2014年05月20日

地球に生を受けた目的を達成する第一歩

最後に、エピローグを載せておこう↓

一人ひとりがゆるすことによって、
愛を遮る障害を取り除くことができれば、
私たちは想像できないほどの
喜びと平和と幸せを味わうことでしょう。

ゆるしは、神と愛と幸せに続く橋です。

ゆるしという橋を渡れば、罪悪感、責める気持ち、
恥じる気持ちに、別れを告げることができます。

ゆるしは、「愛とは怖れを手放すことだ」と教えます。
ゆるしはあなたの周りを清らかにし、心と魂を浄化します。

ゆるすことで、聖なるもの全てと繋がることが出来るのです。

ゆるしによって、私たちは自分たちより偉大な存在と繋がり、
想像や理解を超えた存在と絆を結べます。

そして、生命の神秘に安らかな心で向き合えるのです。
ゆるしは、この地球に生を受けた目的を達成する第一歩です。

愛だけを教えなさい。私たちの本質は、愛なのだから。

最後に、1998年、ボスニアで私が書いた詩を紹介しましょう。
この時ダイアンと私は、
「宗教指導者・霊的指導者の為の、ゆるしと和解」
というワークショップを行なっていたのですが、
その会場に向かう途中で書いたのです。
本書で述べたゆるしの原則を思い出せるよう、
週に一度くらい目を通すのも良いでしょう。

ゆるすということ

ゆるすことは幸せになるための処方箋
ゆるさないことは苦しむための処方箋

苦しみの原因が何であれ
苦しみにはすべて「ゆるさない」という種が
宿っていないだろうか?

復讐の念を燃やし続け
愛や共感を出し惜しみすれば
健康を害し免疫が低下することは間違いない

当然だと思われるような怒りでも
こだわりつづけていれば
神の安らぎを味わえなくなる

ゆるしとは
その行為をよしとすることではない
残虐な行為を見逃すことではない

ゆるしとは怖れに満ちた過去に
こだわりつづけるのをやめること

ゆるしとは古傷を引っかいて
血を流し続けるのをやめること

ゆるしとは過去の影に惑わされることなく
今この瞬間に100%生き 100%愛すること

ゆるしとは怒りからの解放であり
攻撃的な思いにさよならすること

ゆるしとは誰に対しても愛を拒まないこと

ゆるしとは
ゆるさないという思いから生じた
心の空洞を癒すこと

ゆるしとは
過去に何をした人でも
すべての人の中に神の光を見ること

ゆるしとは、相手の為だけではなく
自分自身のためであり
自分が犯した間違いのためであり
くすぶり続けている罪悪感と
自分を恥じる気持ちのためである

最も深い意味でのゆるしとは
愛に満ちた神から自らを
切り離してしまった自分をゆるすこと

ゆるしとは神をゆるすことであり
神は自分を見捨てたという
おそらくは間違っている考えをゆるすこと

今この瞬間にゆるすということは
もう先延ばしせずにただゆるすこと

ゆるしは心の扉を開け
感情をスピリットと一体にし
すべての人と一体にし
すべての人を神と一体にする

ゆるすのに
早すぎることはない
遅すぎることもない

ゆるすためにはどれだけの時間が必要だろうか?
それはあなたの価値観次第

絶対に無理だと信じるなら絶対に起こらない
半年かかると思えば半年かかる
一秒で済むと信じるなら一秒で済む

私は心から信じている
一人ひとりが自分も含めてすべての人を
完全にゆるせるようになったとき
世界は本当に平和になるということを


転載終了

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許すことが地球に生を受けた目的
(真我覚醒=自己実現)を達成する第一歩というのは、
ホ・オポノポノで「ご免なさい、許して下さい」から
始まるのと同じである。

