では精神障害は対象外とされている。

そう考えると、ホ・オポノポノの効果は侮れないと思う。

隈本確の神霊治療では、
骨折や打撲や虫歯なども対象外とされているが、
実際には骨折の回復が早まったり、
打撲の痛みが5秒で治ったりしているという。

私はその自己治療法によって、過去に3回ほど虫歯を治した。

打撲や骨折や虫歯は霊障ではないが、
5次元エネルギーの作用なので霊障以外にも効果があるのだ。

だが、骨折や打撲などの怪我の原因が霊障ということはある。

霊の関与の有無は別としても、カルマの結果
(潜在意識のデータの再生)には違いないわけである。

この世の全ての現象は「投影」なのだから、
そのことは説明するまでもないと思う。

従って、怪我をした時も当然ながら、
ホ・オポノポノを唱える必要がある。

それをやらずに、「痛い」とか「ツイてない」という
悪想念を出したままにすると、それが新たなカルマとなるのだ。

個人的カルマなら勝手だが、そのカルマは遺伝子にも記録され、
子孫に遺伝するだけではなく、人類の集合的無意識にも影響し、
また想念は空間に放出されるので地球環境を破壊し、
人類を滅亡に追い込むエネルギーとなるなのだ。

大袈裟なようだが大袈裟ではなく、
例えば、物理性心理学の藏本天外氏は、
「人が一番やってはいけないことが取り越し苦労だ」
と言っている。

河野薬品の社長の河野貴希氏は、
「取り越し苦労は銀行強盗より悪い」と言っている。

それは、心配や取り越し苦労という悪想念は、
個人だけではなく一家を崩壊に導く程のエネルギーだからだ。

もちろん、心配や取り越し苦労だけではなく、
怒りも破壊エネルギーであり、
あらゆる悪想念がそのベクトルに向いている。

そう考えれば、人類全体の悪想念が、
人類滅亡に導いているということになるが、
その想念の元が潜在意識であり、
1人1人の潜在意識は集合的無意識として1つなのだ。

話を戻すが、痛いのは仕方ないが、
「痛い」というのは感情(自我)なので、
ヴィパッサナー瞑想では、
ただ「痛み」という感覚だけを認識するようにする。

私の場合だったら、「私の肉体は投影に過ぎず、
痛みも錯覚に過ぎないから痛みは消えた!次!」
という感じで処理をするだろう。

自分で勝手に怪我した場合はもちろん、
人に怪我をさせられた場合も同じである。

他者は自分の投影なので、例えば誰かに殺されたとしても、
それは自分の潜在意識のデータの再生(投影)なのだから、
本質的には「自殺」と同じことなのだ。

その観点から見れば、自分が人に自分を殺させたことになり、
殺した人こそ損な役回りの被害者とも言えることになる。

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話が長くなってしまったので、テーマを再確認しよう。

・「記憶を消す霊薬」で、
愛された記憶以外を消し去れると信じる。


この「記憶を消す霊薬」が、ホ・オポノポノでは
「ご免なさい」「許して下さい」「愛しています」
「ありがとう」の4つの言葉だが、「ありがとう」に
「ございます」を付けた方が言霊のパワーが強くなる。

文字で書く場合は「有り難う御座います」と漢字で書くと、
字義が加わって波動が高くなることが確認されている。

だが、「有り難う」の本来の意味は、読んで字の如く、
難が有った時に言う言葉である。

人に殴られたり泥棒に入られたりしても有り難う。

いや、人に殴られたり泥棒に入られたりしたからこそ
「有り難う」なのだ。

人に殴られたり泥棒に入られたりするのもカルマの結果で、
それはカルマの解消を意味する。

だから、難が有ったら「有り難う」なのだが、
そこで悪想念を出すと新たなカルマとなってしまうのだ。

「有り難う」の言霊には負の連鎖を断ち切る力があるので、
思えなくてもとりあえず「有り難う」と言っておけば良いのだ。

激怒しながら「有り難う」でも言わないよりマシで、
激怒が治まるまでホ・オポノポノを唱え続ければ良い。

もちろん、難はカルマの結果なので、
難が有ったらまずは「ご免なさい、許して下さい」である。

五日市剛氏がイスラエルの魔女に教わった話によると、
嫌なことがあったら「有り難う」、
嬉しいことがあったら「感謝します」、
というように使い分けると良いという。

だが、カルマというのは原因と結果であり、
この3次元での現象を「結果」とすれば、
本質的な「原因」は4次元の潜在意識である。

その潜在意識が顕在意識を支配しているわけだが、
逆に影響を与えることも出来るのである。

つまり、顕在意識(思考・感情)や言葉も
物質ではないので4次元エネルギーだと言えるが、
それによって潜在意識に影響を与えることが出来る。

思考や感情や言葉でネガティブ・カルマを作るのではなく、
ポジティブ・カルマを作れば良いのである。

従って、カルマの法則に従えば、
嬉しいことがあったら感謝しますではなく、
感謝することによって嬉しいことが起こるのである。

最初は感謝の気持ちが起こらなくても、
とりあえず「感謝します」という言葉を唱えれば良いのだ。

お経でも、意味を理解して感情を込めて唱えないのと同じである。

それで私は、ホ・オポノポノに「感謝します」
という言葉を付け足したのだが、前回も書いた通り
「愛・感謝」の文字を見せた水が最も美しい結晶を作る。

「感謝します」を付け足すことにより、
「愛・感謝」が含まれるということである。

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また話が長引いたので、改めてテーマを再確認しよう。

・「記憶を消す霊薬」で、
愛された記憶以外を消し去れると信じる。


ここでジェリーが言っている「記憶」が、
潜在意識を指しているかどうかは不明だが、
「ゆるし」が「記憶を消す霊薬」だと言っているのだ。

いずれにしても、ひたすらホ・オポノポノを唱えることも、
1つの効果的な方法である。

だが、記憶喪失にならない限り、
記憶そのものが消えるということはない。

愛された記憶以外を消し去ることは不可能であり、
無意味だと私は思う。

私自身、愛されたこと以外の記憶も沢山あるし、
傷ついた記憶も沢山あるが、理解をすれば、
過去に対する解釈は180度変わるものなのだ。

そして、真我が覚醒してくると、
この世界が自分の愛で満たされていることが分かるが、
その理由は簡単である。

真我は愛であり、この世界は真我が見ている夢であるなら、
この世界は愛である真我に内在していることになり、
この世界で起こる全ての出来事が愛に包まれているのだ。

戦争や天変地異でさえ愛の中での営みであり、
「愛された記憶以外を消し去る」という発想を私は否定する。

もちろん、殺人や戦争が愛の行為だと言っているのではなく、
愛の中に宇宙があって宇宙全体に愛が浸透しているのだ。

従って、人間のどのような行為も、大自然のどのような現象も、
愛から外れたものは一切ないということである。

また、人間の行為も自然現象もカルマの法則に基づいているが、
その法則も愛によって作られたものだと考えば分かりやすいと思う。

そのように捉えるなら、本質的な意味では、
人生には愛された記憶しかないということになる。

生まれてすぐに親に殺された赤ちゃんも、
幼い頃に山に捨てられて1人きりで100年間生きた老人も、
誰からも愛情を受けずに阻害された人生を送った人も、
愛されたことしかないということになる。

本質的な話をすればそういうことで、
それを感じることが出来るのが「愛感力」である。

愛は胸の奥(宇宙の外)の真我から流れてくる
5次元の生命エネルギーだが、
潜在意識が曇っているとその光を感知することが出来ず、
外側の世界(人々)にも見いだすことが出来ないのである。

それに対応する最もパワーの強い言霊は、
やはり「愛しています」であろう。

その言霊で潜在意識の曇りを浄化すると、
太陽の光(真我の愛)が差し込み、外側の世界にも投影され、
人々や自然現象など人生そのもに愛を感じるようになる。

つまり、内側から外側に放出された愛が、
再び戻って来るという愛のフィードバックで、
このエネルギーの循環に歓喜を感じ、
いつも至福を感じていられるようになるのだ。