著者のジェリーによると、「ゆるし」は常に
選択していかなければならないことだという。

だが、許すということは怒りを前提としている。

潜在意識が浄化されてくると、
世界観が反転して感情が希薄になり、
怒りというものを持たなくなるが故に、
何が起きても許すも許さないもなくなるのである。

爬虫類脳で不愉快に感じたり、イラッとすることは極稀にあっても、
そのような悪想念を出した瞬間にひたすら謝罪するようになるので、
人生において「ゆるし」という言葉さえ無縁になってくるのである。

もちろん、私も「許して下さい、ご免なさい」は
毎日何回唱えているか分からない程だが、
それは自分の潜在意識に対してであり、
他者に対して許すも許さないもないということである。

災難や不幸があれば、カルマが解消されたことに対して
感謝して歓喜するのが正常な人(霊止)である。

そのあたりは私もまだ修行中で、
災難や不幸があったら嬉しくはないが、
今まで書いてきたようなことは
真我の意識で常に客観視に認識し、
自我を観察しているのである。

この感覚は説明しがたいが、よく言っているように、
「ZEROという人間の人生を客観的にたの死んで観ている」
という表現がピッタリだと思う。

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『ゆるすこと』という本を題材に採り上げたが、
「許せる・許せない」というのは感情の問題であり、
自我を粉砕することが重要となる。

テーラワーダ仏教協会に「慈悲の冥想」というのがあり、
上図に示されている言葉を、
ヴィパッサナー瞑想をする前に唱えるのだが、
以下にその一部を抜粋する↓

「私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみが無くなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみが無くなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように」


汝、自他の幸福を願うべからず!
http://new-mu.seesaa.net/article/373181113.html

で書いた通り、「……ように」という願い事は、
そうでない状態を維持する祈り方なので、
過去完了形または現在進行形にするべきである↓

「私の嫌いな人々も幸せであります
私の嫌いな人々の悩み苦しみが無くなりました
私の嫌いな人々の願い事が叶えられました
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れました

私を嫌っている人々も幸せであります
私を嫌っている人々の悩み苦しみが無くなりました
私を嫌っている人々の願い事が叶えられました
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れました」


これは自我を粉砕するのに良い言葉だと思うので、
1年くらいの間、毎日、聖母に唱えさせていたが、
それなりに効果はあったようである。

私がテーラワーダ仏教協会の瞑想体験会に
潜入調査に行った時のエピソード↓

33歳の獣の死と復活 PARTU
http://jinja-bukkaku.seesaa.net/article/180996609.html

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真我覚醒によって得られる生死解決(認識の完全化)とは、
「好き・嫌い」の二元も超越するものだが、
人間として生きている以上は好き嫌いはなくならない。

私も色々なことに対して好き嫌いはあるし、
人に対しても好き嫌いはあるが、
「大好き・大嫌い」という極端な偏りはなくなった。

尚、人を許すというのは、その人を好きになることではない。

人々がいう「愛」は「好き」という感情が前提で、
「嫌い」であれば「愛」とは切り離すものである。

テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老は、
そのような愛を「愛菌」と呼んで駆除を訴えているが、
要するに「好き・嫌い」の感情は自我(エゴ)であり、
「真の愛」に「好き・嫌い」は無関係なのである。

私がこのブログで「愛」を説いていると勘違いしている人もいるが、
反キリ1の頃から一貫して「愛」を破壊することを書いてきた↓

5次元突破と愛菌の駆除
http://messiah666.seesaa.net/article/222123976.html

また、自分や他人に対して、好きだから許せるとか、
嫌いだから許せない、あるいは好きだから許せない
というのは歪んだ自我の思考である。

好き嫌いがあるのは仕方ないが、
極端な好き嫌いの偏りは精神の歪みなので、
ネオデジタル内観で修正・調整することを勧めるが、
以下の記事も参照して頂きたいと思う↓

よい想念も持たないほうがいい
http://kemono666.seesaa.net/article/250013909.html

「好き・嫌い」と真の愛と聖行為
http://new-mu.seesaa.net/article/369153492.html


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posted by ZERO at 14:04| Comment(0) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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