また、言霊は内側に影響を与えると同時に、
外側にも影響を与えることを思えば、
「愛してます」という言葉を空間や人々に放射すれば、
それも必ず自分にフィードバックすることになる。

空間と自分、あるいは他者と自分に境界を持たず、
万物が一体であることを認識すれば、
フィードバックというよりも即、自分に影響を与える。

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・すべての出会いが神聖だと理解する。
目の前にいる人を、イエス、ブッダ、モハメド、
マザー・テレサなど、賢明でスピリチュアルな教師とみなす。
表面的にはどうあれ、すべての出会いを神聖なものとみなし、
何かを学ぶ機会としてふるまう。


余計なツッコミを入れるが、スウェデンボルグによると、
モハメドは地獄に堕ちていたらしい(笑)

また、私はマザー・テレサの功績は讃えるが、
真の愛を知らない人間だということを指摘してきた。

その後、「マザー・テレサの心の闇」という話を知り、
このブログでも紹介したが、若い頃の神秘体験で真の愛を体験し、
その後、その神秘体験がなくなったことで愛を見失い、
愛を求めて闇の心で夢中で奉仕活動に明け暮れていたのである。

私が思っていた通りだったが、
もちろん、マザー・テレサを批判しているわけではなく、
何のカルマか知らないが、
そのような奉仕人生を強いられることで神の道を歩み、
死後は天国に行ったそうである。

それも私が思っていた通りだった。

史上最凶の極悪人とされるヒトラーについて私は、
救世の使命を自覚した意識レベルの高い持ち主で、
死後は天国に行った可能性もあると思っていたが、
『神との対話』にもそのようなことが書かれているという。

尚、スウェデンボルグは霊界で、
歴史上の多くの有名人に会ったそうだが、
天国でも釈迦やイエスには会っていない。

それは、彼らが輪廻を解脱して、
天国を超えた5次元の世界に入ったからである。

すべての出会いを神聖なものとみなし、
何かを学ぶ機会としてふるまうことは、
全てが愛による必然・必要・ベストで、
「理解」するべき事だと自覚すれば容易に分かるだろう。

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・「他人や自分を傷つけたり罰したりするのは無意味だ」と考える。
ゆるしの目的は他人を変えることではなく、
心の中でせめぎ合う否定的な思いを変えることだと思い出す。


これも少し余計なツッコミだが、
人生に無意味なことなどなく、
他人や自分を傷つけたり罰したりすることさえ、
進化のプロセスとして必要な経験だと思う。

バシャールは「人生に意味はない」と言っているが、
それについて私は、自分の思い通りに
「理解」できるということだと解釈している。

ゆるしの目的は自分の意識進化なので、
他人を変えることが目的ではないのは当然だが、
他者は自分の投影なので、
自分が変わることで相手が変わることはよくあることだ。

だが、バシャールによると、
実際にその相手が変わったわけではなく、
別のバージョンのその人がいるパラレルワールドに
自分が移っただけらしい。

この世界観が私にはまだ認識できないのだが、
パラレルワールドの概念は量子力学でも提唱されている。

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・「人間は単なる肉体ではなくスピリチュアルな存在で、
肉体は仮の宿だ」と考える。


肉体だけではなく、肉体意識である自我も仮の姿(投影)に過ぎず、
ネガティブな感情・悪想念も影であって実在ではない。

全ては、「自分」という人間が実在している
という錯覚が生み出している弊害である。

それは死んでも同じことで、
4次元ボディの幽体も本当の自分(真我)ではなく、
単なる投影に過ぎないため、
死後も生前の想念を持ち続けることになるのだ。

他者は自分の投影だが、その自分と思っている自分さえ投影であり、
それを認識できない段階でも理解することで許しは簡単になるだろう。

カルマの法則は輪廻の世界での法則なので、
意識進化が進むとカルマの法則に縛られなくなってくるが、
原則として人間はカルマの法則に基づいて動かされている。

どうしても許すことが出来ない場合、
前世で自分が同じ事をした報いだと思えば良いだろう。

また、ここで楽になることを選択するかか、
更なる苦しみのスパイラルに入ることを選択するか……
というふうに考えてみても良いだろう。

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少し口を挟むだけのつもりが長くなってしまったが、
残り少ないので第7章の続きを載せておきたい↓

ゆるしの実践――ゆるしを選ぶ

ゆるす能力を高めるキーワードは「意欲」です。

ゆるしを実践するときは、自分自身に
「私はすべての恨みや、一見もっともな怒りを、
自分の中の最高の真実にゆだねる」と自信を持っていいましょう。

最高の真実とはあなたの根源を意味します。
これは、高次の存在とか神など、どう呼んでも構いません。

やがて、怒りは愛に変わります。
高次の存在に助けを求め、怒りを愛に変えるのは、
あなたの意欲にかかっています。

・「ゆるしたくない」という思いはブーメランのように自分に返ってくる。
そんな苦しみとはさよならすると決意する。

・ゆるしたい人に手紙を書く。
心のうちをありのままに書き、投函せずに破り捨てる。
詩を書くのも、ゆるしに役立つかもしれない。
思っていること、感じていることを、飾らず存分に表現する。

・ゆるしとはただ心の安らぎだけが目標であり、
他人を変えたり罰することではないと理解する。

・自分を傷つけた人を、
ゆるしとは何かを教えてくれる最良の教師と見なす。

・他人をゆるすとき、
実は自分がゆるされているのだという真実を思い出す。

・自分のためだけでなく他人のためにも祝福し、
祈り、そのことを大切に考える。

・ゆるすことは、その人の行動に同意するのでも、
人を傷つける行動を肯定するのでもないということを思い出す。

・ゆるしがもたらす喜びと心の安らぎを楽しむ。

●穏やかさと優しさは、ゆるしのきょうだいだ。

●ゆるせば、人生の重荷がうんと軽くなる。

●ゆるしには、早すぎることも遅すぎることもない。


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ゆるす能力って、ゆすることは能力だろうか……。
その能力を高めるキーワードが「意欲」って^^;

意欲というか、まず始めに自分の改心、
意識進化の選択を決意して宣言することがスタートだと言える。

『ゆるしを実践するときは、自分自身に
「私はすべての恨みや、一見もっともな怒りを、
自分の中の最高の真実にゆだねる」と自信を持っていいましょう。
最高の真実とはあなたの根源を意味します。
これは、高次の存在とか神など、どう呼んでも構いません』


これは、内在神である深奥の真我(ハイヤーセルフ)に
委ねるという他力本願で、どのような神仏の名前でも良いが、
それが自分に内在する「真の自己」だと認識することである。

・他人をゆるすとき、
実は自分がゆるされているのだという真実を思い出す。


これは文字通り、他人をゆるすことが
自分をゆるすことになるということだが、
私が提唱しているのはその逆の方法である。

今でこそ「他者は投影だ」としきりに言っているが、
覚醒前はそのような認識はなかった。

知識は持っていたが、
普段それを意識することはなかったと思う。

では、どのように内観していたのか……。

簡単に言えば、ひたすら自分を客観視する為に内的世界に入り、
自分の半生を時系列的に観察してチェックしていく作業である。

「自分を許すか人を許すか」ということは、
特に意識していなかったと思う。

シータ波の状態で感情を消して、
映画を観るように内観していたので、
自他の区別はほとんどなかった。

いや、区別はあるが差別はなかった。

あくまでも客観視なので、
過去の自分のことも他者と同じように観るので、
自他平等に観察していたと言える。

また、因果律が明確になってくるので、
自己反省に焦点が絞られていた。

従って、他者を無条件に許すことは自動的であり、
むしろ、謝罪によって自他共に許されという感じだ。

更に、気づきを与えてくれた他者に感謝することで、
そのステージをクリアできていた。

また、内観の基本は「反省」と「感謝」だが、
当時からホ・オポノポノは知っていたので、
全ての原因と責任が自分にあることを理解した上で、
ホ・オポノポノの言葉を採り入れていた。

一言でいえば、自分を許すことによって、
人を許すことが出来たと言えると思う。


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posted by ZERO at 23:56| Comment(0) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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